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第52話:王都の食卓から、温かさと新鮮さが消える

王都の王宮。


その晩、黄金の燭台に照らされた大食堂では、王太子アーサー主催の晩餐会が開かれていた。


いや、正確には――男爵令嬢アリシアが、未来の王太子妃気取りで催した、華やかな食事会である。


白い絹布が敷かれた長大な食卓。


銀の食器。


水晶の杯。


壁際に並ぶ楽師たち。


そして、アリシアの周囲には、彼女の機嫌を損ねまいとする貴族令嬢たちが、花畑のように着飾って集まっていた。


「皆様、今夜はゆっくり楽しんでくださいませ。ヴィクトリア様のように堅苦しい話はいたしませんわ。食事の場では、笑顔と優しさが何より大切ですもの」


アリシアが柔らかく微笑むと、取り巻きの令嬢たちが一斉に頷いた。


「まあ、アリシア様は本当にお優しい方ですわ」


「王宮の空気が、以前よりずっと明るくなりましたもの」


「帳簿だの補修だの、食事の場で聞かされるより、ずっと素敵ですわね」


それを聞き、上座に座るアーサーは満足げに鼻を鳴らした。


「当然だ。王宮とは本来、こうあるべきなのだ。あの女がいた頃は、何かにつけて『冬季備蓄が足りません』『厨房の塩蔵庫を点検してください』『貴族街の水路が詰まります』と、せっかくの食事が台無しだったからな」


「まあ、アーサー様」


アリシアは困ったように微笑みながらも、どこか嬉しそうに頬を染めた。


「でも、これからは私が、王宮に温かい心を取り戻してみせますわ」


甘い空気が、大食堂に満ちた。


そして、その甘さを引き裂くように、最初の皿が運ばれてきた。


銀の蓋が、恭しく持ち上げられる。


食卓に並んだ料理を見た瞬間、令嬢たちの笑顔が、ぴしりと凍りついた。


そこにあったのは、焼き立ての白いパンでも、色鮮やかな果物でも、香草で飾られた肉料理でもなかった。


黒ずんだ硬い保存パン。


塩の結晶が白く浮いた干し肉。


くたびれた根菜を煮込んだ、色の悪いスープ。


そして、皿の端に申し訳程度に添えられた、しなびた蕪の酢漬け。


王宮の晩餐としては、あまりにも地味で、あまりにも寒々しい食卓だった。


「……え?」


アリシアが、小さく声を漏らした。


彼女はしばらく皿を見つめてから、ぎこちない笑みを浮かべた。


「料理長? これは……前菜かしら?」


呼ばれた料理長は、顔面蒼白になりながら進み出た。


「い、いえ。今夜の主菜にございます」


「主菜?」


アリシアの声が、わずかに上ずった。


「この、硬そうなパンと、茶色いお肉と、しなびたお野菜が?」


「は、はい……」


アーサーが眉をひそめる。


「どういうことだ。今夜はアリシアの茶会に続く晩餐だぞ。もっと華やかな料理を用意せよと命じたはずだ」


料理長は汗を流しながら、深く頭を下げた。


「申し訳ございません、殿下。しかし、現在の王宮厨房で用意できる食材は、ほぼ保存食に限られております。冬季の新鮮な野菜と果物の入荷が、例年の半分以下に落ち込んでおりまして……」


「半分以下?」


アリシアは信じられないという顔をした。


「もっと華やかなお料理はないの? 新鮮な果物とか、彩りのある野菜とか。お客様の前で、こんな……こんな兵士の携帯食みたいなものを出されても困りますわ」


料理長の顔が、さらに青ざめる。


「お、お気持ちは重々承知しております。しかし、今は真冬でございます。王都近郊の畑は雪で覆われ、南方からの荷は街道の凍結と橋の補修遅れで滞っております。昨年までは、保存庫の残量、南方商人との契約、各厨房への配分を事前に整える計画がございましたので、なんとか見栄えを保てていたのですが……」


その言葉に、アーサーの目が細くなった。


「まさか、また言うつもりか」


料理長は、怯えたように唇を震わせた。


「昨年まで、その計画を立てておられたのは……ヴィクトリア様でございます」


大食堂の空気が、静かに重くなった。


令嬢たちが、ちらちらとアリシアを見る。


アリシアは唇を尖らせた。


「ヴィクトリア様、ヴィクトリア様って……皆様、そればかりですのね。お料理くらい、料理長が工夫すればいいではありませんか」


「工夫にも、食材が必要でございます」


料理長は、絞り出すように答えた。


「冬場に新鮮な葉物を維持するには、入荷日、保存温度、使用順、宴席の予定まで、何日も前から細かく組まねばなりません。ヴィクトリア様は、食材庫の帳簿を見ただけで、どの野菜をいつ使い、どれを酢漬けに回し、どれを王宮の晩餐に残すか、すべて決めておられました」


「……そんなもの、ただの厨房仕事だろう」


アーサーは不機嫌に言い捨てた。


「王太子の婚約者がやるような仕事ではない」


「ですが、その厨房仕事が止まった結果、今ここに出せるものがこれでございます」


料理長の言葉は、あまりにも正直だった。


アーサーの顔が、怒りで赤くなる。


「下がれ!」


「は、はい!」


料理長は逃げるように下がった。


しかし、食卓の上に並んだ料理が、豪華なものに変わることはなかった。


アリシアは、硬い保存パンをナイフで切ろうとした。


カンッ。


皿の上で、乾いた音が鳴った。


「……っ」


アリシアの笑顔が引きつる。


もう一度、力を入れる。


カンッ、カンッ。


まるで小石を叩いているような音だった。


周囲の令嬢たちが、笑っていいのか黙っているべきなのか分からず、気まずそうに視線を泳がせる。


アーサーは、干し肉を噛み切ろうとして、眉間に深い皺を寄せた。


塩辛い。


硬い。


そして何より、口の中がひどく乾く。


「……水を」


「はい、殿下」


侍従が慌てて杯を満たす。


その時、大食堂の隅で、給仕の一人が別の給仕へ小声で囁いた。


「聞いたか? 市場に、北の辺境から真冬の野菜が届いたらしい」


「真冬の野菜? 馬鹿を言うな。この雪の中で野菜など育つものか」


「それが、本当らしいぞ。瑞々しいトマトに、青々としたレタスだとよ。王都の大貴族が金貨を積んで買い占めたって話だ」


「しかも、王宮の料理より美味いらしい」


ひそひそ声だった。


だが、静まり返った食卓では、その噂は思いのほかよく響いた。


アーサーの手が止まる。


「今、何と言った」


給仕たちは、ぎくりとして背筋を伸ばした。


「も、申し訳ございません!」


「北の辺境から、野菜だと?」


アーサーは鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。あの極寒の地で、真冬に野菜など育つはずがない。商人が値を釣り上げるために流した作り話だ」


「で、ですが殿下……」


給仕は怯えながらも言った。


「市場ではすでに、黒曜辺境伯領産の野菜として高値で取引されていると……」


黒曜辺境伯領。


その名が出た瞬間、アーサーの顔から笑みが消えた。


アリシアも、ぴくりと肩を震わせる。


あの女が追放された地。


ヴィクトリアがいる、北の果て。


「あり得ん」


アーサーは低く言った。


「辺境など、泥と雪と魔物しかない場所だ。あの女がそこで、王都より良いものを食べているなど、あり得るはずがない」


「そうですわ」


アリシアも、少し強い声で頷いた。


「きっと誰かが、ヴィクトリア様を可哀想に思って、噂を盛っているのですわ。追放された方が、王都より豊かな暮らしをしているなんて……そんなこと、あるはずがありませんもの」


その場は、それで終わるはずだった。


だが、王都の噂は雪解け水よりも早く、貴族街の隅々まで流れていく。


数日後。


王都東区にある、侯爵家の夜会。


大広間の中央に置かれた食卓を前に、集まった貴族たちはざわめきを抑えきれずにいた。


主催者である老侯爵が、得意げに手を叩く。


「皆様、今宵は特別な品をご用意いたしました」


銀の蓋が、ゆっくりと持ち上げられる。


その瞬間、大広間にいた貴族たちの目が、一斉に見開かれた。


緑。


圧倒的な緑だった。


雪の季節の王都では、ほとんど失われていた色。


皿の上には、青々としたレタスの葉がふんわりと盛られ、そこに真っ赤な小粒のトマトが宝石のように散らされていた。


薄く切られた白い玉ねぎ。


鮮やかな人参。


澄んだ油と岩塩だけで整えられた、瑞々しいサラダ。


そして隣には、まだ湯気を立てる白いパンが添えられていた。


貴族たちは、言葉を失った。


「こ、これは……」


「真冬に、葉物だと?」


「見ろ、萎れていない。葉の端まで水を含んでいるぞ」


「この赤い実は何だ? まるで宝石ではないか」


一人の貴婦人が、震える手でトマトを口に運んだ。


ぷちり、と皮が弾ける。


次の瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。


「……甘い」


その一言を合図に、貴族たちは我先にとサラダへ手を伸ばした。


「なんという瑞々しさだ!」


「冬の保存食で荒れた舌が、生き返るようだ……!」


「このパンも柔らかいぞ! 歯が折れないパンなど、何日ぶりだ!」


「どこの南方領から取り寄せたのだ!?」


老侯爵は、待っていましたと言わんばかりに胸を張った。


「南方ではありません」


「では、まさか王国外から?」


「いいえ」


老侯爵は、にやりと笑う。


「北の黒曜辺境伯領より届いたものです」


大広間に、どよめきが走った。


「黒曜辺境伯領?」


「あの魔物の巣のような北の果てか?」


「馬鹿な。あの地は今、雪に閉ざされているはずだ」


「だが、この野菜は現にここにある!」


「しかも、王宮の晩餐より遥かに美味いぞ……!」


そのざわめきは、やがて一つの名へと集まっていく。


ヴィクトリア・アークライト。


追放された公爵令嬢。


冷たい帳簿女と嘲笑され、北の果てへ追いやられたはずの令嬢。


その彼女がいる地から、王都の大貴族すら目を見張る、真冬の生野菜が届いた。


この事実は、王都の貴族社会に小さくない衝撃を与えた。


さらに翌日。


その夜会に招かれていた貴族の一人が、王宮の廊下でうっかり口を滑らせた。


「いやはや、昨夜の黒曜辺境伯領産のサラダは見事だった。王宮の保存パンなど、もう食べられんよ」


その言葉は、巡り巡ってアーサーの耳に届いた。


そして、アリシアの耳にも。


王宮の小広間で、アリシアはハンカチを握りしめて震えていた。


「どうして……」


彼女の前には、今日も硬い保存パンと塩辛い干し肉、しなびた根菜のスープが並んでいる。


銀の器に盛られているせいで見栄えだけは整っているが、味も香りも、貴族令嬢の虚栄心を満たすものではなかった。


「どうしてヴィクトリア様ばかり、そんな贅沢をしているのですか……!」


アリシアの声には、今まで隠していた嫉妬が滲んでいた。


「辺境に追放されたのではなかったの? 泥にまみれて、寒さに震えて、反省しているはずではなかったの? それなのに、真冬に新鮮なサラダだなんて……ふかふかの白いパンだなんて……!」


アーサーは、無言で拳を握っていた。


彼の前にも、同じ保存食が置かれている。


数日前までなら、彼はそれを当然のように食べていたかもしれない。


だが、今は違う。


王都の貴族たちが、自分よりも先に、黒曜辺境伯領産の新鮮な野菜を味わった。


王太子である自分が、硬いパンと干し肉を噛んでいる間に。


追放したはずの女が、北の果てで王都より豊かな食卓を囲んでいる。


その事実が、アーサーの自尊心を焼いた。


「辺境へ追放された女が……王都より豊かな暮らしをしているだと?」


低く、押し殺した声だった。


アリシアが、潤んだ目でアーサーを見る。


「アーサー様……ヴィクトリア様は、きっと何かずるいことをしているのですわ。王家のために使うべき知識や技術を、自分だけの贅沢に使っているのではありませんか?」


その言葉は、アーサーの中にあった苛立ちに、都合のいい形を与えた。


そうだ。


あの女は、王太子の婚約者だった。


ならば、あの女が持っていた知識も。


あの女が築いた技術も。


あの女が辺境で得た富も。


本来は、自分のものではないのか。


王家のものではないのか。


「……そうだ」


アーサーは、ゆっくりと顔を上げた。


その瞳には、反省など一片もなかった。


あるのは、奪われたと信じ込んだ者特有の、濁った所有欲だけである。


「あの女は、王太子の婚約者だった身だ。ならば、その才も、その成果も、本来は王家に捧げられるべきもの」


アリシアは、ぱっと表情を明るくした。


「では、アーサー様……」


「ああ」


アーサーは、銀のナイフを食卓へ置いた。


カン、と乾いた音が響く。


「黒曜辺境伯領へ使者を出す」


小広間に控えていた側近たちが、びくりと肩を震わせた。


「使者、でございますか?」


側近の一人が、恐る恐る尋ねる。


「そうだ。表向きは、北方辺境の冬季状況の視察と、近頃王都で噂になっている産物の調査だ」


アーサーは、冷たく笑った。


「だが実際には、あの領地で何が起きているのかを探らせる。真冬に野菜が出回っているなど、まともな話ではない。もし王家に隠している技術や富があるのなら、ただでは済まさん」


「殿下。黒曜辺境伯は北方防衛を担う重鎮です。あまり強く出ますと……」


「強く出る?」


アーサーは、側近を睨みつけた。


「辺境伯ごときが、王太子の命に逆らうとでも言うのか?」


「い、いえ……」


「それに、あの女がいるのだろう?」


アーサーの唇が、嫌な形に歪む。


「ヴィクトリアは、私に捨てられて北の果てへ追いやられた女だ。少し王家の名を出せば、己の立場を思い出すはずだ」


アリシアは胸の前で手を組み、うっとりと微笑んだ。


「きっと、ヴィクトリア様も反省なさいますわ。王都に背を向けて、自分だけ贅沢をするなんて、許されることではありませんもの」


「当然だ」


アーサーは、傲然と言い放った。


「あの女が辺境で何を築いたのかは知らん。だが、それが役に立つものならば、王家のために使わせる」


彼は側近へ視線を向けた。


「財務官僚の中から、口の立つ者を選べ。できるだけ高圧的で、辺境の田舎者どもを黙らせられる者がいい」


「はっ」


「名目は『辺境視察』と『産物調査』。必要に応じて、施設、帳簿、備蓄状況を確認する権限を与える。命令書も用意しろ」


「承知いたしました」


側近たちは一斉に頭を下げた。


だが、その顔には不安が浮かんでいる。


王都の誰も、まだ黒曜辺境伯領で何が起きているのかを知らない。


真冬に野菜が届いたという噂。


王宮の食卓よりも豊かなサラダ。


王都の商人たちが金貨を積んで買い漁る北方産の作物。


その程度の断片的な話しか、彼らは掴んでいなかった。


それでもアーサーは、自分が命じればすべてが明らかになり、必要なら奪い取れると信じて疑わなかった。


「ヴィクトリア」


アーサーは、冷たく呟いた。


「お前が辺境で何をしているのかは知らん。だが、それが王都より豊かなものならば、本来は私の隣で、私のために使うべきものだった」


窓の外で、冷たい風が王宮の旗を揺らす。


王都の食卓から温かさと新鮮さが消えたその日。


王太子アーサーの視線は、ついに北の果てへと向けられた。


だが、彼が最初に差し向けたのは、自らの足ではない。


王家の威光を盾に、何も知らず、何も理解せず、ただ傲慢だけを携えた使者団だった。


そしてその使者たちは、まだ知らない。


彼らが向かう黒曜辺境伯領が、もはや王都の想像する貧しい辺境などではないことを。


追放された悪役令嬢の「働きたくない」という執念によって、衣食住と安全を制覇した、王国屈指の異常な要塞都市へと変貌していることを。


王都の使者団は翌朝、北へ向けて出立した。


それは、ヴィクトリアの築いた楽園を奪うための第一歩。


そして同時に、王都の傲慢が辺境の現実に叩き潰される、滑稽な敗北の始まりでもあった。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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