第44話:追放令嬢のロックフィル構造
「……ヴィクトリア。お前が描いたこの図面だが……これはいったい、何なんだ?」
領主の館、一階の執務室。
巨大な漆黒の木製テーブルの上に広げられた新しい設計図を前に、レオンハルトが太い腕を組み、怪訝そうに眉間を寄せていた。
その隣では、ルークとマーサも同じように首を傾げ、困惑の視線を落としている。
彼らが言葉を失うのも無理はなかった。
私が羊皮紙に黒炭の太い線で書き殴った城壁の断面図は、彼らが思い描いていた「高くそびえ立つ、威風堂々とした垂直の石壁」とは、似ても似つかない代物だったからだ。
底辺が異様なほど広く、頂上に向かってなだらかな傾斜を描きながら細くなっていく巨大な台形。
言うなれば、ただの人工の小山か、巨大な土手のような形をしていた。
「これじゃあ、壁というより、ただの頑丈な土手じゃねえですか」
ルークが、煤けた指先で図面の一角を突つきながら言った。
「しかも、外側がこんなふうになだらかな坂になってる。これじゃあ、魔物どもは壁にぶつかって止まるどころか、この斜面を勢いよく駆け上がって、そのまま内側に乗り越えてきちまうんじゃねえですか……?」
「それはね、ルーク。あなたが平地を走る速さと、重い体で険しい斜面を駆け上がる速さを、同じものだと思い込んでいるからよ」
私は柔らかな長椅子に深く背を預け、温かい紅茶を一口含んで喉を潤してから、静かに解説を始めた。
「いい? 昨夜のスノー・エイプのように、馬車数台分もの巨体を持った魔物が勢いよく突進してきたとするわ。もし壁が今まで通りの垂直だったら、昨日教えた通り、魔物は全速力のまま激突して、その破壊的な衝撃を壁の一点に集中させる。でも、壁が最初から斜面だったらどうなるかしら?」
私は指先から魔力をうっすらと走らせ、テーブルの上の空間に淡く光る軌跡を描き出した。
突進してくる魔物の動きと、斜面に当たった後の進む先を見せるためだ。
「魔物は斜面に触れた瞬間、その前へ進もうとする勢いを、強制的に斜め上へ曲げられる。つまり、壁を叩き壊す前に、嫌でも壁を登らされる形になるわけね」
「ふむ。だが、そのまま勢いよく登り切られてしまっては元も子もないだろう……」
「突進の勢いだけで、そう簡単にてっぺんまで登り切れるはずがないわ。彼らの巨体は、馬車数台分もあるのよ?」
私は不敵に口元を歪めた。
「重たい肉の塊が斜面を駆け上がれば、当然、大地はその体を下へ引き戻そうとする。難しい理屈を抜きに言えば、彼らの持つ前進の勢いは、斜面を一段登るごとに削られて、みるみるうちに速さを失っていくのよ」
私は羊皮紙の図面の外側に、ごつごつとした不揃いな岩の層を書き足した。
「しかも、その表面は綺麗な坂道なんかじゃない。大小さまざまな、角の尖った岩を噛み合わせた、足場の最悪な斜面よ。爪を立てても岩がわずかに動いて力を逃がす。太い足を置いても、足元がずれて踏ん張りにくい。突進の勢いは容赦なく削られ、岩同士の擦れ合いと足場の崩れで、どんどん失われていくわ」
「つまり……」
ルークが、ごくりと喉を鳴らした。
「魔物は壁をぶち破るつもりで頭から突っ込んだのに、気づけば勝手に険しい坂を登らされて、勝手に足が止まっちまうってことですかい?」
「そういうこと。最後は頂上に届く前に勢いを殺され、自分の重さに耐えかねて斜面を転げ落ちる。自分自身の巨体そのものが、最大の足枷になるのよ」
「おおっ……!」
レオンハルトが、はっとしたように目を見開き、自身の硬い膝をがつんと叩いた。
「なるほど! 真正面から敵の刺突を盾で受け止めるのではなく、大剣の腹を使って斜め上へいなすのと同じ理屈か! 相手の突進の力を利用して空を切らせる……まさに武術の極意そのものだな!」
「そういうこと。ずいぶん筋肉に寄った例えだけれど、理屈としては大正解よ」
私が大真面目に頷くと、今度はルークが図面の細かい内部構造へ顔を近づけた。
「突進の威力を上へ逃がす仕掛けは分かりやした。でもお嬢様、この図面……壁の中身が三つの層に分かれてますぜ?」
ルークは、羊皮紙に記された文字を泥まみれの指先でなぞりながら、一つずつ読み上げていく。
「一番外側は大岩。真ん中は細かい砕石と砂利。そして一番の芯は粘土……って書いてある。石を漆喰でがちがちに固めて、一枚の壁にしねえんですかい?」
「ええ、固めないわ。むしろ、全部を固めて一本の棒みたいにしてしまっては駄目なのよ」
私は図面の三層構造を指先でとんとんと叩いた。
これこそが、前世の土木の知恵で、水の圧や地震の揺れという大自然の力を受け止めるために使われていた考え方だ。
硬い一枚岩として意地を張るのではなく、岩、砂利、土を組み合わせ、全体をわずかに動かしながら衝撃を受け止める。
「この構造を、ロックフィル構造と呼んでいるわ。硬さだけで頑なに耐えるのではなく、わずかな変形と、岩同士の擦れ合いで衝撃を受け流す防壁よ」
私は身を乗り出し、三人の前で、それぞれの素材が持つ役割を順に解き明かし始めた。
「まず、一番外側を覆う大岩の層。ここは、山から切り出してきた大小さまざまな岩を、斜面状に積み上げる場所よ」
「積み上げるだけだと!? 接着も固定もしないのか!?」
「ええ。あえて完全には固定しない。岩と岩の間に、わずかな隙間と噛み合わせの遊びを残しておくの」
私は、手のひらの上に魔力で小さな岩の模型をいくつも浮かび上がらせた。
そこへ、魔物を模した土の塊を勢いよくぶつけてみせる。
岩の模型は木っ端微塵に砕けるのではなく、互いに少しずつずれ、ぶつかり合い、ぎりぎりと擦れ合いながら、激突の衝撃を散らしていった。
「万が一、魔物の突進の衝撃が斜面で殺しきれずに外側の岩へ伝わったとしても、固定されていない岩同士がわずかに動くことで、激突の力を擦れ合いや揺れに変えて逃がしてしまう。だから、一枚の綺麗な石壁みたいに、ひびが一直線に走って一気に崩れる危険を減らせるのよ」
「な、なんと……!」
レオンハルトが驚愕のあまり目を剥き、肉厚な唇を震わせた。
「硬い壁なら真っ二つに砕け散るほどの衝撃を、石自らが動くことで受け流すというのか……まさに柔よく剛を制す、大地の理だな!」
「次に、一番中心にある粘土の芯。ここは、水や風を通しにくい、きめ細かい粘土を限界まで突き固めるの」
私は断面図の中心を走る、太い芯のような層を爪で指し示した。
「外側の大岩の層は隙間だらけだから、そのままだと冷たい風も音も通り抜けてしまう。けれど、中心にこの硬く締めた粘土の芯を通しておけば、冷気や吹雪の侵入を大きく防げる。さらに壁全体の厚みと重さによって、魔物の耳障りな鳴き声も、男たちの暑苦しい訓練の怒号も、この壁を抜ける頃にはかなり弱まるわ」
「完全に消すのではなく、厚みと素材で削っていくわけですね」
ここまで黙って話を聞いていたマーサが、眼鏡の奥の目をぎらりと光らせて、会話に入ってきた。
「ええ、その理解で正しいわ、マーサ。音を防ぐ時に大事なのは、空気の抜け道をなくすことと、壁を重く厚くすることよ。粘土の芯は、その二つを満たしてくれる」
「そして、その大岩と粘土の間を埋めるのが、この細かな砕石と砂利の層ですね?」
マーサが図面の中央に配された細かな砂利の層を、書類綴りの角で指した。
「その通りよ。粘土は水を含んだり、激しい揺れを受けたりすると、少しずつ外へ流れ出して弱くなってしまう。だから、その外側に砂利や細かな石の層を挟み込んで、粘土の粒が外へ逃げるのを防ぐ。いわば、心臓部である粘土を守るための守り布であり、濾し層ね」
大岩で衝撃を散らし、砂利で粘土を守り、粘土の芯で風と冷気と騒音を防ぐ。
ありふれた素材を組み合わせた、泥臭くも頼もしい多重の防壁。
私の説明を聞き終えた三人は、まるで未知の古代遺物を見るような目で、テーブルの上の羊皮紙を見つめ、完全に硬直していた。
「……お嬢様。一つ、よろしいですか」
マーサが、震える手で書類綴りを大切な宝物のように胸へ抱きしめながら、かすれた声で口を開いた。
「このロックフィル構造とやら……石材をわざわざ綺麗な四角に切り出す必要は?」
「一切ないわ。山から切り出した、いびつで不揃いな岩を、大きさごとに選別して使えばいいの。外側には大きな不整形の岩。内側には細かく砕けた石や砂利。残った細かい土は、粘土層や背後の盛土に使えばいいわ」
「高価な漆喰や、接着用の特殊な魔法薬の類は?」
「基本的にはいらないわ。重要なのは、材料の大きさを正しく仕分けること、しっかり地面に突き固めること、そして雨水や雪解け水が中に溜まらないよう、逃げ道を作ること。あとは、斜面が自分の重さで崩れない角度を保つことだけよ」
「……では、必要な材料はほぼ領地内の山や土から手に入り、職人の高度な石組みや精密な加工も最小限で済み、ただ運んで、積んで、ひたすら固めるという作業の繰り返しで、王国最大級の防壁が完成すると?」
「ええ。圧倒的な量の土と岩石を運ぶという、凄まじい肉体労働は必要になるけれど、材料の費えはかなり抑えられるわ」
私は図面の緩やかな斜面部分を、指先でなぞった。
「おまけに、一度作ってしまえば、万が一魔物の猛攻で部分的に岩が崩れたとしても、その窪んだ場所に新しい岩を転がして足せば補修できる。垂直な石壁みたいに、一本ひびが入ったから全体を解体して積み直す、なんて大掛かりな出費は起きにくいわよ」
その瞬間だった。
マーサは突如として天を仰ぎ、両手で顔を覆うと、指の隙間から歓喜の涙をぼろぼろと流し始めた。
「ああ、あああっ……! なんという合理性、なんという美しさでしょう……! 最初の費えを抑え、維持の費えも削り、しかも素人でも直せるほど補修しやすい! 私の胃を痛め続けていた財政破綻の危険を、土と石の理だけで消し去ってくださった!」
マーサは、涙で濡れた瞳をらんらんと輝かせ、私に向かって猛烈な勢いで跪いた。
「ヴィクトリアお嬢様……貴女の頭の中には、数字と帳簿を司る本物の神が宿っておられるのですか!!」
「いや、私はただ、後から何度も壁が壊れたって騒がれて、そのたびに私の二度寝を邪魔されるのが死ぬほど嫌だっただけなのだけれど……」
私の極めて切実な本音、つまりただ怠惰にサボりたいだけの引きこもり欲求は、やはり彼女の厚い信仰の膜を通った結果、領地を救う完璧な財政策へと都合よく変換されてしまったようだ。
「うおおおおッ!! おいお前ら、ついに俺たちの筋肉の出番が来たぞ!!」
ルークが、ばんっと木製のテーブルを壊さんばかりに叩いて立ち上がった。
「綺麗な石材を細かく切り出すお上品な技術はなくても、穴を掘って土や岩をひたすら運ぶだけの体力なら、今の領民と兵士たちには有り余るほど叩き込まれてやす!! お嬢様が作ってくれた温室の栄養満点の飯を食って、全員の体が四六時中うずうずしてるんですからね!」
「ガッハッハ! その通りだルーク、よく言った!」
レオンハルトも地鳴りのような音を立てて立ち上がり、自身の分厚く隆起した胸板を拳でばんばんと打ち鳴らした。
「ただの過酷な土木工事などと思うな! これは我が辺境領を永遠の安寧へと導く、歴史的な大防壁の建造だ! 黒曜騎士団の訓練は、本日から巨岩の運搬および大地の突き固めに全面変更する!!」
彼は血の滲むような拳を、天井を突き破らんばかりに高く掲げた。
「自らの筋肉を極限まで追い込み、女神のために最強の要塞を築き上げるのだ!!」
「人手の確保と配置もお任せください!」
マーサも負けじと、凄まじい勢いで書類綴りのページをめくった。
「すぐに作業区域の割り振りと、資材運搬の細かな時刻表を整えます! 粘土の採取場所、砕石の選別場、効率的な運搬路から、現場作業員への腹持ちの良い食事の配給計画にいたるまで、私の目の届く範囲ですべて管理してみせましょう!」
現場の指揮を執るルーク。
筋肉と士気の塊であるレオンハルト。
そして、財布の紐を握るマーサ。
私が提示したロックフィル構造という前世の知恵は、彼らが抱えていた現場、武力、財政の課題を一瞬で解きほぐし、三人の熱量を爆発させてしまったのだ。
「……じゃあ、基本的な作り方は教えたわね」
私は書き殴った図面をルークの胸元へ乱暴に押し付け、くるりと背を向けた。
「私はもう、自分の家の前に作った大壁のおかげで、これからは何があっても静かに眠れるから大満足なの。居住区や農地をぐるりと囲むような大工事なんて、何ヶ月かかるか分からない面倒くさいこと、私は絶対に手伝わないから。あなたたちだけで勝手に泥にまみれてやりなさい」
「ははっ!! ありがたき幸せ!! すべてこのルークにお任せを!!」
「お嬢様はどうぞ、その極上の羽毛ベッドの中で、世界で最も安全な眠りを心ゆくまでご堪能ください!!」
「我ら黒曜騎士団の肉体にかけて、お嬢様の絶対的な楽園をこの地に完成させてみせます!!」
三人の熱い、むさ苦しいほどの忠誠の叫びを背中で浴びながら、私はひらひらと片手を振って、そそくさと執務室を後にした。
面倒な現場の指揮も、泥臭い予算管理も、すべて完璧に丸投げ。
私はただ、壊れにくく、後から直しやすい壁の作り方を少しだけ語って聞かせただけだ。
あとは優秀で頑丈な部下たちが、私をこれ以上働かせないために、勝手に王国最強の防壁都市を造り上げてくれる。
「ふふっ……これでようやく、私の静かな引きこもり環境も盤石なものになるわね」
自室に戻り、ほかほかと温まったふかふかのベッドに飛び込みながら、私は至高の幸福感とともにゆっくりと目を閉じた。
あの悪臭が漂う極寒の田舎は、今や簡単には破られない巨大な防音壁と、尽きないほどの食糧を生む温室、そして完璧な床暖房を備えた、世界で最も快適な引きこもり要塞へと変貌しつつある。
さあ、寝るわよ。
誰にも邪魔されない、至高の二度寝の始まりよ……!
私の極上の休養生活は、ここにまた一歩、確実な完成へと近づいたのだった。
――しかし。
この時の私は、まだ微塵も知らなかった。
自分が何気なく教え込んだロックフィル構造が、まさに翌朝から、領地全体を地響きとともに揺るがす前代未聞の大工事へと発展することを。
そして、せっかく手に入れた極上の静寂が、別の形の騒音で再び粉々に打ち砕かれることになるなど。
ベッドの真ん中でよだれを垂らし、幸せそうに爆睡する追放令嬢は、まだ知る由もなかったのである。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
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