第49話:追放令嬢の業務マニュアル
「お嬢様、第三工区の資材搬入についてですが……」
「お嬢様! 今月の特別予算の承認印を……」
「ヴィクトリア! この新しい訓練メニューの効率についてだな……」
「あああああもううるさいわねえええええええッッ!!!!」
私は頭を抱えて、ベッドの上に転がった。
完璧な防音壁を作り、食糧も確保し、領地の安全と衣食住のすべてを制覇したはずだった。
それなのに、現場監督ルーク、財務を預かるマーサ、そして辺境伯レオンハルトという三人の中心人物が、何かあるたびに私の部屋へ判断を仰ぎに来る。
そのせいで私は、一日中、ただ判を押すためだけに拘束されていた。
なんでよ……!
現場もお金も全部丸投げしたはずなのに、どうして全部、私のところに戻ってくるのよ!
私は前世のゼネコン時代、いくつもの現場を束ねていた頃の記憶を、必死に手繰り寄せた。
なぜ、有能な部下を育てたのに上に立つ者だけが忙しいのか。
答えは簡単だ。
仕事が、人に張り付いているからである。
この領地には、インフラという形あるものは完成した。
しかし、それを動かすための決まりごとがない。
すなわち、明確な基準と、誰が何をどこまで決めていいのかを定めた手順が存在しないのだ。
ルークは、私の物理の理に頼り。
マーサは、私の複式簿記の最終承認に頼り。
レオンハルトは、私の効率化の発想に頼っている。
彼らが自分で判断できないのは、能力がないからではない。
判断するための物差しがないからだ。
「……なら、作るしかないわね。私がいなくても、組織が勝手に回る究極の仕組みを」
私はベッドから重い体を起こし、机に向かった。
そして、大量の羊皮紙とインク壺を用意し、夜通しでペンを走らせ始めた。
私が欲しいのは、名君としての名声でも、権力でもない。
ただひたすらに、誰にも邪魔されない絶対的な安眠と、無限の自由時間である。
そのためなら、徹夜の一日や二日、安いものだ。
「防壁の巡回は、疲労を考えて四交代制に。異常時の報告の流れは……こう。予算の決裁権限は、銀貨百枚まではマーサの専決。それ以上はレオンハルトとの合議。私の承認が必要なのは、領地の存亡に関わる事態のみ……」
カリカリカリ、と深夜の部屋にペンを走らせる音だけが響く。
前世で、品質審査を通すために書き殴った、あの地獄のような手順書作りの記憶。
それが今世では、私のニート生活を確立するための最強の武器となって蘇っていた。
「作業手順だけじゃダメね。責任者、判断基準、例外時の連絡先、記録の残し方、書き直しの決まり……。全部入れないと、結局また私に聞きに来るわ」
私は羊皮紙に大きく見出しを書いた。
黒曜辺境伯領 標準作業手順書 第一版。
その下に、さらに小さく書き足す。
記載済みの事項について、ヴィクトリアへの確認を禁ずる。
「よし。これが一番大事ね」
翌朝。
私は目の下に深々とクマを作りながらも、充実感に満ちた笑みを浮かべ、執務室のテーブルに座っていた。
ガチャリ、と扉が開く。
いつもの三人組が「お嬢様、今日の指示を……」と言いながら入ってきた。
彼らが口を開くより早く、私はテーブルの上にそれをドンッ!! と叩きつけた。
「な、なんですか、この辞書みたいに分厚い紙の束は……?」
ルークが目を丸くする。
テーブルの上に鎮座しているのは、優に数百ページはあろうかという、皮綴じの巨大な冊子だった。
「ルーク、マーサ、レオンハルト。よく聞きなさい」
私は三人を鋭く見据え、前世でいくつもの現場を黙らせてきた責任者の顔で言い放った。
「あなたたちは確かに有能になったわ。でも、何から何まで私に判断を仰ぐ今の状況は、組織として極めて非効率よ。完全に仕事の流れが詰まっているわ」
「詰まっている……?」
「そうよ。要するに、全部の仕事が私のところで止まっているってこと」
私は指先でテーブルを叩いた。
「もし私が病気で倒れたら? あるいは、三日くらい本気で眠り続けていたら? その間、領地の機能がすべて停止してしまうわよね?」
「そ、それは……確かに」
マーサが息を呑む。
「一人の判断に頼り切る脆い体制。このままでは、この領地は本当の意味で自立したとは言えないわ。だから、私はこれを作ったの」
私は分厚い冊子をバンッと叩いた。
「これこそが、我が黒曜辺境伯領における全業務の標準作業手順書。つまり、業務の心得と手順をまとめた領地運営の指南書よ!!」
「指南書……?」
「そうよ。この中には、防壁の警備巡回の組み方、温室の温度管理と収穫時期の計算、水堀の水位管理、防壁点検の確認項目、予算の決裁の流れ、魔物襲来時の緊急対応まで、この領地を動かすための基本の決まりがすべて入っているわ」
三人は、恐る恐るその分厚い手順書のページをめくった。
そこには、私が徹夜で書き上げた、狂気的なまでに緻密な図や計算式。
そして「誰が」「いつ」「何を」「どの基準で」判断すべきかが、一目で分かるように整理されて記されていた。
「す、すげえ……!!」
ルークがガクガクと震え始めた。
「土の配合から、魔石の交換時期まで、全部数値で書いてある! これさえ読めば、昨日入ったばかりの新兵でも、最低限の品質を保てちまう!!」
「最低限よ。熟練者と同じになるわけじゃないわ。でも、誰がやっても大事故にならない状態を作る。それが標準化よ」
「標準化……!」
ルークは、まるで神の言葉でも聞いたかのように震えた。
「な、なんという完璧な権限委譲の仕組み……!」
マーサは計算魔道具を落とし、両手で手順書を抱きしめた。
「決裁できる範囲が明確になったことで、稟議の速度が飛躍的に上がります! しかも、金額ごとに承認者が分かれているため、軽い支出でお嬢様の手を煩わせる必要がない!」
彼女はページをめくりながら、感極まったように叫んだ。
「さらに、記録の様式まで統一されている……! これなら、誰が見てもお金の流れを追えます! 不正も、浪費も、報告漏れも、すべて白日の下に晒される!!」
「そう。あと、この手順書の改訂責任者はあなたよ、マーサ」
「私が……?」
「ええ。現場で新しい問題が起きたら、勝手に私へ持ってこないこと。まず記録する。原因を調べる。再発防止策を作る。それを月に一回、改訂会議で反映するの」
マーサの目が、限界まで見開かれた。
「つまり……この手順書は完成品ではなく、領地と共に成長し続ける生きた管理の書……!」
「そういうこと。だから、何でも私に聞くんじゃなくて、まず手順書を更新して、組織の知識にしなさい」
「お嬢様……!」
マーサは涙ぐみながら、手順書を胸に抱いた。
「貴女は、ご自身の知恵を独占するのではなく、領地全体の共有財産へと変えてくださったのですね!」
いや、ただ私に聞くなと言っているだけである。
「ガッハッハ!!」
レオンハルトが豪快に笑い、私の肩をバンバンと叩いた。
痛い。
「ヴィクトリアよ! お前は自分の頭脳、すなわち理の力を、この一冊の書物に封じ込めたのだな!」
「叩かないで。肩が壊れる」
「これぞ我ら黒曜騎士団の新たな教典! この手順書があれば、俺たちは未来永劫、お前の知恵と共に戦い続けることができる!!」
「教典じゃないわ。手順書よ」
「手順書という名の教典だな!」
「違うわ」
相変わらずの彼らの深読み、いや、勘違いに、私は引き攣った笑いを浮かべた。
彼らにとって、この手順書は女神が残した大いなる遺産であり、領地を永遠に繁栄させるための聖典なのだろう。
だが、私にとっては違う。
これは、私が安眠するための防壁である。
外敵を防ぐロックフィル防壁ではない。
報告、相談、確認、承認という名の内なる騒音を遮断するための、業務上の防音壁なのだ。
「いいこと? これからは、この手順書に書いてある事柄については、一切私に報告、相談しなくていいわ」
私は三人にビシッと指を突きつけた。
「あなたたち自身が責任者として判断し、決裁を下しなさい」
「は、はい!」
「私に話しかけていいのは、この手順書に載っていない、領地滅亡級の異常事態が起きた時だけよ」
私はさらに声を低くした。
「たとえば、防壁が半分崩れた。温室が全焼した。王都から軍が攻めてきた。そういう水準の話だけ持ってきなさい」
「王都から軍……?」
レオンハルトが一瞬だけ眉をひそめた。
「例えよ、例え」
私は手を振って流した。
今の私は知らない。
その例えが、遠くない未来に現実になることなど、知る由もなかった。
「それ以外は、この手順書を見て、あなたたちで処理しなさい。判断に迷ったら、まず各責任者で会議。結論を記録。必要なら次の改訂で反映。いいわね?」
「ははぁっ!!」
三人が同時に頭を下げた。
「さあ、業務に戻りなさい! そして、二度と私の安眠を邪魔しないでちょうだい!!」
「承知いたしました!」
「お嬢様の安眠を守るため、全業務を標準化いたします!」
「黒曜騎士団、今後はこの手順書に従って動く!」
手順書という名の聖典を授かった三人は、もはや私に頼る必要はないと悟ったらしい。
あるいは、私に休んでもらうためと勘違いしたらしい。
彼らは大事そうに分厚い冊子を抱え、執務室を飛び出していった。
静寂が戻った執務室で、私は深く、深く息を吐き出した。
「終わった……。ついに、すべての仕事を完全に手放したわ……!」
インフラという形ある仕組みを作り。
手順書という、形のない仕組みを整えた。
これにより、黒曜辺境伯領は「ヴィクトリアという管理者がいなくても、勝手に豊かに回り続ける全自動のユートピア」へと進化したのだ。
少なくとも、私はそう信じたかった。
私はふらふらとした足取りで自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
窓の外からは、手順書を片手に的確な指示を出すルークの声。
滞りなく決裁を進めるマーサの弾むような声。
騎士団に静音行動の訓練を命じるレオンハルトの、妙に抑えた低い声。
それらが、防音壁越しに微かな環境音として聞こえてくる。
誰も私を呼ばない。
誰も私に判断を求めない。
ただ、温かい部屋と、美味しい食事と、無限の自由時間だけがそこにある。
「おやすみなさい、世界……」
私は毛布に顔を埋め、今度こそ、本当に誰にも邪魔されない極上のニート生活の眠りへと落ちていった。
追放令嬢ヴィクトリアは、前世の知恵と理詰めの発想を駆使して、不毛の辺境を最強の要塞都市へと作り変えた。
そして今、組織を自ら動かすための手順書まで整えた。
これぞ真のハッピーエンド。
少なくとも、王都の愚か者たちが、その要塞都市の価値に気づくまでは。
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