第50話:追放令嬢の絶対安眠
「――皆の者、集まってもらったのは他でもない。お嬢様から下賜された、この業務マニュアル……すなわち『標準作業手順書』の真の意図についてだ」
領主の館、地下の極秘会議室。
分厚い石壁に囲まれたその部屋で、黒曜辺境伯レオンハルト、財務を預かる文官マーサ、そして現場監督ルークの三人は、重厚なオーク材の円卓を囲み、ただならぬ緊張感の中で顔を突き合わせていた。
円卓の中央に鎮座しているのは、昨日ヴィクトリアが徹夜で書き上げ、「これを見て勝手にやれ」と叩きつけていった、数百ページに及ぶ皮綴じの分厚い冊子である。
「私は昨日から徹夜でこの書物を熟読しました」
マーサが、銀縁眼鏡の奥で血走った目をぎらつかせながら、震える手で手順書のページをめくった。
「第一章、生活基盤の維持と拡張」
ぺらり、とページがめくられる。
「第二章、食糧生産と流通管理」
さらに、ぺらり。
「第三章、防衛線の死守と危機対応」
マーサの声が、だんだん熱を帯びていく。
「そして極めつけは、第四章。独立採算による財政運用と、外部勢力への不干渉原則です」
マーサはゴクリと息を呑み、二人の顔を見回した。
「皆さん、これは単なる業務の引き継ぎ書などではありません」
会議室の空気が、張り詰める。
「これは、王都の硬直した制度や腐敗した金の流れに依存することなく、この辺境の地だけで生産し、守り、管理し、半永久的に繁栄し続けるための……国家運営の設計図です」
「国家運営……?」
ルークが、かすれた声で呟いた。
マーサは力強く頷いた。
「すなわち……」
そこで、ルークがハッと息を呑んで立ち上がった。
「建国の法典……ってことですか!?」
「その通りです!!」
マーサがバンッ! と円卓を叩いた。
「お嬢様は『私に聞くな、勝手にやれ』と仰いました。それはつまり、王都にへつらう旧来の貴族政治と、中央に依存する脆弱な体制を捨て去り、我々自身の力で、この辺境を自走させよという意味」
マーサの瞳が、狂信的な輝きを帯びる。
「さらに言えば、お嬢様を頂点とする新たな秩序を築けという、壮大な神託だったのです!!」
「な、なんだってェェェッ!?」
ルークが頭を抱え、感動のあまりボロボロと涙を流し始めた。
「お嬢様は……あんな王都の理不尽な追放劇を受けてもなお、俺たち領民を見捨てず、俺たちだけの本当の居場所を作ろうとしてくださっていたのか……!」
ルークは、手順書を見つめて拳を震わせる。
「そのために、徹夜でこんな完璧な建国の法典を書き上げて……!」
「ガッハッハ!!」
レオンハルトが立ち上がり、巨大な拳を天に突き上げた。
「なんと痛快なことか! 腐りきった王都の貴族どもに頭を下げる必要など、最初から一ミリもなかったのだ!」
彼は胸を張り、高らかに言い放つ。
「我らにはすでに、簡単には破られぬロックフィル防壁がある! 魔物の速度を奪う水堀がある! 一年中枯れることのない地中熱温室がある! そして何より、この領地を自ら動かすためのお嬢様の手順書がある!」
レオンハルトは、円卓の中央に置かれた冊子を見下ろした。
「独立を宣言するにあたり、何一つ不足はない!!」
筋肉。
現場。
財務。
三人の狂信的な解釈は、ついに「ただの業務手順書」を「独立国家の憲法」へと飛躍させ、完全に後戻りのできない次元へと到達してしまった。
「レオンハルト様、ルーク殿」
マーサが冷徹な文官の顔に戻り、バインダーを引き寄せた。
「王都の財務省、および宮廷貴族の動きから見て、我が領地の異常な発展に中央の連中が気づくのは時間の問題です」
「でしょうね」
ルークが腕を組む。
「冬に生野菜を売り、魔物を剣一本抜かずに退け、辺境なのに王都より快適な暮らしをしている。そんな噂が広まれば、放っておくはずがねえ」
「ええ」
マーサは静かに頷いた。
「やがて彼らは、不当な税の引き上げや、温室技術の接収、あるいはヴィクトリアお嬢様の身柄引き渡しを要求してくるでしょう」
その言葉に、レオンハルトの表情が一変した。
「お嬢様の身柄を、王都へ?」
低い声だった。
会議室の空気が、一瞬で凍る。
「ふざけるな」
レオンハルトの拳が、円卓にめり込む。
「お嬢様の安眠領域を脅かす者は、王であろうと大臣であろうと、この黒曜の地から物理的に排除する」
「同意します」
マーサが眼鏡を押し上げる。
「お嬢様の手順書にも、外部干渉時の原則が記されています。第一に、生活基盤の保護。第二に、食糧生産能力の保護。第三に、人的資産の保護。そして第四に、お嬢様の安眠の確保」
「最後が一番大事そうですね」
ルークが真顔で頷いた。
「ええ。実質的には最上位条項です」
「なら、やることは決まっている」
レオンハルトは大剣の柄に手を置いた。
「王都が何かを仕掛けてくる前に、防壁の外側にも監視線を増やす。騎士団は防衛訓練を継続。ルーク、土木工兵隊は外周の補強と、予備の落とし堀を準備しろ」
「任せてくだせえ」
ルークがニヤリと笑う。
「お嬢様の安眠を邪魔する連中を、魔物と同じように水堀と斜面で足止めしてやりやす」
「マーサ」
「はい」
「財政面は?」
「すでに商会との契約を分散し、王都経由の取引比率を下げています。今後は辺境内部での独立採算をさらに強化します。塩、金属、薬草、保存食の備蓄計画も、本日中に改訂可能です」
「よし」
レオンハルトは、円卓の中央に置かれた手順書へ、静かに頭を垂れた。
「お嬢様は、眠りながら国を作るお方だ。我らはその夢を守る盾となる」
「はい」
「へい」
三人は同時に、分厚い手順書へ向かって深く頭を下げた。
ヴィクトリアがただ「報告の嵐から逃れたい」という極限の怠惰から生み出した一冊の冊子。
それが、王国の歴史を根底から覆す辺境独立革命の火種となった瞬間だった。
もちろん。
当の本人は、そのことを微塵も知らない。
◆ ◆ ◆
一方、その頃。
「……あぁ、幸せ」
領主の館の最上階。
完璧な室温に保たれた常夏の私室で、私はふかふかの羽毛布団に包まれながら、至高の笑みを浮かべていた。
手順書を叩きつけてから数日。
私の狙いは、完璧に的中した。
いや、予想以上の効果だった。
ルークも、マーサも、レオンハルトも、誰一人として私の部屋の扉を叩かなくなったのだ。
彼らは標準作業手順書という名の絶対的な決まりを手に入れ、現場の判断をすべて自分たちで完結させているらしい。
窓の外を見れば、ロックフィル防壁の向こうに澄み切った冬の青空が広がっている。
魔物の遠吠えも。
兵士の訓練の声も。
外の吹雪の音も。
分厚い壁と二重窓に遮られて、ほとんどこの部屋には届かない。
夕方になれば、温室で採れた新鮮なサラダと、熱々の肉料理がメイドによって無言で運び込まれてくる。
メイドにも、私に話しかけずに置いていくこと、と手順書で厳命してある。
完璧。
あまりにも完璧。
「悪臭にまみれた便槽から始まった私の辺境生活も、思えば遠くへ来たものね……」
私はベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、これまでの怒涛の日々を振り返った。
お風呂に入るために、自然循環の給湯システムを作った。
温かく眠るために、ハイポカウストを構築した。
美味しい野菜を食べるために、点滴灌漑を導入した。
静かに眠るために、ロックフィル防壁と水堀の仕組みを教え、領民たちに防衛線を築かせた。
そして最後に、誰にも話しかけられないために、標準作業手順書を作った。
そのすべては、前世で過労死した私が、今世こそは絶対に働かず、快適なニート生活を送るという切実な欲望を満たすためだけに行ったことだ。
領地がどれだけ豊かになろうが。
部下たちが勝手に私を崇拝しようが。
そんなことは、私の知ったことではない。
私はただ、誰にも邪魔されずに、この温かい部屋で一生ダラダラと生きていきたいだけなのだ。
「もう……私に、判断しなきゃいけない仕事は……何一つ、ない……」
満腹感と、心地よい疲労感。
そして、手順書作成の徹夜明けの余韻。
それらが、私の意識を優しく、深く、夢の世界へと誘っていく。
前世のブラック企業で鳴り止まなかった着信音も。
王都の貴族たちの陰湿な嫌がらせも。
凍える辺境の不便な暮らしも。
もはや遠い幻だ。
「おやすみ……なさい。私の、完璧な……世界……」
私は幸福な溜息を一つこぼし、ふかふかの枕に顔を埋めた。
これこそが、私の追い求めた真のハッピーエンド。
衣食住と安全のインフラを完全に制覇した追放令嬢ヴィクトリアの、誰にも邪魔されない、無限の二度寝の時間が、ついに始まったのである。
――彼女のすぐ足元の地下室で。
部下たちが、ヴィクトリア独立国家の建国に向けて、狂気的な熱量で暴走を始めていることなど。
露ほども知らずに。
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