第56話:アーサー、接収を命じるが論破される
「……誰? 私の昼寝を邪魔する非常識な人は」
寝起きの頭で、私はぼんやりと部屋の中を見回した。
来賓宿舎の広間。
壁際には、やたらと立派な服を着た王都の文官たち。
その奥には、気まずそうに視線を泳がせる護衛騎士たち。
テーブルのそばには、悔しそうに唇を噛むアリシア。
そして真正面には、顔を真っ赤にした王太子アーサーが立っていた。
「ヴィクトリア……!」
アーサーは、怒りに震える声で私の名を呼んだ。
「久しぶりに会った元婚約者に向かって、その口の利き方は何だ!」
「元婚約者?」
私は半分閉じた目で、彼の顔をじっと見る。
寝起きの視界は、まだ少しぼやけていた。
数秒ほど眺めてから、ようやく記憶が繋がる。
「ああ……。いたわね、そういう人」
「いたわね、だと!?」
アーサーの顔が、さらに赤くなる。
「王太子である私を、今さら思い出したように扱うな!」
「だって、私はもう追放された身だもの。王都の人間関係なんて、生活に不要な古い書類みたいなものよ。整理対象ね」
「なっ……!」
アーサーは絶句した。
私は欠伸を噛み殺しながら、近くの椅子に腰を下ろした。
本当なら今頃、ポカポカの自室で、羽毛布団にくるまりながら二度寝の続きに戻っているはずだった。
それなのに、どうして私は、わざわざこんな場所で、過去の不用品みたいな男と向かい合っているのか。
まったくもって理不尽である。
「用件があるなら手短にお願い。私、あと三時間は眠る予定だったの」
「王太子を前にして眠気を優先するとは……!」
「私の睡眠は、この領地ではかなり大事にされているみたいだから」
「そのようだな」
アーサーは、屈辱を噛み殺すように言った。
「門番も、文官も、辺境伯までもが、口を開けばお前の安眠、安眠、安眠だ。まるでこの領地の王は私ではなく、お前であるかのような態度だった」
「王?」
私は首を傾げた。
「そんな面倒なものになった覚えはないわ。私はただ、自分の部屋で静かに寝たいだけよ」
「戯言を言うな!」
アーサーが、ついに声を荒げた。
隣に控えていたアリシアが、胸の前で手を組み、潤んだ瞳で私を見つめる。
「ヴィクトリア様……。私、悲しいですわ。王都では皆、寒い思いをして、硬いパンや保存食で耐えておりますのに……。ヴィクトリア様は、辺境でこんなに温かく、清潔で、美味しいものに囲まれて暮らしていらっしゃるなんて」
「それの何が悲しいの?」
「え?」
「寒いなら暖かくすればいいし、臭いなら臭わないようにすればいいし、不味いなら美味しいものを作ればいいでしょう?」
私が眠たげに答えると、アリシアは言葉に詰まった。
アーサーは、彼女を庇うように一歩前へ出る。
「その態度こそ問題だ、ヴィクトリア」
「何が?」
「お前は、王家のために使うべき才を、勝手に辺境で使った」
広間の空気が、ぴくりと動いた。
ルークの眉が上がる。
マーサの銀縁眼鏡が、静かに光る。
レオンハルトは、背後で腕を組んだまま微動だにしない。
「お前は元々、私の婚約者だった。すなわち、将来は王太子妃となり、王家を支えるべき立場だったのだ。そのお前が持つ知識、手腕、技術、そしてその成果は、本来、王家のために捧げられるべきものだ」
「へえ」
「にもかかわらず、お前は追放先でその才を私的に用い、温室、防壁、下水、財務帳簿を整え、莫大な富を生み出した」
アーサーは、勝ち誇ったように顎を上げる。
「よって、王太子の名において命じる。黒曜辺境伯領に存在する温室技術、防壁技術、下水道技術、ならびに財務帳簿の一切を王家へ開示せよ」
「……」
私は眠い目を擦った。
「嫌よ」
「なっ……!」
「だって、私には関係ないもの」
「関係ないだと!?」
アーサーは信じられないという顔で叫んだ。
「それらは、お前が作ったものだろう!」
「作ったというか、眠れないとか、臭いとか、不味いとか、うるさいとか、そういう問題を潰していったら勝手に増えただけよ。今はルークとマーサとレオンハルトが管理しているわ。必要なら、そっちに聞いて」
「王太子である私が、お前の部下などに許可を求めると思うか!」
「じゃあ帰れば?」
「ヴィクトリア!!」
アーサーの怒声が広間に響く。
私は反射的に眉をひそめた。
うるさい。
本当にうるさい。
せっかくの昼寝を邪魔したうえに、耳元で怒鳴るとは、どこまで非常識なのだろうか。
「殿下」
その時、マーサが静かに前へ出た。
手には、いつもの分厚い書類綴り。
彼女は銀縁眼鏡を中指で押し上げ、アーサーへ向かって、角度の正確な礼をした。
「黒曜辺境伯領財務管理担当、マーサと申します。技術、施設、帳簿類の開示および接収に関するご命令について、確認させていただきます」
「確認?」
アーサーは不快そうに眉を寄せた。
「私は命じたのだ。確認など不要だ」
「いいえ、必要です」
マーサの声は、氷のように平坦だった。
「王家の名を用いて領地資産を移管する場合、少なくとも命令の根拠、接収対象、補償の有無、移管後の管理責任、そして辺境防衛義務への影響を明らかにしていただく必要があります」
「……何を言っている」
「まず第一に、殿下の命令は、王令ですか。それとも王太子個人の要請ですか」
アーサーの眉間に皺が寄る。
「私の命令だ」
「では、国王陛下の御署名と玉璽はどちらに?」
「王太子である私の命令で十分だ!」
「十分ではありません」
マーサは、一歩も引かなかった。
「黒曜辺境伯領は王国北方防衛を担う辺境領です。防衛、食糧、衛生、財政に関わる中核設備を移管する場合、領地運営へ重大な影響が出ます。王太子殿下の口頭命令だけで接収できる軽微な備品ではありません」
「軽微だと?」
「いいえ。軽微ではないからこそ、正式な根拠が必要だと申し上げております」
マーサは書類綴りを開き、淡々と問いを重ねる。
「第二に、接収に伴う補償はどのように行われますか」
「補償?」
アーサーが苛立たしげに聞き返す。
「王家のために使うのだ。臣下が協力するのは当然だろう」
「協力と無償接収は別です」
マーサの目が鋭く細まった。
「設備の建設、維持、運用には、領地の人員、資材、食糧、時間が投じられています。それらを王都へ移す、あるいは技術を開示して再現させる場合、黒曜辺境伯領が負担した費用と、今後失われる利益をどう扱うのか、明文化されていなければ帳簿上処理できません」
「帳簿、帳簿と……!」
アーサーは歯噛みした。
「貴様らは金の話しかできんのか!」
「金の話を曖昧にした結果、王都の冬季運営が混乱していると聞き及んでおります」
マーサの一言に、王都側の文官たちがびくりと肩を震わせた。
「第三に、管理責任です」
マーサは容赦なく続ける。
「仮に王家がこれらの設備や知識を得たとして、運用に失敗し、事故、食糧被害、下水逆流、防壁崩落などが起きた場合、その責任はどちらが負うのでしょうか」
「事故など、起こさなければいい」
「起こさないために必要なのが、管理手順と教育です」
マーサは冷たく言い切った。
「技術とは、名前を聞き、形だけを真似れば動くものではありません。温度、水位、土質、勾配、帳簿、作業員の判断基準。それらが揃って初めて安定して機能します。殿下は、それらを王都で維持できる人員と制度をご用意されていますか」
アーサーは答えられなかった。
代わりに、苛立ちを隠さず私を睨む。
「ヴィクトリアが来れば済む話だ」
「その前提が、すでに間違いです」
マーサの声が、一段低くなる。
「お嬢様は、領地の業務が一人に依存しないよう、標準作業手順書を作成されました。黒曜辺境伯領は、すでにお嬢様一人を働かせて回す段階を脱しております」
いや、働きたくないから作っただけなのだけれど。
私は心の中で小さく呟きながら、椅子の背もたれに沈んだ。
眠い。
非常に眠い。
「殿下」
今度はルークが前へ出た。
泥の染みた作業着姿だが、その背筋はまっすぐ伸びていた。
「現場のことは、俺から言わせてもらいやす」
「農兵上がりが、王太子に意見する気か」
アーサーが鼻で笑う。
ルークは怒らなかった。
ただ、真剣な顔で答える。
「意見じゃありません。事故防止の説明です」
「事故防止?」
「はい。たとえば温室を真似したいなら、ただ透明な壁を建てればいいってもんじゃありません。熱の逃げ方、水の落とし方、土の湿り具合、根の張り方、全部見て調整しなきゃいけねえ。間違えれば苗は腐るし、乾くし、病気になります」
ルークは指を折りながら続けた。
「防壁も同じです。土を盛ればいいわけじゃない。掘る場所、積む場所、粘土を固める中心、砂利を挟む位置、大岩を噛ませる角度、水の逃げ道。どこか一つ間違えれば、雨や雪解けで中から崩れます」
アーサーの顔が、わずかに引きつる。
「下水も同じ。勾配を間違えれば詰まる。水の封じが切れれば臭いが戻る。浄化する槽を適当に作れば、下流が汚れて病が出る。帳簿も同じでしょう。数字の置き場所を間違えれば、金がどこへ消えたか分からなくなる」
ルークは、王都側の文官たちへ目を向けた。
「つまり、技術を奪うなら、それを扱う現場も育てなきゃいけねえんです。なのに殿下は、何をどう動かすか知らねえまま、ただ『開示しろ』と仰っている」
「貴様……」
「そんな状態で王都へ持って帰れば、事故が起きます。死人が出ます。そうなった時、責任を取るのは誰ですか」
広間が静まり返った。
王都側の文官たちは、目を伏せている。
彼らは知っていたのだ。
今の王都には、ヴィクトリアが抜けた穴を埋めるだけの管理体制など存在しないと。
「それに」
ルークは、少しだけ声を低くした。
「お嬢様が作ったものを、仕組みも知らねえ人間が雑に使って事故を起こしたら、それはお嬢様の名を汚すことになる。俺たち現場は、それだけは絶対に許せねえ」
「ルーク」
私は、つい口を挟んだ。
「別に私の名誉とか、どうでもいいのだけれど」
「お嬢様はそう仰ると思ってました」
ルークは振り返り、真面目な顔で言った。
「でも、俺たちはどうでもよくねえんです」
やめて。
そういう重い忠誠を、寝起きの私に向けないでほしい。
「殿下」
最後に、レオンハルトが静かに口を開いた。
彼は剣に手をかけていない。
だが、その声だけで、王都の護衛たちは息を呑んだ。
「黒曜辺境伯領の防壁、温室、下水、財政運用は、すべて北方防衛と直結しております」
「北方防衛だと?」
「ええ」
レオンハルトは頷いた。
「防壁があるから、兵を無駄死にさせずに済む。温室があるから、冬でも兵と領民を飢えさせずに済む。下水があるから、病で守備隊が倒れるのを防げる。財務が整っているから、武器、防具、食糧、医薬品を切らさずに済む」
彼は、アーサーを真っ直ぐに見た。
「これらを王家へ移す、あるいは王都の都合で接収するというなら、当然、北方防衛の負担は王都が引き受けることになります」
「何?」
「防壁の維持、魔物襲来時の対応、冬季の食糧供給、負傷兵の補償、領民の保護。すべてです」
レオンハルトの声は、静かだった。
「殿下は、その覚悟をお持ちですか」
アーサーは、即答できなかった。
北方防衛。
それは王都の綺麗な広間で語るほど軽い言葉ではない。
魔物。
飢え。
吹雪。
凍傷。
疫病。
それらを、王都の者たちは遠い地の不幸として処理してきた。
だが、黒曜辺境伯領の仕組みを奪うということは、その現実に対する責任も負うということだ。
「王家のものだと言うなら、王家が守る」
レオンハルトは静かに言った。
「それが筋でしょう」
「……っ」
アーサーは拳を握りしめた。
彼の顔は屈辱で歪んでいる。
マーサに書類で詰められ。
ルークに現場の無知を突かれ。
レオンハルトに責任の重さを突きつけられた。
王太子の命令一つで、全員が平伏するはずだった。
だが、ここでは誰も崩れない。
彼らは、ヴィクトリアの顔色を窺っているわけではない。
自分たちの領地を動かす仕組みを理解し、その手順に従って、王太子の傲慢を正面から受け止めている。
アーサーにとって、それは耐えがたい屈辱だった。
「黙れ……」
彼は、低く呟いた。
「どいつもこいつも、ヴィクトリア、ヴィクトリア、ヴィクトリア……!」
アリシアが、涙目で彼の袖を掴む。
「アーサー様……。やっぱりヴィクトリア様がいるから、皆様がこんなに強気なのですわ。ヴィクトリア様が王都へ戻れば、きっと全部、元通りになりますわ」
その言葉に、アーサーの目がぎらりと光った。
そうだ。
設備を奪えない。
帳簿を開かせられない。
技術をその場で接収できない。
ならば。
その全ての源である女を、王都へ戻せばいい。
アーサーは、ゆっくりと顔を上げた。
「分かった」
彼の声は、怒りで震えていた。
「ならば、ヴィクトリア本人を王都へ連れ戻す!」
瞬間。
広間の空気が、一気に凍りついた。
ルークの表情が消える。
マーサの指が、書類綴りの表紙に食い込む。
レオンハルトの目が、静かに細められる。
そして私は。
眠気の残る頭で、その言葉を数秒かけて理解した。
「……私を?」
私は自分を指差した。
「王都へ?」
アーサーは、勝ち誇ったように言い放つ。
「そうだ。お前は元々、私の婚約者だった女だ。王太子である私が命じる。ヴィクトリア、王都へ戻れ」
広間に、重い沈黙が落ちた。
私はゆっくりと瞬きをした。
そして、心の底から嫌そうに眉をひそめる。
「嫌よ。寒いし、臭いし、ご飯が不味いもの」
その一言で、アーサーの顔がさらに赤く染まった。
だが、その次の瞬間。
レオンハルトが、一歩だけ前へ出た。
剣は抜いていない。
ただ、それだけで十分だった。
「殿下」
低く、深い声が広間を震わせる。
「今のお言葉、正式な拉致宣言と受け取ってよろしいか」
王太子アーサーの傲慢な命令は、ついに黒曜辺境伯領が最も重く定める禁忌――ヴィクトリアの安眠と自由への干渉――に触れてしまったのである。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
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