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第57話:黒曜辺境伯領、王太子の命令を拒否する

「殿下」


レオンハルトの低い声が、広間の空気を震わせた。


「今のお言葉、正式な拉致宣言と受け取ってよろしいか」


その瞬間、来賓宿舎の広間に、氷のような沈黙が落ちた。


王都から同行してきた護衛騎士たちが、思わず剣の柄に手をかけかける。


だが、黒曜辺境伯領の兵士たちは動かなかった。


ただ、静かに、無言で、王都側の一挙手一投足を見ている。


その静けさが、かえって恐ろしかった。


「ら、拉致だと……?」


アーサーは、信じられないという顔でレオンハルトを睨みつけた。


「貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか。私は王太子だぞ。ヴィクトリアは、かつて私の婚約者だった女だ。その女を王都へ戻せと言っているだけだ!」


「かつて、でしょう」


マーサが、静かに口を挟んだ。


銀縁眼鏡の奥の目が、冷たく光っている。


「現在、ヴィクトリアお嬢様と殿下の間に婚約関係は存在しません。加えて、お嬢様は殿下ご自身の命により、王都より追放された身です」


「黙れ、文官風情が!」


アーサーが怒鳴る。


「王太子である私が、戻れと言っているのだ! 王都で何が足りていないか、お前たちも分かっているだろう! ヴィクトリアが戻れば、王都の帳簿も、街道も、食糧も、すべて元通りになる!」


「それはつまり」


マーサは、書類綴りを胸に抱えたまま、淡々と言った。


「王都が現在、ヴィクトリアお嬢様の労働力を必要としている、という意味ですね」


「当然だ!」


「では、それは保護ではなく、労働力の召し上げです」


アーサーの顔が引きつった。


「言葉を選べ!」


「正確な言葉を使っております」


マーサは一歩も引かない。


「殿下は先ほど、温室、防壁、下水、財務帳簿の開示を命じました。しかし、それが通らないと見るや、今度はお嬢様ご本人を王都へ連れ戻すとおっしゃった。つまり、施設や記録ではなく、お嬢様という個人そのものを王都の不足分を埋めるための道具として扱っている」


「違う!」


アーサーは叫んだ。


「私は、ヴィクトリアに本来の立場を思い出させてやろうとしているだけだ! あの女は、私の隣で、王家のために働くべきだった!」


「でも、あなたが追放したのでしょう?」


私が、眠気をこらえながら口を挟んだ。


広間の全員の視線が、私へ集まる。


正直、もう帰って寝たい。


さっきから怒鳴り声ばかりで頭が痛いし、アリシアの香水は甘すぎるし、王都の護衛たちは金属鎧の音をカチャカチャ鳴らすし、全体的に非常に不快である。


「あなたが言ったのよね。北の最果てへ永久追放してやる、そこで泥にまみれて一生を終えるがいい、って」


アーサーの表情が固まった。


私は首を傾げる。


「命令を守って辺境にいるのに、どうして怒られなきゃいけないの?」


「……っ」


王都側の文官たちが、気まずそうに視線を伏せた。


アーサーは唇を震わせる。


「そ、それは……あの時は、お前が反省すると思って……」


「反省?」


私はさらに首を傾げた。


「王都は寒いし、臭いし、食事が不味いもの。戻る理由がないわ」


「王都を侮辱する気か!」


「事実を言っただけよ」


「ヴィクトリア様!」


アリシアが、震える声で叫んだ。


彼女は目に涙を浮かべ、胸の前で手を握りしめている。


「王太子殿下が、わざわざお情けをかけてくださっているのですわ! 一度は追放された身でありながら、王都へ戻る機会を与えてくださっているのに、それを拒むなんて……あまりにも傲慢です!」


「お情け?」


私は、思わず眉をひそめた。


「私を戻して、王都の書類仕事と食糧管理と下水と街道と帳簿を全部やらせるのが、お情けなの?」


「そ、それは……王家に仕える名誉ですわ!」


「いらないわ。名誉では睡眠時間は増えないもの」


「なっ……!」


アリシアは絶句した。


「それに、私はもう働きたくないの」


私は、きっぱりと言い切った。


「私は十分すぎるほど働いたわ。寒い王都へ戻って、硬いパンを齧りながら、誰かの不始末を徹夜で片づける生活なんて二度とごめんよ。私はここで、暖かい部屋と美味しいご飯と静かな昼寝を守って暮らすの」


「そんな理由で、王太子の命令を拒むというのか!」


「私にとっては、それが一番大事なのよ」


私は欠伸を噛み殺した。


「あと、今の私はあなたの婚約者でも、王都の文官でも、厨房係でも、土木係でもないわ。ただの追放された令嬢よ。追放された人間を、都合が悪くなったから戻れと言われても困るわ」


「ヴィクトリア……!」


アーサーの声が、怒りと屈辱で震える。


その時、マーサが静かに書類綴りを開いた。


「殿下。ここで、確認すべき書面がございます」


「何だ」


「ヴィクトリアお嬢様の追放命令書の写しです」


その言葉に、アーサーの顔がわずかに強張った。


マーサは、丁寧に保管された一枚の羊皮紙を取り出した。


端は少し傷んでいるが、王宮の印章と、当時の王太子名義の署名がはっきりと残っている。


「なぜ、それを……」


アーサーが低く呟く。


「領地へ到着した時点で、お嬢様の身分と処遇を確認するため、必要書類として保管いたしました」


マーサは淡々と答えた。


「この命令書には、こう記されています」


彼女は、羊皮紙の一節を指で押さえた。


「ヴィクトリア・アークライトを王都より永久に追放し、北方黒曜辺境伯領にて蟄居せしむる。以後、王都への帰還を禁ずる」


広間が、静まり返った。


マーサの声だけが、やけにはっきりと響く。


「つまり、殿下」


彼女は眼鏡を押し上げた。


「ヴィクトリアお嬢様の王都帰還を禁じているのは、他ならぬ殿下ご自身の命令です」


アーサーの顔から、血の気が引いた。


「そ、それは……」


「しかも『永久』とあります」


マーサは容赦なく続けた。


「期限の定めはありません。条件解除の文言もありません。反省した場合の帰還許可も、王家の都合による再召喚条項も、何ひとつ記されておりません」


王都側の文官が、こっそりと顔を青くした。


彼らも、分かってしまったのだ。


これは、今のアーサーにとって最悪の書面である。


かつて怒りに任せて出した追放命令。


ヴィクトリアを遠ざけ、貶め、二度と戻らせないために書かせた文言。


それが今、皮肉にも、アーサー自身の要求を真っ向から否定している。


「殿下の現在のご命令は、この追放命令書と矛盾しています」


マーサは羊皮紙を掲げた。


「どちらの命令を優先すべきでしょうか。過去の正式命令ですか。それとも、いま口頭で発されたご意向ですか」


「マーサ」


私は眠そうに口を挟んだ。


「難しい言い方をしないで。要するに、私が王都へ戻ったら命令違反になるのよね?」


「はい。文面上は、明確に」


「じゃあ、無理ね」


私はアーサーを見た。


「私、ちゃんと命令を守って辺境にいるだけなのだけれど」


「……っ!」


「それなのに、どうしてまた怒られなきゃいけないの?」


アーサーは、何も言えなかった。


彼の口は何度か開いたが、そこから言葉は出てこない。


アリシアが、慌てたように声を上げる。


「で、でも! 王太子殿下がそうお望みなら、新しい命令を出せばいいだけではありませんか!」


「新しい命令を出すには、古い命令の撤回手続きが必要です」


マーサが即座に切り返した。


「加えて、追放処分の根拠となった当時の罪状、処分内容、王家側の判断過程を再確認する必要があります」


「な、なぜですの?」


「命令を撤回するということは、過去の処分に誤りがあった可能性を認めることになるからです」


その言葉に、アリシアの顔がこわばった。


マーサは、淡々と続ける。


「もしヴィクトリアお嬢様に落ち度がなかったにもかかわらず追放したのであれば、王家は公爵家およびお嬢様ご本人に対し、名誉回復と補償を行う必要があります」


「ほ、補償……?」


「当然です。身分、婚約、居住権、財産、名誉、王都での地位。それらを奪ったのですから」


アーサーの肩が、ぴくりと震えた。


マーサは、一切の慈悲なく畳みかける。


「さらに、今回お嬢様を王都へ戻す目的が、王都の行政、財務、食糧、土木、衛生の立て直しであるなら、労働条件、権限、報酬、責任範囲も明記しなければなりません」


「報酬だと!?」


アーサーが叫ぶ。


「王家に仕えるのに、報酬を求める気か!」


「王家が一度不要と断じ、永久追放した人材を再雇用するのです。無償で働かせる根拠はありません」


「さ、再雇用……!」


アリシアが目を丸くした。


「ヴィクトリア様を、使用人のように扱うおつもりですの!?」


「扱おうとしているのは殿下です」


マーサは冷たく言った。


「私は、その曖昧な扱いを明文化しようとしているだけです」


広間の空気が、重く沈む。


王都側の文官たちは、完全に沈黙していた。


彼らは口を挟めない。


なぜなら、マーサの言っていることがあまりにも正論だったからだ。


アーサーは、屈辱に肩を震わせながら、私を睨んだ。


「ヴィクトリア……。お前が、この女に言わせているのか」


「いいえ」


私は即答した。


「私は早く寝たいから、できれば誰にも喋ってほしくないわ」


「ふざけるな!」


「ふざけてないわ。本気よ」


本気で眠い。


そろそろ限界である。


「殿下」


今度はレオンハルトが、静かに前へ出た。


大剣を抜いてはいない。


だが、彼が一歩進むだけで、王都側の護衛たちが半歩下がった。


「ヴィクトリアは、王都が不要と断じ、この地へ追放した人物です」


その声は低く、よく響いた。


「貴方がたは、彼女を『冷酷な女』『王太子妃にふさわしくない女』『辺境で一生を終えるべき女』と断じた。そうして、彼女をこの黒曜辺境伯領へ送った」


レオンハルトの視線が、アーサーを貫く。


「ならば今さら、王都の都合が悪くなったから返せ、働け、従えというのは、あまりにも虫が良すぎる」


「辺境伯……貴様、王太子に逆らう気か」


「いいえ」


レオンハルトは、静かに首を振った。


「私は、殿下ご自身の命令を尊重しているだけです」


「何だと」


「ヴィクトリアを王都へ戻すな。そう命じたのは殿下です。ゆえに我々は、その命令を忠実に守ります」


「……っ!」


アーサーの顔が、怒りと恥辱で歪んだ。


レオンハルトは、さらに一歩前へ出る。


「それに、今のヴィクトリアは黒曜辺境伯領の保護下にあります。この地で暮らし、この地の生活基盤を整え、この地の民に必要とされている」


彼は、はっきりと言った。


「王都が不要と捨てた人材を、黒曜辺境伯領は必要としています。ゆえに、渡せません」


その言葉に、ルークが力強く頷いた。


「お嬢様は、この領地の命綱ですぜ」


マーサも、書類綴りを胸に抱いたまま、冷静に続ける。


「そして、お嬢様ご本人が帰還を拒否されています」


私は、こくりと頷いた。


「嫌よ。もう私は働きたくないの」


王都側の者たちが、何とも言えない顔になった。


侮辱。


しかし、否定しきれない侮辱。


先ほど彼ら自身が、黒曜辺境伯領の温かい客室、臭わない厠、柔らかな白パン、新鮮なサラダを味わってしまったからだ。


王都よりも快適。


その事実が、彼らの口を封じていた。


「ヴィクトリア……」


アーサーは、震える声で私の名を呼んだ。


「お前は、本当に私に逆らうのか」


「逆らうも何も」


私は、もう一度欠伸を噛み殺した。


「あなたの命令通り、王都に帰らないだけよ」


静寂。


これ以上ないほど明快な理屈だった。


アーサーは、何も言えなかった。


自分が出した追放命令。


自分が吐いた侮辱。


自分が押しつけた永久追放。


そのすべてが、今この場で、彼自身を縛る鎖となっていた。


「……くっ」


アーサーの拳が震える。


王太子である自分が命じた。


だが、辺境伯は従わない。


文官は書面で拒む。


現場監督は安全を盾に退ける。


そしてヴィクトリア本人は、ただ眠そうに「嫌よ」と言うだけ。


怒鳴れば怒鳴るほど、自分の方が滑稽に見える。


そのことに、彼もようやく気づき始めていた。


「殿下」


マーサが、静かに追い打ちをかけた。


「以上により、ヴィクトリアお嬢様の王都帰還要求は、現時点では受理できません」


「受理できない、だと……」


「はい」


マーサは、書類綴りを閉じた。


「理由は三つ。第一に、殿下ご自身の追放命令と矛盾すること。第二に、お嬢様ご本人が拒否されていること。第三に、黒曜辺境伯領の運営および北方防衛に重大な支障をきたすこと」


彼女は、丁寧に礼をした。


「正式に命令を改めたいのであれば、王都にお戻りのうえ、国王陛下の御署名と玉璽、追放命令撤回の根拠、名誉回復と補償案、再雇用条件、北方防衛への影響評価を添えて、改めて書面にてご提出ください」


完璧な拒絶だった。


礼儀正しく。


冷静で。


そして逃げ道がない。


アーサーの顔は、もはや怒りを通り越して蒼白になっていた。


アリシアが、悔しそうにハンカチを握りしめる。


「こんなの……こんなの、あんまりですわ……。アーサー様が、こんな辺境で恥をかかされるなんて……!」


「恥をかかされた?」


私は、ぽつりと言った。


「違うわ。自分で昔の命令に足を引っかけただけでしょう」


「ヴィクトリア様!」


アリシアが叫ぶ。


私は、もう本当に眠気の限界だった。


「話は終わりよね?」


私は椅子から立ち上がり、ガウンの裾を整えた。


「じゃあ、私は寝るわ。次に私を起こす時は、王都が臭くなくなって、ご飯が美味しくなって、暖かい部屋を用意してからにしてちょうだい」


「お、お前……!」


アーサーが何かを言おうとする。


しかし、言葉は続かなかった。


レオンハルトが、静かに彼の前へ立ったからだ。


「殿下。本日の協議は終了です」


レオンハルトの声は、低く、重い。


「黒曜辺境伯領は、ヴィクトリアの王都帰還を拒否いたします」


ルークが続く。


「お嬢様の移動は、本人の意思と安全基準を満たさない限り認められません」


マーサが締める。


「加えて、現在の命令書上、お嬢様の王都帰還は禁じられております」


三人の声が、重なるように響いた。


「よって、お引き取りください」


王太子アーサーは、完全に面目を失っていた。


王都の権威を振りかざし、追放したはずの令嬢を連れ戻そうとした。


しかし結果は、自分の命令書に足を取られ、辺境の者たちに正面から拒絶されただけ。


彼は何も奪えず。


何も命じられず。


ただ、自分が捨てたものの価値を、嫌というほど思い知らされただけだった。


私は、そんな彼の顔を見て、少しだけ首を傾げた。


何か言いたそうだが、どうでもいい。


眠いのだ。


「おやすみなさい」


それだけ言って、私は広間を後にした。


背後でアーサーが拳を震わせている気配がしたが、振り返る気にもならなかった。


王太子の屈辱よりも。


王都の面子よりも。


私にとって大切なのは、いま目の前にある、ふかふかのベッドだけだった。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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