第53話:王都の使者、辺境に来る
王都から黒曜辺境伯領へ向かう街道は、白く凍りついていた。
馬車の車輪は何度も雪に取られ、護衛の兵士たちは凍える手で手綱を握りしめながら、歯を鳴らしている。
その豪奢な馬車の中で、王太子アーサーの名代として派遣された宮廷官僚グレゴールは、毛皮の外套にくるまりながら、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「まったく……なぜこの私が、こんな北の果てまで足を運ばねばならんのだ」
彼は窓の外に広がる雪原を見て、露骨に顔をしかめた。
「黒曜辺境伯領など、魔物と雪しかない貧乏領だろう。そこに追放された女が、真冬に野菜だの白いパンだのを食べているなど、どうせ商人どもの誇張に決まっている」
隣に座る下級官吏が、震える声で相槌を打つ。
「は、はい。ですが、王都の市場では確かに、北方産の青い葉物や赤い実が高値で取引されていると……」
「だからこそ調べに行くのだ」
グレゴールは、王太子の紋章が押された命令書を懐から取り出し、にやりと笑った。
「もし本当に妙な産物や利益があるならば、それは王家の管理下に置くべきもの。辺境伯ごときが勝手に富を蓄えるなど、あってはならん」
彼の頭の中にある黒曜辺境伯領は、いまだに「凍えた兵士が干し肉を齧り、領主が王都に頭を下げるだけの辺境」でしかなかった。
追放されたヴィクトリアも、薄汚れた部屋で震えながら、王都へ戻してほしいと泣いているに違いない。
少し王太子の名を出してやれば、辺境伯もあの女もすぐにひれ伏す。
グレゴールは、心底そう信じていた。
だが、その慢心は、黒曜辺境伯領の外縁に近づいた瞬間、粉々に砕け散ることになる。
「な……なんだ、あれは」
馬車が止まった。
御者も、護衛も、下級官吏も、全員が言葉を失って前方を見上げている。
雪原の向こうにそびえていたのは、王都の城壁のような垂直の石壁ではなかった。
なだらかな斜面を持つ、巨大な岩と土の大防壁。
その手前には、黒々とした水面を湛えた幅広い水堀が横たわっている。
防壁は山のように分厚く、視界の端まで続いていた。
まるで、人間が作った建造物ではない。
大地そのものが、意思を持って盛り上がったかのようだった。
グレゴールは一瞬圧倒されたが、すぐに鼻で笑った。
「ふん。何を大げさに構えている。これは城壁ではない。ただの土手ではないか」
彼は馬車から降り、足元の雪を踏みつけながら声を張り上げた。
「王都の城壁と比べれば、ずいぶん野暮な造りだ。こんな斜面では、魔物に駆け上がられて終わりだろう」
その瞬間だった。
水堀の外側、吹き溜まりの陰から、腹を空かせた小型の雪狼が一匹、姿を現した。
王都から来た馬の匂いに釣られたのか、あるいは領内の温かな空気に誘われたのか。
雪狼は低く唸ると、馬車へ向かって一直線に駆け出した。
「ひっ、魔物だ!」
護衛兵たちが慌てて剣を抜こうとしたが、その必要はなかった。
雪狼は勢いよく雪原を突っ切り、そのまま水堀の存在に気づかず――。
ドボォンッ!!
派手な水音を立てて、冷たい水の中へ落ちた。
「……え?」
グレゴールが間抜けな声を漏らす。
雪狼は必死にもがき、どうにか対岸へ這い上がった。
だが、濡れて重くなった毛皮を引きずりながら、今度は目の前の岩の斜面を登らされることになる。
ガラッ。
足元の岩がわずかに動いた。
雪狼はバランスを崩し、斜面をずるずると滑り落ちる。
そして、再び水堀へ落ちた。
ドボンッ。
「…………」
王都の使者団は、誰一人として声を出せなかった。
雪狼は二度、三度と斜面に挑み、そのたびに足場を失い、最後には疲れ果てて水堀の端へ流されていった。
防壁の上から見張っていた黒曜騎士団の兵士が、淡々と合図を出す。
すぐに補修班らしき兵士たちが現れ、捕獲柵に引っかかった雪狼を手際よく処理していった。
誰も慌てない。
誰も剣を抜かない。
防壁には、傷一つついていなかった。
グレゴールの頬が、ぴくぴくと引き攣る。
「い、今のは偶然だ。たかが小型の魔物一匹では、防壁の価値など測れん」
すると、防壁の上から若い兵士が顔を出し、にこやかに言った。
「大丈夫です。昨夜は二百匹ほど来ましたが、一匹も中には入れませんでしたから」
「に……二百?」
グレゴールは、言葉を失った。
その後、使者団は外門で身分確認を受けた。
ここでもまた、彼らは屈辱を味わうことになる。
王太子の使者だと名乗れば、すぐに門が開くと思っていた。
だが、門番は手順書を開き、淡々と確認を始めたのである。
「王都使者団、人数七名。護衛四名。馬車二台。積荷は書類箱三つと私物箱二つ。武装品の申告をお願いします」
「な、何だその態度は! 私は王太子殿下の名代だぞ!」
「承知しております。王都使者団対応手順、第二項に基づき、武装品と持ち込み物の確認を行います」
「手順……だと?」
「はい。未申告の刃物、毒物、発火石、魔石爆薬の持ち込みは禁止です。領内の安全基準ですので」
王都の護衛兵たちは、顔を見合わせた。
王宮ですら、ここまで整った入門確認は行われない。
グレゴールは屈辱に顔を赤くしたが、門の内側に並ぶ黒曜騎士団の重武装兵たちを見て、押し通すことはできなかった。
「……よかろう。さっさと済ませろ」
そう吐き捨てるしかなかった。
防壁の内側へ入った瞬間、使者団はまたしても沈黙した。
そこは、彼らが想像していた貧しい辺境ではなかった。
雪は綺麗に除けられ、道には砕石が敷かれ、泥濘はない。
道の脇には清潔な排水路が走り、嫌な臭いがしない。
巡回用の小屋からは柔らかな熱気が漏れ、交代の兵士たちが温かいスープを飲みながら、次の巡回表を確認している。
さらに奥には、冬の太陽を受けて淡く輝く、巨大な半透明の温室群が連なっていた。
その周囲を農夫たちが歩き回っている。
しかし、彼らは痩せ細ってはいない。
むしろ、頬に血色があり、動きに活力があった。
「辺境なのに……臭くない」
下級官吏の一人が、思わず呟いた。
「王都の裏通りより、ずっと清潔だ……」
「黙れ」
グレゴールは低く叱りつけた。
だが、彼自身も動揺していた。
王都の冬は、煤と汚水と腐った野菜の臭いが混ざり合う。
それに比べ、この辺境の空気は澄んでいた。
しかも、どこからともなく、焼き立てのパンと野菜の甘い匂いが漂ってくる。
使者団の従者たちは、案内された待機小屋で白いパンと温かな野菜スープを出された瞬間、完全に心を折られた。
「う……うまい……」
一人が震える手でパンを割る。
白く柔らかな湯気が立ち上った。
「王宮の保存パンより、ずっと柔らかい……」
「このスープ、野菜が甘い……」
従者の一人など、目に涙を浮かべている。
「王都では、冬にこんなものは食べられない……」
「黙れと言っている!」
グレゴールは怒鳴った。
だが、その腹は正直だった。
目の前のスープの香りに、彼の胃がぐう、と情けなく鳴った。
その屈辱を誤魔化すように、グレゴールは乱暴に立ち上がった。
「案内役はまだか! こちらは王太子殿下の命を受けて来ているのだぞ!」
その声に応じるように、待機小屋の扉が開いた。
入ってきたのは三人。
泥のついた作業服姿のルーク。
分厚い書類綴りを抱えたマーサ。
そして、黒い外套を肩にかけたレオンハルトだった。
「お待たせしました。黒曜辺境伯領、現場責任者のルークでさぁ」
「財務および文書管理を担当しております。マーサです」
「黒曜辺境伯レオンハルトだ」
三人は、礼を失しない程度に頭を下げた。
だが、誰一人として王都の使者に怯えてはいなかった。
グレゴールは鼻を鳴らし、懐から王太子名義の命令書を取り出した。
「ようやく領主が出てきたか。では、こちらの要求を伝える」
彼は得意げに羊皮紙を広げた。
「王太子殿下の命である。黒曜辺境伯領において確認された不審な産物、ならびにそれに関わる施設・設備・帳簿・人員配置の一切を調査し、必要に応じて王都の管理下に置く。即刻、領内の全資料を開示せよ」
ルークの眉がぴくりと動いた。
レオンハルトの目が、静かに細くなる。
マーサは無言で命令書を受け取った。
銀縁眼鏡の奥の目が、すうっと冷たくなる。
彼女は一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目に目を通したところで、静かに息を吐いた。
「不備」
「……は?」
「命令書として、不備だらけです」
マーサは淡々と告げた。
「まず第一に、調査対象が曖昧です。『不審な産物』とは何を指すのですか。作物ですか。加工品ですか。鉱物ですか。魔石ですか。それとも領内で流通しているすべての物資ですか」
「そ、それは現地で確認すればよい!」
「確認するための命令書に、確認対象が書かれていないのが問題だと言っているのです」
マーサは、ぴしゃりと言い切った。
「第二に、『関連する施設・設備』という表現も曖昧です。倉庫、厨房、兵舎、厩舎、農地、街道、井戸、排水路、防衛施設……どこまでを含むのですか。全領内を好き勝手に歩き回る権限を要求しているのなら、正式な立入許可範囲と責任者の同行条件が必要です」
「王太子殿下の使者に、立入許可だと!?」
「当然です」
マーサの声は冷たかった。
「ここは王都の庭ではありません。黒曜辺境伯領です。辺境防衛を担う軍事拠点でもあります。目的も範囲も不明な者を、重要区画へ無制限に入れるわけにはいきません」
グレゴールの顔が赤く染まる。
「貴様、王家の権威を何だと思っている!」
「書類上の根拠がなければ、ただの大声です」
マーサはさらに命令書をめくった。
「第三に、『必要に応じて王都の管理下に置く』という文言。これも問題です。何をもって必要と判断するのですか。誰が判断するのですか。接収なのか、一時預かりなのか、監査なのか、保全なのか。法的な意味がまるで定まっていません」
「細かいことを……!」
「細かくありません。財産と人員を動かす命令において、言葉の曖昧さはそのまま責任の曖昧さになります」
マーサは命令書を、書類綴りの上へ置いた。
「第四に、補償条項がありません。仮に王都が領内の何らかの施設や産物を管理下に置くとして、その間に発生する損失、維持費、警備費、輸送費、契約不履行による違約金は誰が負担するのですか」
「それは……王命である以上、領地側が協力するのが当然であろう!」
「協力と無償提供は違います」
マーサの眼鏡が、ぎらりと光った。
「第五に、辺境防衛への影響評価がありません。黒曜辺境伯領は北方防衛の責務を負っています。王都の都合で物資、人員、施設を動かした結果、魔物への備えが薄くなった場合、その責任は王太子殿下が負われるのですか」
「ぐっ……!」
「最後に、王印の押印位置が枠の外にずれています。発行控え番号と本文番号も一致していません。おそらく、急いで作らせたのでしょうね」
マーサは命令書を閉じた。
「結論。調査対象不明。権限範囲不明。接収条件不明。補償なし。防衛責任の記載なし。番号不一致。押印不備」
そして、冷ややかに告げる。
「この命令書は、受理できません」
「き、貴様……!」
グレゴールは怒りで肩を震わせた。
「王都では、北の辺境で得体の知れぬ富と産物が動いていると問題になっているのだ! 貴様らが何かを隠していることは明白だ!」
「疑っているだけでは、命令にはなりません」
マーサは一歩も引かなかった。
「何があるのかも知らず、何を調べるのかも定めず、何を持ち帰るのかも決めず、責任も補償も書かずに『全部見せろ、必要なら寄越せ』などという紙を持ってくる。これを正式な王命として扱えという方が無理です」
ルークが横から、にかっと笑った。
「それに、現場の安全面からも無理ですぜ」
「今度は何だ!」
「うちの領には、講習を受けてねえ人間を入れられない区画がいくつもありやす。水路、作業場、保管庫、防衛線、熱を扱う場所……どれも下手に触れば怪我をする。王都の方だろうが、貴族だろうが、穴に落ちたら同じように骨が折れますんで」
「私は王太子殿下の使者だぞ!」
「魔物も使者も、落ちる時は落ちます」
ルークは悪びれもせず言った。
「だから立入禁止です」
グレゴールがさらに怒鳴ろうとした瞬間、背後に巨大な影が立った。
レオンハルトだった。
彼は何も言わず、ただ静かに腕を組んでいた。
それだけで、待機小屋の空気が重く沈む。
「使者殿」
低い声が響いた。
「我が領は、正式な王命を拒むものではない。だが、疑念だけで作られた穴だらけの命令書に、領民の暮らしと防衛を預けることはできん」
「こ、この屈辱……必ず王太子殿下へ報告するぞ!」
「どうぞ」
マーサは即座に、別の羊皮紙を差し出した。
「こちらが命令書不備一覧の写しです。再提出される場合は、調査対象、立入範囲、接収条件、補償条項、防衛責任、発行番号を整え、正式な手続きに従って三部提出してください」
「なっ……!」
「なお、本日のやり取りは、当領地の文書管理規定に基づき記録されます。王都へ提出される報告と内容が食い違った場合、こちらの記録を照合資料として提示いたします」
グレゴールの顔が、怒りで赤くなり、次に屈辱で青くなった。
彼は、ヴィクトリア本人に会うことすらできなかった。
領内の詳しい施設も見られなかった。
帳簿も、作業場も、産物の管理場所も、何一つ開示させられなかった。
ただ、防壁の前で己の常識を砕かれ、清潔で温かな辺境の空気に動揺し、王都の命令書の穴を一つ残らず晒されただけだった。
「帰るぞ!」
グレゴールは乱暴に外套を翻し、使者団を連れて馬車へ戻った。
その背中を、ルークがにこにこと見送る。
「お気をつけて。帰り道は凍ってますから、車輪止めを忘れねえように」
「余計な世話だ!」
馬車が走り去る。
防壁の外へ出る直前、使者団の従者の一人が、名残惜しそうに待機小屋を振り返った。
その手には、こっそり包まれた白パンが握られていた。
マーサはそれを見逃していたが、あえて何も言わなかった。
その日の夕刻。
王都へ戻ったグレゴールは、蒼白な顔でアーサーの前に跪いた。
「殿下……黒曜辺境伯領は、我々の想定を遥かに超えております」
「何だと?」
アーサーは不機嫌そうに眉をひそめた。
グレゴールは震える声で続けた。
「独自の防衛線、整備された領内、規律ある兵、清潔な街道、そして異常なまでの物資管理能力……。少なくとも、あの領地はすでに、単なる貧しい辺境ではありません」
「では、資料は持ち帰ったのだろうな」
「それが……命令書の不備を指摘され、調査も接収も拒否されました」
「拒否、だと?」
アーサーの顔が、怒りで歪んだ。
「王太子である私の命を、あの辺境が拒んだというのか」
「は……はい」
アーサーは、肘掛けをぎりりと握りしめた。
その脳裏に浮かんでいたのは、かつて自分が追放した女の冷たい微笑みだった。
ヴィクトリア。
王都から消えたはずの女。
だが今、その女のいる辺境が、王都より豊かで、王都より整い、王都の命令を突き返すほどの力を持ち始めている。
アーサーの怒りは、反省へは向かわなかった。
それは、所有欲へとねじ曲がっていく。
「面白い」
彼は低く呟いた。
「ならば、私が直々に行く」
周囲の臣下たちが、ぎょっと顔を上げる。
アーサーは、傲慢な笑みを浮かべた。
「あの女に、自分の立場を思い出させてやる」
その頃。
黒曜辺境伯領の最上階。
ヴィクトリアは、今日も誰にも起こされることなく、ふかふかのベッドの中で幸せそうによだれを垂らして眠っていた。
王都の使者が来て、会えずに追い返されたことなど。
王太子が怒り狂い、直々に辺境へ向かおうとしていることなど。
もちろん、知る由もなかった。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
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