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第47話:追放令嬢にひれ伏す騎士団

猛吹雪が去り、突き抜けるような冬の青空が広がった翌朝。


黒曜辺境伯領の中核を取り囲む巨大なロックフィル防壁と、その眼下に広がる水堀の前には、完全武装した黒曜騎士団の騎士たちが、一言も発することなく整列していた。


彼らの視線の先にあるのは、静まり返った水面。


そして、そこに浮かぶ魔物、岸辺に打ち上げられた魔物、捕獲柵に絡め取られて動けなくなった魔物たちの姿である。


昨夜、二百を超える魔物の群れが、この防衛線に押し寄せた。


だが、領地の内側へ侵入できた魔物は、一匹もいなかった。


「……信じられるか、おい」


歴戦の古傷を顔に持つ古参の小隊長が、震える声でぽつりと呟いた。


「ブリザード・ウルフの大群に、スノー・エイプの群れだぞ。例年なら、俺たちの部隊の半数が重傷を負い、何人かが命を落とす……辺境における死の冬の象徴だ。それが……」


「俺たちは昨日、剣を一度も抜いていない」


隣の若い兵士が、己の無傷の鎧を見下ろしながら、夢でも見ているかのように答えた。


「盾も構えていないし、弓の一本すら射っていない。それどころか、壁にも大きな傷はない。魔物どもはあの斜面を登りきれず、勝手に滑り落ちて、勝手に水堀で力を使い果たしたんだ……。俺たちはただ、壁の上からそれを見下ろしているだけだった……!」


ざわ……ざわ……と、騎士たちの間に畏れにも似たざわめきが広がっていく。


辺境防衛とは、すなわち命の削り合いである。


魔物の爪に引き裂かれ、血の海の中で友の屍を越えて剣を振るう。


それが彼らの常識であり、誇りでもあった。


しかし、その常識は、一人の追放令嬢がもたらした土木の知恵によって、根底から揺さぶられた。


「――皆の者、よく聞け」


静寂を破り、重厚な足音と共に前に進み出たのは、黒曜辺境伯レオンハルトだった。


相変わらず上半身裸の彼は、しかし今日はいつものような豪快な笑みを浮かべてはいなかった。


その表情はかつてないほど真剣で、どこか神聖なものに打たれたような厳粛さに満ちていた。


「俺は今まで、この領地を守るのは己の筋肉と、鍛え上げた大剣だけだと信じて疑わなかった」


レオンハルトは、己の分厚い掌をじっと見つめた。


「力で押し寄せる魔物には、より強い力で対抗する。それが騎士の誉れであり、領主の務めであるとな」


彼はゆっくりと顔を上げた。


「だが、違ったのだ」


騎士たちの視線が、レオンハルトへと集まる。


「ヴィクトリアがもたらした土木の理という究極の戦術を前にして、俺は己の浅はかさを恥じた。戦わずして勝つ。これこそが、兵法の極致!」


レオンハルトの声が、冬の空気を震わせた。


「一滴の血も流さず、兵の命を一つも損なわず、敵を退ける。これ以上の完璧な勝利が、この世にあるだろうか!!」


レオンハルトの叫びに、騎士たちがハッと息を呑む。


「それに引き換え、俺はどうだ!? 己の武勇を見せつけるために、いたずらに剣を振り回し、お前たちを死地に立たせていたのではないか?」


レオンハルトは、完成した防壁を振り返った。


「ヴィクトリアは、そんな俺たちの無謀な戦いを見かねて、この防壁の理を授けてくれた。我ら自身の手で、我ら自身の命を守れる仕組みを築かせてくれたのだ!!」


「そ、そうだったのか……!」


「お嬢様は、俺たち末端の兵士の命を、何よりも重く見てくださっていたんだ……!」


騎士たちの目に、熱い涙が滲み始める。


そこに、分厚い書類綴りを抱えた文官マーサと、図面を巻いた現場監督ルークも歩み寄ってきた。


「数字がすべてを物語っています」


マーサが、血走った目で眼鏡を押し上げながら厳かに告げた。


「負傷者ゼロ。死者ゼロ。薬代も見舞金も発生なし。武器、防具の損耗もほぼなし。そして、騎士の皆様が死の恐怖に晒される機会も大幅に減りました」


マーサは、書類綴りを胸に抱きしめた。


「お嬢様の絶対安全戦略は、我が領地の人材という最も尊い財産を守る、究極の慈悲なのです!」


「俺たち土木班も同じですぜ」


ルークが泥だらけの手で鼻の下を擦った。


「お嬢様は『面倒だから勝手にやれ』なんて悪態をついておきながら、俺たちの三か月がかりだった工事を見かねて、切り盛りだの、工区割りだの、道の通し方だのを教えてくれた」


ルークは、完成した防壁を見上げた。


「そのおかげで、俺たちは二十一日でこの防壁を完成させることができたんです。あの人は、俺たちにただ壁を作らせたんじゃねえ。俺たち自身の手で、領地を守る力を与えてくれたんだ!」


勘違いが、勘違いを呼び、もはや誰も止めることのできない巨大な雪玉となって転がり始めていた。


自分の安眠を守るため。


騒音を消すため。


面倒な戦闘や修理に巻き込まれないため。


極限まで自己中心的なヴィクトリアの動機は、彼らの熱すぎる忠誠心を通して、一人の犠牲も許さない究極の愛と慈悲の戦術へと、完全に反転していたのである。


「レオンハルト様……! 俺たちは……俺たちは……!!」


古参の小隊長が、たまらずその場に膝をつき、男泣きに泣き崩れた。


それに続くように、次々と騎士たちが黒曜石のような硬い大地に跪き、頭を垂れていく。


「さあ、皆の者!」


レオンハルトが大剣を天に掲げ、咆哮した。


「太陽の如き慈悲深き我らの主の元へ向かうぞ!!」


◆ ◆ ◆


その頃。


領主の館、一階の巨大なエントランスホール。


「――ふわぁぁ……。ルークー、マーサ? どこ行ったの? 朝食の後のデザートのイチゴ、まだ届いてないんだけど……」


私はパジャマの上にふわふわのガウンを羽織り、寝起きの目を擦りながら、スリッパをぺたぺたと鳴らしてエントランスへ降りてきた。


昨夜の防音防壁のおかげで、十時間ぶっ通しで爆睡できた私の機嫌はすこぶる良かった。


やはり睡眠こそが健康と美容の源である。


イチゴにたっぷりとハチミツをかけて食べたら、もう一度ベッドに戻って本でも読みながら二度寝しよう。


そんな至高のニート計画を頭に思い描いていた、その時だった。


ザッ……!!!


エントランスホールの巨大な扉が開いた。


先頭に立っていたのは、レオンハルト。


その後ろにはルーク、マーサ、そして黒曜騎士団の小隊長たちが続いている。


さらに扉の外、広場にまで、数百名の騎士たちが一糸乱れぬ姿勢で整列していた。


彼らは私の姿を見るなり、その場で一斉に片膝をつき、深く、深く頭を垂れた。


「……へ?」


何事か。


私はただ、朝イチゴの催促に来ただけなのに。


なぜエントランスが中世の戴冠式のような異様な熱気と、むさ苦しい男たちの筋肉で満たされているのか。


私は寝ぼけた頭のまま、呆然と立ち尽くした。


「ヴィクトリア……いや、ヴィクトリアお嬢様!!」


レオンハルトが、今まで私のことを呼び捨てにしていたにもかかわらず、突如として恭しく「お嬢様」と呼び、騎士たちの先頭で片膝をついた。


「レオンハルト? あなた、どうしたの? 筋肉でもつったの?」


「いいえ!」


レオンハルトは、感極まったように拳を握りしめた。


「俺の筋肉は今、かつてないほどの歓喜と、貴女への絶対的な畏敬の念に震え上がっております!」


「……筋肉が?」


「昨夜の奇跡の戦術、しかと見届けました!」


レオンハルトは顔を上げ、燃えるような瞳で私を見つめた。


「我ら黒曜騎士団、剣を抜かずして魔物の大群を完封するという、戦史に残る偉業を経験いたしました! これもすべて、貴女様の『兵の血をこれ以上一滴も流させない』という、海よりも深い慈悲の賜物!」


「あ、いや、私はただ、夜中にチャンバラの金属音が響くとうるさくて眠れな――」


「お言葉を遮る無礼をお許しください!!」


私の本音を、レオンハルトの凄まじい大声がかき消した。


「貴女様は、自らの安眠時間を削ってまで我らに理を授け、なおかつ『自分が寝たいだけだ』と悪ぶって見せる……! その深き自己犠牲の精神、我ら黒曜騎士団一同、心の底より感服いたしました!!」


「……はい?」


自己犠牲?


私が?


私の頭の中に巨大な疑問符が浮かぶ中、今度は古参の小隊長が涙声で叫んだ。


「お嬢様! 俺たちは今まで、命を捨てることこそが辺境の盾の役割だと思っておりました!」


小隊長は、床に拳をついた。


「しかし、お嬢様は俺たちに『生きて、温かい飯を食え』と教えてくださった! この命、もはやお嬢様以外の誰のために使いましょうか!!」


「我らの命、ヴィクトリアお嬢様と共にあり!!」


ホールの内外から、騎士たちの忠誠の声が一斉に響き渡る。


そのすさまじい音量に、私は思わず耳を塞いだ。


防音壁のおかげで外からの騒音は消えたのに、まさか家の中で直接、狂信的な叫びを浴びることになるとは思わなかった。


「ちょっと、うるさいわよ! 朝から大声を出さないで!」


私が不機嫌に眉をひそめると、騎士たちはハッとして、すぐに口を手で塞ぎ、ぴしっと直立不動の姿勢をとった。


「そ、そうであった!」


レオンハルトが、慌てて振り返る。


「お嬢様は無駄な騒音を何よりも嫌われる! お嬢様の安眠と静寂を守ることこそが、我ら新生・黒曜騎士団の絶対任務である!」


「ははっ!! お嬢様の安眠は、我らが命に代えても死守いたします!!」


またしても声が大きい。


私がじろりと睨むと、騎士たちは一斉に肩を跳ねさせた。


「……し、失礼いたしました」


今度は全員が、口を閉じたまま、ぎらぎらとした忠誠の目で私を見つめ、静かに、しかし熱烈に頷き合っていた。


それはそれで怖い。


その後ろから、マーサとルークも静かに進み出てきた。


「お嬢様。これでもう、我が領地から無駄な死という損失は大きく減りました。貴女様の合理的な理が、この領地を最強の組織へと鍛え上げたのです」


マーサが眼鏡を光らせて微笑む。


「お嬢様はゆっくり、思う存分二度寝してくだせえ! 外の掃除、つまり魔物の残骸処理も、水堀の点検も、崩れた岩の補修も、全部俺たちが音を立てずに終わらせておきやすから!」


ルークが泥だらけの顔でウィンクをした。


「……なんか、もう完全に話が通じない段階に入ってるわね、これ」


私は深いため息をついた。


私が「サボりたい」「寝たい」「うるさいのが嫌だ」と言えば言うほど、彼らの頭の中ではそれが「無駄を省く究極の効率化」「部下の命を守る愛」「静寂の平和を愛する女神」といった、とんでもない形に変わってしまうらしい。


しかし。


私はぺたぺたとスリッパを鳴らしながら、階段を少しだけ登り、彼らを見下ろした。


まあ……美味しいご飯が出てきて、静かに寝られて、面倒なことを全部やってくれるなら、理由なんて何でもいっか。


究極の利己主義者、そしてニート志望である私にとって、彼らが勝手に崇拝して勝手に働いてくれる現状は、まさに理想郷の完成を意味していた。


「……あなたたちのその忠誠心、しかと受け取ったわ」


私が、あえて追放令嬢らしい不敵な、そして尊大な笑みを浮かべてそう告げると、エントランスホールの空気がびりっと震えるほどの静かな熱狂に包まれた。


「ただし!」


私は人差し指を立て、彼らを見下ろす。


「私の睡眠を邪魔するような失態は二度と許さないわよ。私の安眠と、美味しい食事の提供。それを完璧に遂行し続ける限り、私がこの領地を無敵に近づけてあげる」


「ははぁっ!!!」


また大声。


私が無言で睨む。


「……ははぁっ」


今度は、全員が囁くような声で頭を垂れた。


黒曜辺境伯レオンハルト。


そして黒曜騎士団の全員。


彼らの完璧な臣従の姿勢は、まるで私がこの領地の真の女王であるかのような錯覚さえ覚えさせるものだった。


こうして。


魔物を完封し、騎士団の狂信的な忠誠を手に入れた私は、衣食住と安全のすべてを制覇した。


辺境の暮らしを整える第一章の目的は、私の堕落への執念によって、望んだ以上の形で達成されたのだ。


「さあ、ルーク。早くイチゴにハチミツをかけて持ってきなさい。私はベッドに戻るわ」


「ははっ! ただちに!」


「静かに」


「……ただちに」


優雅にガウンの裾を翻し、私は自分の聖域、つまりベッドルームへと歩き出す。


この絶対的な安全圏から、私が外に出る理由などもう何もない。


私の勝ち組ニート生活は、今度こそ永遠に保証されたはずだった。


――そう。


王都の宮廷で、私の残した仕組みの喪失に気づいた愚か者たちが、パニックに陥りながら「ヴィクトリアを取り戻せ」と軍を動かし始める、その時までは。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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