第51話:王都、悪役令嬢の不在に気づく
王都の王宮は、今日も絢爛たる光に満ちていた。
磨き上げられた大理石の床。
金糸で縁取られた深紅の絨毯。
天井から吊るされた水晶の燭台には、昼間だというのに魔導灯が惜しげもなく灯され、まるで夜会のような眩さで広間を照らしている。
その中央で、王太子アーサーは上機嫌に笑っていた。
隣には、淡い桃色のドレスに身を包んだ男爵令嬢アリシアが、まるで未来の王太子妃であるかのように寄り添っている。
王宮の侍女たちは、彼女のために香り高い紅茶を注ぎ、貴族令嬢たちは愛想笑いを浮かべながら、その周囲を取り囲んでいた。
かつて、そこにいるべきだった公爵令嬢の姿はもうない。
ヴィクトリア・アークライト。
冷たく、重苦しく、数字と帳簿ばかりを抱えていた、あの忌々しい婚約者は、北の果てへ追放された。
その事実が、アーサーの胸を何よりも軽くしていた。
「ふん。ようやく王宮にも、本来の華やかさが戻ったな」
アーサーは、金縁のティーカップを傾けながら満足げに呟いた。
「あの女がいると、何かにつけて『予算が』『備蓄が』『修繕計画が』と、まるで年寄りの役人のように小言ばかりだった。まったく、次期王妃にふさわしくない陰気さだった」
「まあ、アーサー様……」
アリシアは困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「でも、ヴィクトリア様もきっと、辺境で反省なさっていると思いますわ。人を愛する心を忘れて、数字ばかり見ていたら、誰からも愛されなくなってしまうのだと」
その言葉に、周囲の令嬢たちが控えめに笑う。
アーサーも満足げに頷いた。
「その通りだ、アリシア。王家に必要なのは、冷たい帳簿ではない。人の心を照らす君のような優しさだ」
「アーサー様……」
甘い空気が、広間に満ちる。
だが。
その華やかな空気は、次の瞬間、無遠慮に開かれた扉の音によって破られた。
バンッ、と。
王宮の礼儀作法からすれば、あまりに乱暴な音だった。
「殿下!」
血の気の失せた顔で駆け込んできたのは、王宮財務局の中堅官吏だった。
普段なら、几帳面に整えられているはずの上着の襟は歪み、手にした羊皮紙の束は汗でふやけている。
「何事だ。茶会の最中だぞ」
アーサーは露骨に不快そうな顔をした。
官吏はその場に膝をつき、震える声で告げた。
「殿下、冬季の軍糧予算と街道補修費の帳尻が合いません」
「……は?」
アーサーは眉をひそめた。
「そんなものは担当官が処理すればいいだろう。なぜ私のところへ持ってくる」
「そ、それが……」
財務官は、背後に控えていた数人の役人たちを振り返った。
彼らは互いに顔を見合わせるばかりで、誰も口を開こうとしない。
やがて、財務官は唇を震わせながら言った。
「昨年までは、冬の軍糧、街道補修、辺境警備隊への追加支給、それらを一つの帳簿で調整し、余剰分を次月へ繰り越す手配を……ヴィクトリア様が行っておられました」
広間の空気が、かすかに軋んだ。
アーサーのこめかみがぴくりと動く。
「またあの女の名前か」
「も、申し訳ございません。しかし、今年の配分表には、計算根拠が残っておらず……いえ、正確には、残っていた控えがどこにあるのか分からず……」
「ならば探せ」
アーサーは冷たく言い放った。
「王宮には役人が山ほどいるだろう。たかが予算の帳尻くらい、貴様らで合わせればいい」
財務官は、青ざめたまま頭を下げた。
「は、ははっ……」
しかし、彼が立ち去るより早く、今度は別の足音が廊下から響いてきた。
「殿下! 失礼いたします!」
次に飛び込んできたのは、土木庁の官吏だった。
泥で汚れた外套を羽織り、顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。
「今度は何だ!」
アーサーの声に苛立ちが混じる。
土木官は、深く頭を下げたまま叫ぶように報告した。
「王都西門の橋梁補修が止まっております!」
「橋?」
「はい。西門へ通じる石橋の基礎に、昨年から亀裂が確認されておりました。本来であれば、初雪の前に補強材を入れ、春の雪解け水に備える予定だったのですが……」
「だったら、すぐにやればいいだろう」
「それが……前任の記録が、まるで暗号のようでして」
土木官は、抱えていた図面の束を広げた。
細かな記号と数字、石材の種類、運搬日、職人の割当、予備資材の保管場所。
それらがびっしりと書き込まれている。
だが、王都の土木官たちは、その全体の意図を読み解けずにいた。
「どの資材をどこへ回すべきなのか、どの職人にどの工区を任せるべきなのか、誰にも判断できません。昨年まで、この調整を行っていたのは……」
「言うな」
アーサーが低く唸った。
土木官は、びくりと肩を震わせる。
しかし、言わずとも誰もが理解していた。
ヴィクトリアである。
またしても、ヴィクトリアだった。
アリシアは、不安げにアーサーの袖をつまんだ。
「アーサー様……橋が壊れたら、大変なのではありませんか?」
「大げさだ。役人どもが怠けているだけだ」
アーサーはそう吐き捨てたが、その声には先ほどまでの余裕が少しだけ薄れていた。
そこへ、さらに第三の報告者が駆け込んできた。
「殿下! 貴族街の下水溝について、至急ご報告が!」
「今度は下水だと!?」
アーサーの声が裏返った。
駆け込んできた衛生官は、顔を真っ青にしている。
「はい。貴族街の下水溝が詰まり始めております。すでに数か所で悪臭が上がり、厨房裏の排水路にも逆流の兆しが……」
その瞬間、広間にいた令嬢たちが一斉に顔をしかめた。
アリシアも、ハンカチで口元を押さえる。
「まあ……下水だなんて、なんて汚らしい話をこの場で……」
衛生官は泣きそうな顔で頭を下げた。
「申し訳ございません。しかし、例年ならば初雪前に浚渫の時期を示す管理表が配られ、担当区域ごとに清掃が完了しているはずなのです」
「ならば、その管理表を見ればいい」
アーサーは苛立ちを押し殺しながら言った。
衛生官は、さらに顔色を悪くした。
「それが……ヴィクトリア様の執務室から、管理表が消えております」
沈黙。
今度こそ、広間にいた全員が黙り込んだ。
アーサーの指が、ティーカップの取っ手をぎりりと締めつける。
「……貴様らは、何かあるたびにあの女の名前を出さねば仕事もできんのか」
「で、ですが殿下……」
衛生官は、震える声で続けた。
「王都の排水路は、古い時代に増築を重ねたため、水の流れが非常に複雑でございます。どの区画を先に浚わねばならないか、どこを放置すると悪臭が貴族街へ逆流するか。その順序を把握していたのは、ヴィクトリア様だけで……」
「黙れ!」
アーサーが立ち上がった。
広間の空気が凍る。
アリシアが怯えたように身をすくめると、アーサーは一瞬だけ彼女を見て、苛立ちを飲み込もうとした。
だが、廊下から響いてきた次の足音が、それを許さなかった。
「殿下! 軍務局より緊急の報告です!」
軍服姿の男が、ほとんど転がり込むように広間へ入ってきた。
その顔には、戦場帰りの兵士のような切迫した色が浮かんでいる。
「北方警備隊への冬装備の発送が遅れております!」
「またか!」
アーサーは怒鳴った。
「軍務まで私に泣きつくのか!」
軍務官は、額を床にこすりつける勢いで頭を下げた。
「申し訳ございません! ですが、北方警備隊への防寒外套、手袋、薬草、予備の矢、携帯食料の発送手順が、今年に限って確定しておりません!」
「そんなもの、軍務局で決めろ!」
「去年までは、積雪期の二か月前には、ヴィクトリア様が倉庫ごとの在庫と街道の積雪予測を照合し、馬車隊の出発日まで指定しておられました!」
「またヴィクトリアか!!」
アーサーの怒声が、水晶の燭台をびりびりと震わせた。
「たかが女一人が消えただけで、なぜ王都が回らなくなる!」
誰も答えない。
財務官も。
土木官も。
衛生官も。
軍務官も。
そして、華やかな茶会に集まっていた貴族令嬢たちでさえ、誰一人として口を開けなかった。
皆、心のどこかで気づき始めていた。
王宮を支えていたもの。
王都の日常を、何事もないように回していたもの。
それは、王太子の華やかな号令でも、アリシアの優しい微笑みでもなかった。
冷たいと蔑まれた帳簿。
細かすぎると笑われた管理表。
融通が利かないと嫌われた予定表。
そして、それらを一人で黙々と整え続けていた、ヴィクトリア・アークライトの采配だったのだ。
その沈黙を破ったのは、広間の奥に立っていた老宰相だった。
白髪を丁寧に撫でつけた痩身の老人は、静かに一歩前へ出ると、深く頭を垂れた。
「殿下。恐れながら、申し上げます」
アーサーは険しい目で睨みつけた。
「何だ」
老宰相は、淡々と言った。
「王都はすでに何年も、ヴィクトリア様の帳簿と采配で動いておりました」
その一言は、剣よりも鋭く、王太子の自尊心を抉った。
アーサーの顔が、初めて明確に引きつる。
「……何を馬鹿な」
「馬鹿な話ではございません」
老宰相は、静かに続けた。
「殿下が夜会で華やかに振る舞われている間、冬の食糧備蓄を調整していたのはヴィクトリア様です。殿下が騎士たちと狩猟を楽しまれている間、街道と橋の補修順を決めていたのもヴィクトリア様です。貴族街が悪臭に悩まされず、北方警備隊が凍えず、孤児院の薪が途切れなかったのも……」
「黙れ」
「すべて、ヴィクトリア様の管理によるものです」
老宰相は最後まで言い切った。
広間の空気が、重く沈む。
アリシアは唇を震わせた。
「で、でも……ヴィクトリア様は、冷たい方でしたわ。いつも数字ばかりで、人の気持ちを考えていなくて……」
老宰相の視線が、静かにアリシアへ向く。
「人の気持ちを考えるだけで、冬は越せません」
「……っ」
アリシアは言葉を失った。
アーサーは、拳を握りしめた。
認めたくなかった。
あの女が必要だったなどと。
自分が追放した女が、実は王都の根幹を支えていたなどと。
そんな屈辱的な事実を、認められるはずがなかった。
「ならば」
アーサーは、吐き捨てるように言った。
「ならば、あの女が残した書類を見ればいいだけだ」
臣下たちが、一斉に顔を上げる。
アーサーは、再び威厳を取り戻したかのように顎を上げた。
「ヴィクトリアの執務室を調べろ。帳簿でも管理表でも何でもいい。あの女が残したものを集めれば、王都はすぐに元通りになる」
財務官が、震える声で言った。
「殿下……」
「何だ」
「ヴィクトリア様の書類ですが……追放の折、殿下が『薄汚い帳簿など視界に入れるな』と仰せになりましたので……」
アーサーの表情が固まった。
財務官は、喉を鳴らして続ける。
「多くは地下倉庫へ運ばれました。その後、不要書類として一部は処分され、一部は各部署へ散逸し、現在、原本の所在が確認できておりません」
「……処分?」
アーサーの声が、かすれた。
「はい」
土木官も、視線を落としながら言った。
「橋梁補修の控えも、断片しか見つかっておりません」
衛生官が続く。
「下水溝の浚渫表も、最新版は行方不明です」
軍務官も、苦しげに頭を下げた。
「北方警備隊の発送計画も、昨年分の古い写ししか残っておりません」
アーサーは、ふらりと椅子の背もたれに手をついた。
広間には、甘い菓子の香りがまだ漂っている。
美しい茶器も、宝石のような菓子も、香り高い紅茶も、何も変わらずそこにある。
だが、それらを支えていた見えない足場が、今まさに音を立てて崩れ落ちようとしていた。
財務官が、床に額をつけるようにして震えながら告げた。
「殿下……王都の冬季運営計画は、事実上、失われました」
その言葉は、王宮の広間に冷たい雪のように降り積もった。
アーサーは、何も言えなかった。
初めてだった。
自分が追放したものの重さを、ほんのわずかに理解したのは。
だが、それでも彼の胸に湧き上がったのは、後悔ではなかった。
屈辱。
怒り。
そして、自分の手からこぼれ落ちたものを、もう一度奪い返さねばならないという、歪んだ執着だった。
「あの女……」
アーサーは、低く呟いた。
「ヴィクトリアめ……」
王都が静かに軋み始める中。
北の果てでは、追放された悪役令嬢が、温かい布団の中で何も知らずに惰眠を貪っていることなど、彼らはまだ知らなかった。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
ブクマ・評価・リアクションを押して頂けると嬉しいです!(◍•ᴗ•◍)




