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第58話:王都一行、辺境の豊かさに負ける

「本日の協議は終了です。お引き取りください」


レオンハルトの低く重い声が、広間に響いた。


王太子アーサーは、屈辱に肩を震わせていた。


ヴィクトリアを王都へ連れ戻す。


その一言で、辺境の者たちが平伏するとでも思っていたのだろう。


だが、結果はどうだ。


マーサに書面の矛盾を突かれ、ルークに安全基準を盾にされ、レオンハルトには追放命令そのものを尊重しているだけだと切り返された。


そして当のヴィクトリアは、心底どうでもよさそうに、


「眠いから寝るわ」


と言い残して、本当に広間を出ていってしまった。


王太子の命令よりも、自分の睡眠を優先して。


「……っ、ふざけるな」


アーサーは、歯ぎしりするように呟いた。


しかし、もはやその場で怒鳴り散らすことすらできなかった。


なぜなら、広間の空気が完全に黒曜辺境伯領側のものになっていたからだ。


王都の護衛たちは、レオンハルトの圧に飲まれて剣の柄から手を離している。


文官たちは、マーサの書類綴りを前に、反論の言葉を完全に失っている。


アリシアだけが、ハンカチを握りしめ、悔しそうに唇を噛んでいた。


「アーサー様……。こんな扱い、あんまりですわ。王太子殿下に向かって、お引き取りくださいだなんて……」


「分かっている」


アーサーは低く答えた。


「だが、今は引くしかない」


「殿下」


王都側の老文官が、恐る恐る進み出た。


「すでに日が落ちております。外は吹雪も強くなり始めておりますし、今から防壁外へ出るのは危険かと……」


「では、どうしろと言うのだ」


「今夜は、こちらに一泊なさるのがよろしいかと」


「この辺境に泊まれと?」


アーサーの眉間に深い皺が刻まれた。


王太子である自分が、追放令嬢の暮らす辺境領の客室で夜を明かす。


その事実だけで、彼の自尊心は焼けつくようだった。


しかし、外はすでに夜。


しかも、黒曜辺境伯領の外は、王都の人間には想像もつかない極寒の魔境である。


無理に出発すれば、馬車が雪に埋まり、護衛が凍傷になり、最悪の場合、魔物に襲われる。


それくらいは、アーサーにも分かった。


「……仕方あるまい」


アーサーは、吐き捨てるように言った。


「一晩だけだ。明朝、すぐに王都へ戻る」


「承知いたしました」


マーサが、感情のない声で応じた。


「来客対応手順書、第三章、王都関係者の臨時宿泊規定に従い、客室を手配いたします」


「……手順書?」


アーサーのこめかみがぴくりと動く。


「王太子の宿泊すら、手順書で処理する気か」


「はい」


マーサは迷いなく頷いた。


「お嬢様の安眠を妨げないため、すべての来客対応は標準化されております」


「また安眠か……!」


「はい。最重要保護対象ですので」


そのあまりにも真顔の返答に、アーサーは言葉を失った。


ルークが一歩前に出る。


「王都の皆様には、東棟の客室を使っていただきやす。厠と湯殿の使い方は、入室後に係の者が説明しますんで、勝手にいじらねえようお願いします」


「厠の使い方だと?」


王都の護衛騎士の一人が、鼻で笑った。


「辺境の厠など、穴に用を足すだけだろう。説明などいるか」


ルークは真顔で答えた。


「いります。水洗式なんで」


「すい……?」


護衛騎士は、意味が分からず眉をひそめた。


「まあ、使えば分かりやす」


ルークは、それ以上説明しなかった。


こうして、王太子アーサー一行は、屈辱にまみれたまま、黒曜辺境伯領の客室へ案内されることになった。


◆ ◆ ◆


最初に異変に気づいたのは、アリシアの侍女だった。


「……あれ?」


彼女は、案内された客室へ一歩足を踏み入れた瞬間、思わず間の抜けた声を漏らした。


「寒く、ない……?」


外は、窓の向こうで猛吹雪が唸りを上げている。


王都からここへ来るまでの宿場は、どこも寒かった。


隙間風がひどく、暖炉の前だけが熱く、少し離れれば足先が凍る。


それが冬の旅の当たり前だった。


だが、この客室は違った。


部屋のどこに立っても、温かい。


暖炉には火が入っていない。


煙の臭いもしない。


それなのに、足元からじんわりと柔らかな熱が立ち上り、部屋全体を包み込んでいる。


「床が……温かい?」


侍女は、恐る恐る靴を脱ぎ、石床に足を置いた。


「っ……!」


その瞬間、彼女の顔が緩んだ。


冷え切っていた足先に、春の陽だまりのような熱が染み込んでくる。


思わず、その場にしゃがみ込みそうになる心地よさだった。


別の侍女が、慌てて小声で囁く。


「しっ。アリシア様の前よ」


「で、でも……これ、すごく……」


「分かるわ」


侍女たちは、言葉にしないまま、同じことを思っていた。


王宮の客室より、暖かい。


一方、アリシアは部屋の中央で立ち尽くしていた。


「……なによ、これ」


彼女は、震える声で呟いた。


「暖炉もないのに、どうしてこんなに温かいの?」


案内役の若い女中が、丁寧に頭を下げた。


「床下に熱を通しております。お嬢様が作られた床暖房にございます」


「ヴィクトリア様が……?」


アリシアの頬が引きつる。


「こちらの客室は来客用ですので、温度は控えめにしてあります。寒いようでしたら、壁際の調整板を一段開けてくださいませ」


「控えめ……?」


アリシアは、信じられないという顔で床を見下ろした。


これで、控えめ。


王宮の自室では、冬の夜は暖炉の前にいなければ指先が冷たくなる。


それなのに、この辺境の客室は、廊下から入った瞬間に、体の芯がほどけるように温かい。


「……ふん」


アリシアは、意地を張るように顔を背けた。


「少し温かいだけですわ。王宮の方が、ずっと華やかですもの」


だが、その声には先ほどまでの自信がなかった。


◆ ◆ ◆


王都の護衛たちが完全に敗北したのは、湯殿だった。


「……何だ、ここは」


護衛隊長は、湯気の立ち込める清潔な浴室を前に、呆然と立ち尽くした。


広い石造りの浴槽。


透き通った湯。


壁には湯気を逃がす細い通気口があり、床は滑らないよう細かく刻まれている。


隅には、汚れた湯を流す溝まで整えられていた。


そして何より、臭くない。


湿ったカビの臭いも、腐った排水の臭いも、薪の煙の臭いもない。


ただ、温かい湯気と、微かな薬草の香りだけが漂っている。


「王都の兵舎の湯殿より、ずっと綺麗だぞ……」


若い護衛が、ぽつりと漏らした。


「馬鹿、声が大きい」


隊長が叱った。


しかし、彼自身も否定できなかった。


道中、彼らは凍える宿場で、冷たい水を布に含ませて体を拭くことしかできなかった。


王都の兵舎でも、冬場に湯を使える日は限られている。


それが、この辺境では、来客の護衛にまで、当たり前のように温かい湯が用意されている。


「入ってよろしいのか?」


護衛隊長が尋ねると、案内役の兵士が頷いた。


「はい。湯は循環していますが、汚れたまま入られるとろ過槽に負担がかかりますので、先に体を流してからお願いします」


「ろ過槽……?」


「湯を綺麗に保つ仕組みです。使い方は壁の板に書いてあります」


護衛隊長は、壁に掛けられた説明板を見た。


絵付きで、手順が書かれている。


一、入浴前に体を流すこと。


二、浴槽内で布を洗わないこと。


三、泥や血を落としてから入ること。


四、湯殿内で大声を出さないこと!!

 お嬢様の安眠を妨げる恐れあり。


最後の一文だけ妙に強い。


「……何なんだ、この領地は」


隊長は、呆然と呟いた。


だが、その数分後。


彼も、部下たちも、湯に肩まで浸かり、完全に表情を溶かしていた。


「あぁぁ……」


「生き返る……」


「王都に戻りたくねえ……」


「馬鹿、滅多なことを言うな」


「でも隊長、正直、戻りたいですか?」


「……黙って入れ」


隊長は目を閉じた。


答えなかった。


それが答えだった。


◆ ◆ ◆


さらに決定的だったのは、厠である。


王都の文官の一人が、恐る恐る扉を開けた瞬間、彼は衝撃のあまり固まった。


「……臭くない」


それが、第一声だった。


便槽の腐臭がしない。


アンモニアの刺激もない。


床は乾いており、白い陶器の器には澄んだ水が張られている。


壁には、やはり使い方の説明板があった。


用を足した後、横の取っ手を引くこと。


紙以外を流さないこと。


異常があれば係に連絡すること。


文官は、半信半疑で取っ手を引いた。


ジャーーーーッ!


「うわっ!?」


勢いよく流れた水が、器の中を渦巻きながら洗い流していく。


そして、しばらくすると、また底に綺麗な水だけが残った。


文官は、しばらくその場に立ち尽くした。


「……王宮より、清潔だ」


思わず漏れたその言葉に、後ろに並んでいた別の文官がぎょっとする。


「おい、聞かれたらまずいぞ」


「だが、事実だろう」


「それは……そうだが……」


二人は黙り込んだ。


王都の貴族街ですら、冬場の厠はひどい。


臭いを誤魔化すために香を焚くが、それは臭気と香料が混ざるだけで、根本的な解決にはならない。


だが、この辺境の厠には、悪臭そのものが存在しなかった。


それが、彼らにとっては、王宮の黄金の装飾よりも衝撃的だった。


◆ ◆ ◆


夜の食事で、王都一行は完全に沈黙した。


広間に運ばれてきた料理を前に、誰もが言葉を失ったのである。


まず、湯気を立てる温かな肉料理。


肉は柔らかく煮込まれ、脂と香草の香りが立ち上っている。


添えられているのは、色鮮やかな根菜と、濃厚な肉汁を吸った麦。


次に、焼き立ての白いパン。


表面は薄く香ばしく、中は手で割るとふわりと湯気が立つほど柔らかい。


そして、中央の大皿に盛られた生野菜のサラダ。


青々としたレタス。


赤く弾けそうな小粒のトマト。


薄切りの玉ねぎ。


瑞々しい人参。


澄んだ油と岩塩、そして柑橘の香りが、鮮烈に鼻をくすぐる。


王都の者たちは、全員、同じことを思った。


王宮の晩餐より、豊かだ。


「……こんなもの」


アーサーが、低く呟いた。


「辺境の見せかけだ。王太子である私を懐柔するために、蓄えを吐き出しただけだろう」


その言葉に、近くの給仕がきょとんとした顔をした。


「いえ。本日の通常献立でございます」


「通常……?」


アリシアの声が裏返った。


「これが?」


「はい。来客用ですので、少し品数は増えておりますが、兵舎でも白パンと温菜、温室野菜は毎日出ております」


王都の護衛たちが、同時に顔を上げた。


兵舎でも。


毎日。


その二つの言葉が、彼らの心を深く刺した。


王都の兵舎では、冬の食事は硬いパンと塩気の強いスープが基本である。


野菜など、ほとんど形を失った根菜が入っていれば上等だ。


それがこの辺境では、兵士にまで白パンと温室野菜が出る。


「……あり得ん」


アーサーは吐き捨てた。


だが、その直後。


アリシアが、震える手でトマトを一つ口に運んだ。


ぷちり。


皮が弾け、果汁が口いっぱいに広がる。


アリシアの目が、見開かれた。


「……っ」


彼女は、何も言わなかった。


ただ、次のトマトへ手を伸ばした。


そしてレタスを食べる。


白パンをちぎる。


肉料理の汁をパンで拭って口へ運ぶ。


悔しそうに眉を寄せているのに、手が止まらない。


「アリシア?」


アーサーが呼ぶ。


「な、何でもありませんわ」


アリシアは慌てて微笑んだ。


「少し……少しだけ、味見をしただけです」


しかし、その皿はすでに半分以上空になっていた。


アーサーは顔をしかめた。


「この程度の料理で……」


そう言いながら、彼も肉を一切れ口へ運んだ。


柔らかい。


噛むと、肉汁がじゅわりと広がる。


道中の硬い干し肉とはまるで違う。


王宮で出された、塩辛く乾いた肉とも違う。


温かく、柔らかく、体に染みる味だった。


次に、パンを食べる。


歯が、抵抗なく沈む。


柔らかい。


白く、甘い。


アーサーの手が、ほんの一瞬止まった。


「……ふん」


彼は、わざと不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「まあ、食べられなくはない」


その言葉とは裏腹に、次の一切れに手が伸びていた。


王都の文官たちは、もっと正直だった。


「……美味い」


「温かい料理とは、こんなにも人を黙らせるものなのか」


「このパン、柔らかい……」


「帰りの保存食を思うと、もう泣きそうです」


護衛の一人は、サラダを食べながら小声で呟いた。


「俺、転属願い出せないかな……」


「やめろ。聞かれたら反逆扱いだぞ」


「でも隊長、この領地なら毎日風呂に入れて、飯も温かくて、厠も臭くないんですよ」


「……黙って食え」


隊長は、先ほどと同じ言葉を繰り返した。


だが、彼の皿も綺麗に空になっていた。


◆ ◆ ◆


その夜。


アーサーは、客室のベッドの上で目を開けたまま、天井を睨んでいた。


腹は満たされている。


部屋は暖かい。


足元からじんわりと熱が上がり、毛布の中はまるで春のようだ。


外では吹雪が吹いているはずなのに、音はほとんど聞こえない。


隙間風もない。


煙の臭いもしない。


王宮より、快適だった。


その事実が、何よりも屈辱だった。


「……認めん」


アーサーは、低く呟いた。


「こんなもの、認めてたまるか」


彼は王太子である。


王都こそが王国の中心。


王宮こそが最上の場所。


辺境など、王都から捨てられた者が凍えて暮らす、貧しい土地であるべきだった。


それなのに。


この客室は、王宮より暖かい。


この厠は、王宮より清潔だ。


この食事は、王宮より美味かった。


そして、それらの中心には、彼が追放したヴィクトリアがいる。


「……あの女が」


アーサーの拳が、毛布の上で震えた。


「あの女が、私の知らないところで……」


怒りと屈辱が胸を焼く。


だが、体は正直だった。


温かい床。


満腹の胃。


静かな部屋。


清潔な寝具。


そのすべてが、王都までの疲労を容赦なくほどいていく。


「私は……眠るつもりなど……」


そう呟いた数分後。


王太子アーサーは、深い眠りに落ちていた。


朝まで、一度も目を覚まさずに。


◆ ◆ ◆


翌朝。


アーサーは、鳥の声ではなく、遠くで静かに動く使用人たちの気配で目を覚ました。


しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


体が軽い。


頭が妙にすっきりしている。


ここ数日、道中の揺れる馬車と寒い宿で、まともに眠れなかった。


それが一晩で、嘘のように回復していた。


「……くそ」


アーサーは、思わず悪態をついた。


よく眠ってしまった。


敵地と見なすべき辺境で。


ヴィクトリアの築いた客室で。


王宮よりも深く、安らかに。


それが、何よりも許せなかった。


身支度を整え、朝食の席に向かうと、すでにアリシアが座っていた。


彼女の前には、またも瑞々しいサラダと白パン、温かな卵料理が置かれている。


「アリシア」


アーサーが呼ぶと、アリシアはびくりと肩を震わせた。


彼女の頬は、ほんのり赤い。


皿の上のパンは、すでに半分なくなっていた。


「……食べていたのか」


「ち、違いますわ!」


アリシアは慌ててナプキンで口元を拭った。


「これは、その……毒見ですわ。アーサー様に危険なものが出されていないか、私が先に確認を……」


「そうか」


アーサーは、冷たい目でサラダを見た。


そして、結局、席についた。


温かいスープが運ばれる。


焼き立てのパンが置かれる。


香草をまぶした肉と、採れたての野菜が添えられる。


アーサーは意地で無言を貫いた。


だが、食べた。


一口ごとに、屈辱が積もる。


美味い。


それを認めたくない。


だが、王宮の保存パンより、圧倒的に美味い。


アリシアも同じだった。


「こんなの……こんなの、辺境の料理ですのに……」


そう呟きながら、トマトを口へ運ぶ手は止まらない。


「王宮の料理長が本気を出せば、もっと……もっと……」


言いながら、白パンをスープに浸して食べる。


その様子を、王都の文官たちが気まずそうに見ていた。


彼らの皿も、全員きれいに空だった。


そこへ、扉が静かに開いた。


眠そうな顔のヴィクトリアが、ふわふわのガウンを羽織ったまま入ってきた。


「……おはよう」


彼女は大きく欠伸をした。


「昨夜は静かだったから、よく眠れたわ」


アーサーの顔が、ぴくりと引きつる。


ヴィクトリアは、王都一行の前に並んだ空の皿を見た。


次に、暖かい客室で一晩ぐっすり眠ったせいか、妙に血色のよくなった王都の者たちを見た。


そして、首を傾げる。


「ね? 王都よりこっちの方が快適でしょう?」


広間の空気が、凍った。


王都の護衛たちは、否定できずに視線を伏せた。


侍女たちは、気まずそうにパンの屑を指先で払った。


文官たちは、ただ黙っていた。


アリシアは、悔しさで顔を真っ赤にしながら、それでも最後のトマトを飲み込んだ。


アーサーだけが、椅子の肘掛けを握りしめていた。


「……黙れ」


絞り出すような声だった。


「こんなもの……王都に戻れば、いくらでも……」


「ないでしょう?」


ヴィクトリアは、眠そうに言った。


「昨日、あなたたち、すごい勢いで食べていたもの」


「……っ!」


「それに、朝までぐっすり眠っていたみたいね。顔色が昨日よりずっといいわ」


アーサーの顔が、屈辱で真っ赤になった。


彼は、何も言い返せない。


身体が、すでに敗北を証明している。


辺境の暖かさに。


清潔さに。


食事に。


静けさに。


深い眠りに。


王都の誇りは、彼の舌と胃と睡眠によって、完膚なきまでに裏切られていた。


「……出発する」


アーサーは、椅子を乱暴に引いて立ち上がった。


「すぐに王都へ戻るぞ」


アリシアが慌てて立ち上がる。


「アーサー様、でも、朝食がまだ……」


「戻ると言っている!」


その怒声に、アリシアはびくりと肩を震わせた。


だが、彼女の視線は未練がましく皿の上の白パンに残っていた。


ヴィクトリアは、心底どうでもよさそうに欠伸をした。


「帰るなら、道中寒いから気をつけてね。あと、王都の保存パンは硬いから、歯を折らないように」


「ヴィクトリア……!」


アーサーは、屈辱に震えながら彼女を睨みつけた。


だが、ヴィクトリアはすでに興味を失っていた。


「じゃあ、私は寝直すわ。見送りはしないから、適当に帰ってちょうだい」


そう言って、彼女は本当に背を向けた。


王太子が帰るというのに。


王都一行が屈辱に震えているというのに。


まるで、どうでもいい来客が帰るだけのように。


アーサーは、その背中を睨み続けた。


彼は理解していた。


この一泊で、自分たちは負けたのだ。


剣でも、言葉でも、命令でもない。


生活そのものの差で。


王都が、辺境に負けた。


王太子である自分が、追放した令嬢の築いた楽園に、身体ごと屈服した。


だが、彼は認めなかった。


認めるはずがなかった。


「……帰るぞ」


アーサーは、低く命じた。


「王都へ戻る」


ただし、それは諦めではない。


彼の胸に渦巻いていたのは、敗北を受け入れる冷静さではなく、さらに濁った執着だった。


なぜ、あの女だけが。


なぜ、辺境だけが。


なぜ、王都より豊かな暮らしを。


その問いは、反省には向かわない。


ただ、もっと強く、もっと醜い所有欲へと変わっていく。


黒曜辺境伯領の門が開き、王都の馬車が外へ出る。


防壁の内側にあった温かな空気は、そこで途切れた。


途端に、凍える風が馬車を叩きつける。


アリシアが小さく悲鳴を上げ、護衛たちが肩をすくめ、文官たちが名残惜しそうに防壁の内側を振り返る。


アーサーだけは、振り返らなかった。


振り返れば、自分が何に負けたのかを、認めてしまいそうだったからだ。


王都へ戻る馬車の中で、彼は固く拳を握った。


「ヴィクトリア……」


低く、押し殺した声が漏れる。


「あの地も、あの技術も、あの豊かさも……本来は、私のものだ」


その歪んだ決意を乗せて、王都一行の馬車は、再び寒く荒れた街道へと進んでいった。

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