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第54話:王太子アーサー、辺境視察を決める

王都、王宮。


重苦しい冬の雲が空を覆い、窓の外では鉛色の冷たい風が王宮の旗を震わせていた。


謁見の間には、妙な沈黙が落ちている。


玉座の一段下。


王太子アーサーは、不機嫌そのものの顔で肘掛けに指を打ちつけていた。


その隣には、男爵令嬢アリシアが、薄桃色のドレスに身を包み、いかにもか弱げな顔で座っている。


だが、彼女の指先は苛立たしげに扇を握りしめていた。


理由は明白だった。


黒曜辺境伯領へ派遣された王都の使者団が、予定より早く戻ってきたからである。


しかも、意気揚々と成果を持ち帰ったのではない。


彼らは全員、まるで吹雪の中で魂を削られてきたかのように青ざめ、泥と雪にまみれ、完全に打ちのめされた顔をしていた。


その先頭に立つ貴族官僚、ボルマン子爵は、出立前の尊大な態度など跡形もなく、震える手で報告書を抱えている。


「……それで?」


アーサーの冷たい声が、謁見の間に響いた。


「黒曜辺境伯領は、どうだった」


ボルマン子爵は喉を鳴らし、恐る恐る頭を下げた。


「は……。殿下。まず結論から申し上げます」


「早く言え」


「黒曜辺境伯領は……すでに、我々の想定する貧しい辺境ではございません」


その瞬間、謁見の間の空気が、ぴしりと凍りついた。


アーサーの眉が、わずかに跳ねる。


「何だと?」


ボルマン子爵は唇を震わせながら、言葉を続けた。


「領地の中核には、王都の城壁とはまるで異なる、巨大な土と岩の防壁が築かれておりました。外側には水堀が巡らされ、吹雪の中で突進してきた小型の魔物が、勝手に堀へ落ち、斜面を登り切れず、兵士が剣を抜くまでもなく無力化されました」


「……魔物を、戦わずに退けたというのか?」


軍務官の一人が、思わず声を漏らした。


ボルマン子爵は、こくこくと何度も頷いた。


「はい。黒曜騎士団は、ただ壁の上から見下ろしているだけでした。魔物は水で勢いを失い、岩の斜面に足を取られ、力尽きていったのです。あれは……城壁というより、地形そのものを武器にした防衛線でございます」


ざわり、と臣下たちが動揺する。


アーサーは忌々しそうに舌打ちした。


「たかが土手だろう。辺境の連中が、魔物が落ちる穴を掘っただけの話ではないか」


「い、いえ、殿下。あれはただの土手ではございません。近づいてみると、岩、砂利、粘土らしきものが層になっており……その、詳しい仕組みは分かりませぬが、魔物の突進を受けても崩れないよう作られているようでして……」


「分からんものを、さも恐ろしいように語るな」


アーサーは吐き捨てた。


「防壁の話はもういい。他には?」


ボルマン子爵は、さらに顔を青ざめさせた。


「領内は……清潔でございました」


「清潔?」


アリシアが、怪訝そうに首を傾げる。


「辺境なのでしょう? 泥と獣臭と、貧しい民の暮らしがあるのではなくて?」


「そのはずでございました。ですが、実際には違いました。道は雪の中でも整えられ、排水路が詰まることなく流れ、厠の悪臭もほとんどありません。王都の裏通りより、よほど空気が澄んでおります」


「王都より……臭くない?」


アリシアの顔が、屈辱に引きつった。


ボルマン子爵は、言いにくそうに目を伏せた。


「はい。使者団の従者たちも、口々にそう申しておりました。さらに、巡回小屋には暖かな湯気が満ちており、兵士たちは清潔な衣服をまとい、凍傷の者もほとんど見当たりませんでした」


軍務官が、思わず身を乗り出す。


「北方の兵士に凍傷がない? そんな馬鹿な。冬の辺境では、魔物より寒さで兵が削られるはずだ」


「私もそう思っておりました。ですが……彼らの兵舎は温かいのです。火鉢も暖炉も見えないのに、床そのものが熱を持っているようで……」


「床が温かい?」


「はい。しかも煙くない。息苦しさもない。兵士たちはそこで十分に眠り、温かな食事を取っておりました」


謁見の間の隅で、財務官が小さく息を呑んだ。


兵士が凍傷にならない。


病人が減る。


武具を消耗せずに魔物を退ける。


それがどれほど軍事費を圧縮するか、彼だけは一瞬で理解してしまったのだ。


だが、アーサーはそこまで考えない。


彼が気にしているのは、ただ一つ。


自分の王宮より、追放した女のいる辺境の方が快適かもしれないという、耐えがたい事実だけだった。


「食事は?」


低い声で、アーサーが尋ねた。


「黒曜辺境伯領の食糧事情はどうだった。噂の野菜とやらは、本当にあったのか」


ボルマン子爵の肩が、びくりと震えた。


「……ございました」


その一言だけで、アリシアの顔が険しくなる。


「どの程度ですの?」


アリシアは、扇で口元を隠しながら尋ねた。


「どうせ、ほんの少しだけでしょう? 貴族に見せびらかすために、無理やり育てた小さな菜園のようなものではなくて?」


ボルマン子爵は、返答に詰まった。


「申し上げにくいのですが……ほんの少し、ではございませんでした」


「……何ですって?」


「温室が、何棟もございました。いえ、もはや小屋ではありません。領内のあちこちに、半透明の屋根を持つ巨大な栽培施設が連なっており、その中で葉物、赤い実、根菜、小麦らしき作物まで育っておりました」


「真冬に?」


「はい」


「北の辺境で?」


「はい」


ボルマン子爵は、完全に観念したように頭を下げた。


「しかも、使者団の従者に出された食事は、王宮で出される保存食より遥かに豊かでした。温かい野菜のスープ、柔らかな白パン、瑞々しい葉物、甘い赤い実……。従者の中には、あまりの美味さに泣き出す者までおりました」


アリシアの扇が、ぱきりと音を立てた。


「泣き出す?」


「はい。『王宮の厨房で働いていた頃より美味い』と……」


「もういいわ!」


アリシアが、甲高い声を上げた。


「どうしてですの? どうしてヴィクトリア様ばかり、そんな贅沢をしているのですか? 彼女は追放されたのでしょう? 惨めに反省しているはずでしょう? それなのに、王宮より温かくて、王宮より清潔で、王宮より美味しいものを食べているなんて……そんなの、ずるいですわ!」


謁見の間が、しんと静まる。


あまりにも幼い嫉妬だった。


だが、その言葉は、アーサーの胸にも深く刺さった。


「……財政は?」


アーサーは、奥歯を噛み締めながら尋ねた。


「そのような大規模な施設を維持しているなら、黒曜辺境伯領の金庫は枯渇しているはずだ。そうだろう?」


ボルマン子爵は、報告書を握る手に力を込めた。


「それが……逆でございます」


「逆?」


「黒曜辺境伯領は、真冬の生野菜を王都と近隣領へ高値で売り、莫大な利益を得ております。王都の大商会が競うように買い付けており、現地ではすでに第二金庫の建設が進んでいるとの話も……」


「第二金庫?」


財務官が、とうとう呻いた。


「破産寸前の辺境領が、金庫を増やしているだと?」


「はい」


ボルマン子爵は力なく頷いた。


「さらに、領民たちの忠誠心が異常でございます」


「忠誠心?」


アーサーが眉をひそめる。


「誰に対する忠誠だ。黒曜辺境伯か?」


「表向きには、黒曜辺境伯に対してです。しかし実際には……」


ボルマン子爵は、ちらりとアーサーの顔色を窺った。


「ヴィクトリア様への忠誠でございました」


その名が出た瞬間、アーサーの額に青筋が浮いた。


「……続けろ」


「はい。現場の者たちは、ヴィクトリア様を『眠れる女神』だの『豊穣と安眠の主』だのと呼び、彼女の休息を妨げぬことを最上の掟としておりました。使者団が面会を求めた際も、ルークという現場監督、マーサという文官、そしてレオンハルトが立ちはだかり、ヴィクトリア様には一歩たりとも近づけさせませんでした」


「何だと?」


アーサーの声が、低くなる。


「王太子の名で遣わした使者が、あの女に会えなかったというのか?」


「は……。申し訳ございません」


ボルマン子爵は、床に額がつくほど頭を下げた。


「命令書を提示いたしましたが、文官のマーサに不備を次々と指摘されまして……」


「不備だと?」


「王印の押印位置、命令の範囲、調査権限の根拠、辺境防衛への補償条項、施設に立ち入る際の安全責任……いずれも不十分である、と」


財務官が小さく唸った。


「それは……正式な行政手続きとしては、確かに……」


「黙れ!」


アーサーが怒鳴る。


財務官は慌てて口を閉じた。


「王太子の名で出した命令だぞ。それを、辺境の文官風情が拒んだというのか」


「拒んだ、というより……正式手続きが整っていないため、受理できない、と記録されました」


ボルマン子爵は、屈辱に声を震わせた。


「その場で、こちらの命令書の写しを取られ、使者団の発言もすべて記録されました。強引に入ろうとした者は、安全基準違反として温室区画への立ち入りを禁じられ、さらに黒曜辺境伯が背後に立っただけで、護衛の者たちが誰一人として動けなくなりまして……」


「……使者団が、追い返されたのか」


「は……」


「何ひとつ、持ち帰れずに」


「申し訳ございません」


「ヴィクトリアにも会えずに」


「……はい」


謁見の間の空気が、鋭く冷えていく。


アーサーは、怒りで肩を震わせていた。


だが、そこへ静かに歩み出た者がいた。


老宰相である。


白髪の老臣は、深く一礼し、ゆっくりと口を開いた。


「殿下。恐れながら申し上げます」


「何だ」


「黒曜辺境伯領は、もはや王都が命じればただ従うだけの辺境ではありません」


「……何?」


アーサーの視線が、老宰相を射抜く。


老宰相は怯まなかった。


「食糧を自給し、余剰を売り、財政を潤し、魔物を戦わず退ける防壁を持ち、領民の忠誠を一身に集める人物がいる。これは単なる辺境の一領地ではなく、半ば独立した要塞都市に近いものです」


「宰相。言葉を慎め」


「慎んだ上で申し上げております」


老宰相の声は、静かだった。


「ここで王家の威光だけを振りかざせば、かえって彼らの反発を招きます。少なくとも、ヴィクトリア様を侮ったまま命令で従わせる段階では、もはやございません」


アーサーの顔が、見る見るうちに怒りで歪んでいく。


「侮ったまま、だと?」


「殿下が彼女を追放した後、黒曜辺境伯領は明らかに変わりました。ならば、その変化の中心に誰がいるのかは、冷静に見極めるべきです」


「冷静に?」


アーサーは、乾いた笑いを漏らした。


「私に、あの女へ頭を下げろと言うのか?」


「頭を下げろとは申し上げておりません。ただ、軽んじるべきではないと――」


「十分だ」


アーサーは、玉座の肘掛けを強く叩いた。


謁見の間に、硬い音が響く。


「老いたな、宰相。辺境の土手と野菜に怯えるとは」


「殿下」


「黙れ」


老宰相は、それ以上言葉を重ねなかった。


ただ、深い皺の刻まれた目で、王太子を静かに見つめる。


アリシアが、そっとアーサーに寄り添った。


「アーサー様……私は怖いですわ」


か細い声だった。


「ヴィクトリア様は、きっと辺境で皆様を騙しているのです。自分だけ贅沢をして、自分だけ称えられて……王都にいる私たちを見下して笑っているのかもしれません」


「アリシア……」


「だって、おかしいですもの。追放された方が、王宮より豊かな生活をしているなんて。王太子殿下を差し置いて、金貨を積み上げ、貴族たちに高価な野菜を売っているなんて……」


アリシアは、潤んだ目でアーサーを見上げた。


「ヴィクトリア様には、もう一度、自分の立場を思い出していただくべきですわ」


その言葉が、アーサーの自尊心に火を注いだ。


そうだ。


ヴィクトリアは、かつて自分の婚約者だった。


王太子妃となるべき女だった。


ならば、彼女が持つ知識も、彼女が築いた富も、彼女が手に入れた忠誠も、本来は自分の隣に捧げられるべきものではないのか。


辺境で勝手に楽園を築くなど、許されるはずがない。


「あの女は、王太子妃候補だった」


アーサーは、低く言った。


「つまり、その才能も成果も、本来は王家のものだ。王家に属するべきものを、辺境で私物化しているにすぎん」


老宰相の眉が、かすかに動いた。


だが、アーサーはもう彼を見ていなかった。


「使者では足りん」


アーサーは立ち上がった。


黄金の装飾が施された椅子が、床をこすって鈍い音を立てる。


「私が行く」


謁見の間が、ざわめいた。


「殿下自ら、黒曜辺境伯領へ……?」


「そうだ」


アーサーは、傲然と胸を張った。


「辺境の者どもは、王太子の使者を軽んじた。ならば、私自身が出向き、誰に従うべきかを教えてやる」


老宰相が、静かに目を伏せた。


それは、諦めにも似た沈黙だった。


アリシアは、うっとりと微笑んだ。


「さすがですわ、アーサー様。ヴィクトリア様も、殿下が直々にお越しになれば、きっと震え上がって謝罪なさいますわ」


アーサーは、満足げに頷いた。


彼の中には、反省などない。


あるのは、追放したはずの女が自分の手の届かぬ場所で幸福になっていることへの怒り。


王都より豊かな食卓への嫉妬。


そして、それを奪い返せると信じる、空虚な支配欲だけだった。


「準備を整えろ」


アーサーの声が、謁見の間に響いた。


「近衛騎士を伴い、黒曜辺境伯領へ向かう」


誰もが息を呑む中、彼は冷たく言い放った。


「ヴィクトリアに、誰の庇護で生きていられるのか思い知らせてやる」


その言葉を聞いた使者団の者たちは、青ざめた顔で目を伏せた。


彼らは知っている。


黒曜辺境伯領が、もはや王都の想像する弱い辺境ではないことを。


王太子の傲慢が、その地で何にぶつかるのかを。


だが、誰も止められなかった。


こうして、王太子アーサーは、自ら北の果てへ向かうことを決めた。


それは、ヴィクトリアを屈服させるための視察。


彼にとっては、奪われたものを取り戻す旅。


そして黒曜辺境伯領にとっては、王都の傲慢を徹底的に叩き潰されるとは夢にも思わなかった

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