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第46話:追放令嬢の不戦勝

漆黒の闇と横殴りの猛吹雪に白く塗り潰された、深夜の黒曜辺境伯領。


完成したばかりの防壁の内側に設けられた監視所では、レオンハルト、ルーク、そしてマーサの三人が、息を殺しながら、壁の外側に広がる底なしの暗闇を睨みつけていた。


「来るぞ……。前回の襲撃からまだ数日しか経っていないというのに。あの温室が絶え間なく放ち続ける豊穣の匂いに引き寄せられ、またしても飢えた魔物の大群が集まってきやがった」


大剣を背に帯び、相変わらずこの極寒の中でも上半身を晒したままのレオンハルトが、喉の奥から絞り出すような声で呟いた。


「警鐘を鳴らしますかい、旦那?」


ルークが引き締まった顔で尋ねると、隣のマーサが血相を変えて激しく首を横に振った。


「絶対に駄目です! もしあの忌々しい鐘の音でお嬢様の眠りが妨げられるようなことがあれば、今度こそ魔物ごと、この領地全体が彼女の手によって物理的に地図から消し飛ばされますよ!」


マーサは手にした分厚い書類綴りを壊さんばかりに抱きしめ、歯の根をがたがたと震わせながら続けた。


「お嬢様の安眠は、現在この領地において、いかなる法や軍事よりも最優先で守るべき絶対の命題なのです!」


「そ、そうだった……! 魔物の牙より、あのお嬢様の逆鱗に触れる方がよっぽど恐ろしいんだったぜ!」


ルークが冷や汗を流しながら、顔を引き攣らせる。


その直後、猛吹雪の向こう側から、凍った大地を激しく揺らす不気味な地鳴りとともに、無数の赤い眼光がぬっと浮かび上がった。


牛ほどもある巨大な銀狼、ブリザード・ウルフ。


丸太のような四本の太い腕を持つ雪猿、スノー・エイプ。


闇を埋め尽くすその数は、ざっと見積もっても二百を軽く超えている。


飢えに狂った獣どもは、暗闇の中で熱と光を放ち、肉と野菜の匂いを強烈に漂わせる領主の館と温室を目がけ、雪煙を巻き上げながら凄まじい速度で突進を開始した。


「来るぞ! 弓兵、構え――」


前線指揮官としての本能が、レオンハルトに反射的にそう叫ばせようとした、まさにその瞬間だった。


「ガァァァァッ!!」


先陣を切って真っ白な雪原を全速力で突き進んできたブリザード・ウルフたちの巨体が、突然、視界から消え失せた。


ドッボォォォォォォンッ!!!


凄まじい轟音とともに、氷点下の水柱が猛吹雪の夜空高くへと舞い上がった。


「あ……」


ルークの口から、間の抜けた声が漏れる。


魔物たちは、自分たちの進路を断ち切るように横たわっていた、幅広く深く掘られた水堀の存在に、地吹雪のせいで直前まで気づけなかったのだ。


数トンもの肉の塊が全速力で疾走していれば、そう簡単には止まれない。


彼らは勢いそのままに、次々と冷たい漆黒の水の中へ真っ逆さまに突っ込んでいった。


「キャンッ!?」


「グルルルルッ!?」


氷点下に近い冷水に叩きつけられた魔物たちは、一瞬で混乱し、必死に四肢をもがきながら水面へ浮かび上がろうと暴れ始めた。


「すげえ……お嬢様の言った通りじゃねえか」


ルークが総毛立つように身震いしながら呟いた。


「数トンの重さを持つ魔物のあの恐ろしい突進の勢いが、水堀に落ちただけで、一瞬にして根こそぎ奪われちまった……!」


「速度が落ちれば、それに伴って壁にかかる衝撃も大きく減ります」


マーサが、冷え切った震える指先で計算板を叩きながら言った。


「本当にお嬢様の理屈通りです。あの水堀は、ただ敵を溺れさせるための穴ではありません。突進という名の勢いそのものを、物理的に削ぎ落とすための減速装置なのです!」


しかし、冬の過酷な環境を生き抜いてきた魔物たちも、これだけで全滅するほど弱い存在ではなかった。


「グォォォォッ!!」


屈強な筋力を持つスノー・エイプたちは、凍える冷水を押しのけて次々と岸へ這い上がり、水堀のすぐ後ろに巨大な影となってそびえ立つ大防壁の斜面へ取り付いた。


「抜かれたぞ! 奴らが壁を登ってくる!」


レオンハルトが再び大剣の柄に手をかける。


今までの防衛戦ならば、魔物たちは垂直な石壁に強靭な爪を立てて強引によじ登るか、その圧倒的な重さによる体当たりで壁そのものを砕いてきた。


だが、今回彼らの前に立ちはだかるのは、頑固な垂直の石壁ではない。


ヴィクトリアがその理屈を語り、ルークたち領民と黒曜騎士団が三週間かけて築き上げた、なだらかな岩の傾斜――ロックフィル防壁である。


ドズゥゥゥンッ!!


一匹の巨大なスノー・エイプが、己の全体重を乗せた強烈な体当たりを壁の斜面にぶちかました。


しかし、大気が震えるほどの衝撃音が響いても、防壁はびくともせず、ひび一つ入らない。


「それはね、魔物の突進の威力が、斜面によって上へいなされるからよ」


昼間に執務室でヴィクトリアが淡々と語った言葉が、ルークの脳裏に鮮明に蘇る。


魔物がまっすぐ放った激突の力は、なだらかな斜面に触れた瞬間、斜め上へ逃がされる。


スノー・エイプは壁を真正面から砕く力を奪われ、ただ斜面に沿って上へ滑り押し上げられる形になるのだ。


「ギ、ギィィィッ!?」


勝手に壁を登らされる形になったスノー・エイプは、そのまま強引に頂上を越えようと、丸太のような太い腕で表面の岩を掴んだ。


しかし、ロックフィル防壁の外側を覆う岩石層は、漆喰でがちがちに固められた一枚の岩盤ではない。


大小さまざまな不揃いの岩が噛み合い、わずかな隙間と動く余地を残しながら積まれている。


ガラガラガラッ!!


「ギャッ!?」


魔物が力任せに体重をかけて岩を掴んだ瞬間、表面の巨岩が、生き物のようにわずかにずれた。


壁全体が崩れたわけではない。


だが、魔物の足場とバランスを奪うには、それだけで十分だった。


スノー・エイプは踏ん張る場所を失い、そのままなだらかな斜面を無様に転げ落ちていく。


そして再び、背後に控える冷たい水堀の中へ、どぼんと盛大な音を立てて落下した。


「な、なんだこれは……一体どうなっているんだ……」


レオンハルトが、大剣の柄から完全に手を離し、ただ呆然と目の前の光景を見つめて呟いた。


「凄まじい、あまりにも完璧な防衛の仕掛けです……!」


マーサが計算板を叩きながら、どこか陶酔したような声で戦況を解説する。


「まず水堀で前へ進む速さを奪われる。次に、水を吸ってずぶ濡れになり、重くなった体を引きずりながら、足場の悪い斜面を無理やり登らされる。さらに、岩を力任せに殴りつけようとしても、固定されていない岩同士がわずかに身をよじることで、その衝撃を擦れ合いに変えて散らしてしまう!」


マーサの声が、地吹雪の音をかき消すほどに熱を帯びていく。


「魔物たちは今、前へ進もうとする自らの重さと、大地へ引かれる力、そして岩石の擦れ合いという、絶対の理に勝手に敗北しているのです!!」


まさに、その言葉通りの一方的な展開だった。


魔物たちが何度冷水から這い上がり、斜面を登ろうとしても、足場が悪く、岩がずれ、そのたびに体勢を崩して元の水堀へと逆戻りしていく。


自暴自棄になって壁へ体当たりを繰り返しても、その衝撃はことごとく斜面に沿って逃がされ、ただ無駄に体力を削っていくだけ。


水堀と傾斜、そしてごつごつした岩石が織りなす、抗いようのない自動防衛の罠。


一時間後。


二百以上いたはずの魔物の大群は、防壁に大きな傷一つ与えることもできないまま、冷たい水堀と過酷な斜面に体力を吸い尽くされていた。


泳ぐ気力すらなくし、水堀の端に設けられた捕獲柵へ力なく流されていくもの。


斜面を登り切る絶望感に叩きのめされ、命からがら森の奥へ逃げ帰っていくもの。


完全に力尽き、冷たい水面にぷかりと浮かぶもの。


気づけば、防壁の向こう側――私たちの暮らす領地の内側へ侵入できた魔物は、ただの一匹として存在しなかった。


戦わずして勝つ、完全なる不戦勝。


防壁の上の監視所には、ぽかんと間抜けに口を開けた屈強な男たちと、感涙にむせぶ文官の姿だけが残されていた。


「……終わった、のか?」


レオンハルトが、自らの戦うために鍛え上げられた太い腕を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「俺は、一度も大剣を振るっていない。後ろの兵士たちも、弓の一本、槍の一突きすら放っていない。ただ土を掘り、壁と水堀を作っただけで……あれほどの魔物の大群が、勝手に壊滅したと言うのか……?」


「ガッハッハ、と笑い飛ばすこともできねえくらいの、圧倒的な守りですね、旦那」


ルークが引き攣った笑みを浮かべた。


「これが、お嬢様の言っていた土木の理屈ってやつか……。最初に死ぬ気で働いて仕組みさえ作っておけば、あとはその仕組みが勝手に守ってくれる。究極の全自動防衛城壁だぜ……!」


「素晴らしい! 素晴らしすぎます、ヴィクトリアお嬢様!」


マーサは書類綴りを愛おしそうに抱きしめ、天を仰いで大粒の涙を流した。


「兵士の疲れ、ほぼなし! 武器の消耗、完全にゼロ! 味方の怪我人も当然ゼロです! 我が領地が抱え続けていた防衛にかかる費えが、ついに限りなくゼロへ近づきました!!」


泣いていたマーサは、しかし次の瞬間には袖で涙を乱暴に拭い、すっかり文官の顔に戻って声を張り上げた。


「ただし、水堀の管理、捕獲柵に詰まった魔物の回収、外側の岩石層のずれの確認は必須です。明朝一番で、死体回収班と壁の補修班を編成します。放置すれば水が汚れ、ひどい悪臭の原因になりますからね!」


「そこは妙に現実的なんだな……」


ルークが呆れたようにぼそりと呟いた。


こうして、黒曜辺境伯領の長い歴史において、いまだかつて誰も見たことがない、人間の血を一滴も流さない完璧な防衛戦は、静かに幕を閉じた。


もちろん、魔物の血は大量に流れたわけだが。


◆ ◆ ◆


翌日の昼過ぎ。


「ふあぁぁ……。よく寝たわね」


私は至高の寝心地を誇るふかふかのベッドの上で、手足を思いきり伸ばして大きなあくびをしながら目を覚ました。


部屋の中は床暖房の熱でぽかぽかに温まり、そして何より――一晩中、耳が痛くなるほどの静けさが部屋を満たしていた。


山を削る発破の騒音も。


魔物のぎゃあぎゃあ喚く忌々しい遠吠えも。


筋肉ダルマどもの暑苦しい雄叫びも。


少なくとも、私の繊細な鼓膜を不快に揺らす騒音は、何ひとつとして届かなかった。


「完璧ね。やっぱり、静けさと安全が約束された睡眠こそが、人生における至高の果実だわ」


私は優雅な動作で部屋着のガウンを羽織り、遅めの朝食をとるために一階の食堂へ向かった。


木製のテーブルの上には、温室で採れたばかりのみずみずしいトマトとレタスのサラダ。


焼き立てのふかふかの白パン。


そして、湯気を立てる温かいコーンスープが、私の目覚めに合わせて完璧なタイミングで用意されていた。


「おはようございます、お嬢様!」


食堂の隅に直立不動で待機していたルークが、目をこれ以上ないほどきらきらと輝かせながら、見事な最敬礼をしてきた。


「おはよう、ルーク。なんだか朝からすごく機嫌が良さそうだけれど、何か良いことでもあったの?」


私がしゃきしゃきとしたレタスをフォークで口に運びながら尋ねると、ルークは興奮を抑えきれない様子で、昨夜の出来事を熱っぽく報告し始めた。


「聞いてくだせえ! 実は昨日の真夜中、二百匹を超える魔物の大群がこの館目がけて押し寄せてきたんですよ!」


「……は? 魔物が?」


私のスープをすくおうとした手が、ぴたりと止まる。


「ええ! でも、お嬢様が教えてくださったあの水堀とロックフィル防壁のおかげで、俺たち兵士は指一本、剣一振り動かすことなく、魔物どもは勝手に水に落ち、斜面から滑り落ちて、ほとんど壊滅しちまったんです!」


ルークは、自身の拳を強く握りしめた。


「壁には大きな損傷もなし! 表面の岩がほんの少しずれた場所はありますが、そこは今朝早くに補修班がすぐ石をごろごろ転がして直させました! 完全なる不戦勝、完璧な勝利ですぜ!!」


「あ……そう。ふぅん」


私は何事もなかったかのように再びフォークを動かし、真っ赤なトマトをぱくりと頬張った。


ルークは私がもっと驚くか、あるいは天才的な笑みを浮かべると思っていたようだ。


だが、私からすればそんなものは、設計段階で織り込み済みの当然の結果である。


「当然の結果でしょう? 突進の速さを水で奪って、激突の衝撃を斜面で上へいなして、登ろうとするほど自分の重さで疲れる構造にしたんだから。数トン程度の魔物がいくら頭から体当たりしたところで、あの厚い土壁が簡単に壊れるわけがないじゃない」


私は温かいスープを一口流し込んで喉を潤してから、淡々と続けた。


「それより、私の寝込みを襲おうとした不届きな魔物たちは、一匹残らずしっかり処理したのよね?」


「へ、へい! 森へ逃げ帰った数匹以外は、水堀と捕獲柵に引っかかって動けなくなっていたところを、今朝すべて処理いたしました!」


「よろしいわ」


私は優雅な手つきで、淹れたての紅茶のカップを傾けた。


「私が一番気にしているのは、壁の強さそのものじゃなくて、周囲の静けさよ。昨夜、一度も騒音で起こされなかった時点で、この防壁は大成功ね。この調子で、今後もし別の魔物がやってきたとしても、いちいちあのうるさい警鐘を鳴らしたりせず、私を絶対に起こさないようにしなさい。いいわね?」


「ははっ! 心より、命に代えて承知いたしました!」


ルークは、深々と腰を折って頭を下げた。


「お嬢様の絶対的な安眠領域は、この現場監督ルークが責任を持って維持管理してみせやす!」


深く頭を垂れる部下の姿を眺めながら、私は至高の満足感に浸っていた。


自ら泥にまみれて働くことなく、外からの脅威は大地の理が勝手に弾き返し、美味しい食事が完璧な状態で目の前に運ばれてくる。


「勝ったわ……。私はついに、前世の全人類が羨む究極の引きこもり生活を完全なものにしたのよ……!」


あの悪臭が漂う極寒の最悪な田舎は、今や簡単には破られない質量不抜の防音壁と、尽きないほどの食糧を生む温室、そして完璧な床暖房を備えた、世界で最も快適な引きこもり要塞へと完全な変貌を遂げたのだ。


追放令嬢ヴィクトリアが、前世の土木の知恵と理詰めの考え方を駆使して辺境の暮らしを作り替えた第一章。


すべてを手に入れた彼女の、誰にも邪魔されない至高の引きこもり生活が、今度こそ、本当に幕を開けた――。


――しかし。


この王都の守りすら遥かに凌ぐ最強の要塞都市の誕生が、やがて王国全土の力関係を揺るがす巨大な政治的波乱の幕開けとなることを。


ベッドの中でよだれを垂らし、幸せそうに爆睡するヴィクトリアは、まだ微塵も知る由もなかったのである。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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