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第48話:追放令嬢の終わらない報告

「――あぁ、なんて静かで、優雅で、完璧な朝かしら」


ハイポカウスト――床下から伝わる柔らかな熱が、部屋いっぱいに満ちている。


二重ガラスの窓の向こうでは、私が工法を教え、ルークたちが二十一日かけて築き上げた巨大なロックフィル防壁が、猛吹雪の音を厚く遮っていた。


昨夜は、魔物の大群すら水堀と斜面に阻まれ、勝手に体力を削られて壊滅したという。


それなのに、この部屋の中は、まるで世界の始まりのような深い静寂に包まれていた。


私はふかふかの羽毛布団に包まれながら、サイドテーブルに用意された温かい紅茶を一口すすった。


悪臭のする厠も。


凍えるような冷水も。


顎が壊れるほど硬い黒パンも。


すべては、もはや過去の遺物である。


衣食住と安全のすべてを制覇した私は、ついに究極のニート生活という名の栄光のゴールテープを切ったのだ。


「さあ、お腹も満たされたし、今日から私の本番よ。春が来るまで、ベッドの中で本を読みながら、ひたすら二度寝を貪ってやるわ……」


私が幸せのあまり身悶えし、再び枕に頭を沈めた、まさにその瞬間だった。


コンコンコンコンコンコンッ!!!


部屋の扉が、壊れんばかりの勢いで激しく叩かれた。


「お嬢様!! 起きてくだせえ! 急ぎの現場判断をお願いしやす!!」


聞き慣れた現場監督ルークの声だった。


私はピキッと眉をひそめ、渋々ベッドから上体を起こした。


昨夜、魔物を完封したばかりだというのに、もう現場の揉め事かしら。


「……何よ、ルーク。現場の指揮権はあんたに全部丸投げ……じゃなくて、委ねたでしょ。自分で決めなさい」


私が扉を開けずに冷たく言い放つと、扉の向こうのルークは半泣きのような声で訴えかけてきた。


「いや、俺の頭じゃこれ以上は無理っス! 防壁の第一工区と第三工区の巡回警備の番割りなんですけどね、お嬢様の言った質量則を守るには、交代を四刻ごとにするか六刻ごとにするかで、兵士たちの疲れ具合も、見回りの切れ目も変わっちまうんでさぁ!」


「何を言っているのよ、あなた」


「お嬢様の絶対安全基準に合格するかどうか、この番割り表に最後の印をくだせえ!」


「はぁ!? そんなの自分で計算しなさいよ!」


「無理っス! お嬢様の神がかった物理の理がなきゃ、怖くて誰も番を組めねえんです! 頼みやす、お嬢様ァッ!」


ルークを怒鳴りつけて追い返そうとした、その時。


廊下の向こうから、鋭いヒールの音がカツン、カツンと凄まじい速さで近づいてきた。


「ルーク殿、どきなさい。現場の番割りなどより、こちらの財務決裁の方が一刻を争います」


扉が開く。


分厚い書類綴りを抱えた文官マーサが、ほとんど突入に近い勢いで乱入してきた。


彼女の銀縁眼鏡の奥の瞳は、徹夜の興奮で怪しくぎらついている。


「失礼いたします、ヴィクトリアお嬢様。王都の三大商会から、冬の生野菜の追加発注に関する収支見込みと特約契約書が届きました。直ちに目を通していただき、可否の判断をお願いいたします」


「マーサ……あなたには予算の決裁権と金庫の鍵を渡したはずよ。私を巻き込まないで」


私が頭を抱えてカウチに倒れ込むと、マーサは冷静な、しかし逃げ道を一切許さない足取りでベッドサイドまで詰め寄ってきた。


「決裁権はあります。ですが、お嬢様の最終承認印がなければ、帳簿の整合性と、商会側への信用保証が成立しません」


「しなくていいわよ、そんなもの」


「いいえ、成立させます」


マーサは、書類綴りを勢いよく開いた。


「お嬢様が授けてくださった複式簿記の絶対秩序において、最高責任者である貴女の認可印こそが、我が領地の信用そのものなのです。さあ、この十四枚の契約書の余白に小さく書かれた制限条項を精査し、ここに署名を!」


「嫌よ! 私はもう数字なんて見たくないの!」


「ダメです。一円の使途不明金も許さないとおっしゃったのはお嬢様です。ほら、ペンをお持ちください」


マーサが書類綴りを私の顔の前に突きつけてくる。


現場の番割り。


王都との巨額の契約書。


丸投げしたはずの案件が、なぜかブーメランのように私の元へ全て戻ってきている。


そこへ、ドスドスと重々しい足音が響いた。


上半身裸のレオンハルトが、巨大な羊皮紙の束を抱えて部屋に突進してきた。


「ヴィクトリアァァッ!! 俺の筋肉の使い道についても、至急そなたの判断を仰ぎたい!!」


「レオンハルト!! あんたまで何なのよ! 騎士団の訓練でもやっていればいいでしょうが!」


「いや、それがだな!」


レオンハルトは図面をテーブルに広げ、真剣な顔で身を乗り出してきた。


「昨夜、水堀で力尽きた二百匹の魔物の残骸を引き揚げる件だが、ただ手作業で運んでは筋肉の無駄な疲弊、つまり食糧の浪費が生まれるとマーサに叱られてな!」


「マーサ、あなた何を注意しているのよ」


「人手と食糧の観点から、筋肉の無駄遣いは財政上の損失です」


「そう……」


レオンハルトは、私の反応など気にせず話を続けた。


「そこで、そなたが以前言っていた動滑車とてこの原理を応用した、効率的な筋肉用の引き上げ櫓を配置したいのだが、この重さの逃がし方を描いた図面のどこに、俺の承認印を押せばいいのか分からんのだ!」


彼は、大真面目な顔で胸を張った。


「そなたが認めてくれねば、俺の騎士団が前に進まん!」


「知るかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」


私は枕をレオンハルトの無駄に分厚い大胸筋に向かって投げつけた。


しかし、枕は虚しく弾き返された。


三人はそれぞれ、番割り表、契約書、重さの分散図を両手に持ったまま、全幅の信頼と崇拝が入り混じったぎらぎらとした目を私に向けて直立不動で待っている。


なんなのよ、これ。


何かが、何かが決定的におかしいわ……!


私はこめかみを押さえ、冷や汗を流しながら激しい目まいに襲われていた。


悪臭を消した。


お風呂を作った。


温室で豊作を成し遂げた。


防壁と水堀の作り方を教え、魔物が勝手に敗北する防衛線まで完成させた。


現場の揉め事はルークに。


お金の管理はマーサに。


武力の運用はレオンハルトに。


すべて完璧に役割を分けた。つまり、丸投げしたはずだった。


なのに、なぜ私は、朝からパジャマ姿のまま彼らの判断を仰がれ、絶え間なく部屋の扉を叩かれているのか。


その時だった。


前世のゼネコン時代、現場全体を預かる責任者として、地獄のような納期地獄をさばいていた頃の最悪の記憶が、鮮明に脳裏に蘇った。


そうだったわ……。


組織において、役目を委ねたところで……。


仕事の手順と、誰がどこまで決めていいかという基準がなければ、すべての判断が、最後には上に立つ者のところへ集まってくるのよ……!


いくら部下たちが優秀になろうとも、彼らに「自分で判断し、自分で処理を終わらせるための明確な決まり」が存在しない。


だから、彼らは何かあるたびに、神算鬼謀の君主と勘違いしている私の元へ「これで合っていますか」と確認しに来るのだ。


しかも悪いことに、彼らは私の言葉を神託のように扱っている。


少しでも判断を誤れば、お嬢様の安眠を損なう。


少しでも数字を間違えれば、お嬢様の財政の理に反する。


少しでも筋肉を無駄に使えば、お嬢様の効率思想に背く。


そう思い込んだ結果、彼らは自分で判断することを恐れ、すべての案件を私に差し戻してくるようになってしまったのである。


つまり。


私が彼らを優秀にしすぎたせいで。


私は領地全体のあらゆる業務の最終承認を押すためだけに、二十四時間体制で拘束される羽目になっていたのだ。


「お嬢様、この契約書の利回り計算なんですけれど……」


「お嬢様! 第三工区の土質改良の配合について確認を! 石灰と火山灰と粘土の割合は、三対二対五でよろしいのでしょうか!」


「ヴィクトリア! 櫓の支点、力点、作用点の位置が――」


「あああああもううるさいわねえええええええッッ!!!!」


私は頭を抱えてベッドに転がった。


外からの魔物の騒音は、防壁と水堀で大きく遮った。


なのに、まさか身内の「報告の嵐」という名の内なる騒音によって、私の安眠が破壊されるなんて。


ただサボりたかっただけなのに。


ただ寝たかっただけなのに。


暮らしを整えすぎた結果、領地のすべてが勢いよく回り始め、そのすべての判断が私の元へ雪崩れ込んできている。


過労死した前世の黒い職場と何も変わらない、理不尽な現実。


その名も、意思決定の詰まり。


追放令嬢ヴィクトリアは、常夏のように暖かい部屋の中で、絶望の悲鳴を上げるしかなかった。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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