第43話:悪役令嬢の防壁理論
翌日。
私はお昼過ぎまで、文字通り泥のように眠りこけた。
まぶたを開けても、そこにはいつもの完璧な室温と、なにより――耳が痛くなるほどの静けさがあった。
昨夜、あれほど狂ったように窓を叩いていた地吹雪の風切り音も、朝早くから響くはずの兵士たちの汗臭い怒号も、魔物の耳障りな遠吠えも、すべて遠い彼方の幻のように消え失せている。
安眠への凄まじい執念だけで怒りに任せて錬成した、あの巨大な土と岩の大壁。
それが、外から押し寄せる騒音を圧倒的な重さと厚みで受け止め、見事に遮ってくれているのだ。
「ん、あぁ……よく寝たわ。やっぱり安眠を守る最強の防音は、圧倒的な質量による物理的な遮断に限るわね」
ふかふかのシーツの上で手足を思いきり伸ばし、大きなあくびを一つ。
私の安眠を脅かすものは、もうこの世のどこにも存在しない。
そんな無敵の充足感に包まれながら着替えを済ませ、もはや昼食と言うべき遅すぎる朝食をとるために、一階の執務室へ向かった。
がちゃり、と重い扉を開ける。
そこには、巨大な図面をテーブルに広げ、頭を突き合わせている三人の姿があった。
「お嬢様! お目覚めですか!」
泥だらけの作業着に身を包んだルークが、弾かれたように目を輝かせて振り返った。
その隣では、相変わらずこの極寒の地で上半身を晒したままのレオンハルトが腕を組んで力強く頷き、反対側では文官のマーサが、血走った目で猛烈な勢いで計算板を弾いている。
……なんでこの男はいつも薄着なのよ。
まあ、筋肉の保温効果だと思えばいいかもしれない。
「おはよう、三人とも。ずいぶん白熱しているみたいだけれど、何をしているの?」
私が尋ねると、レオンハルトがテーブルの上の羊皮紙をばんっ、と豪快に叩いて身を乗り出してきた。
「ヴィクトリア! お前が心地よく眠っている間に、我らで居住区と農地を囲む最強の防衛線の建設計画を練っていたのだ!」
「防衛線?」
「そうだ! お前が昨夜見せてくれたあの巨大な大壁に啓示を受けてな。我らなりの最高の防壁の設計図を完成させたぞ!」
「最高の防壁ね……。どれ、見せてみなさい」
彼が差し出してきた羊皮紙を覗き込む。
そこには黒炭で力強く引かれた、極めて単純な直線の構造物が描かれていた。
「見よ! 高さ二十メートル、厚さ五メートル! 巨大な黒曜石のブロックを隙間なく積み上げた、完全なる石壁だ!」
レオンハルトが、いかにも誇らしげに胸を張る。
「これほど高く、分厚く、硬い絶壁ならば、いかなる巨大な魔物であろうと、登ることも砕くこともできまい! これぞ王都の城壁をも凌ぐ、絶対不抜の要塞よ!」
「ガッハッハ!」
豪快に笑うレオンハルトに、ルークも首がちぎれんばかりに力強く頷いた。
「旦那の仰る通りですぜ! 石材の切り出しと運搬なら、今の俺たち土木工兵隊の腕なら十分に可能です! 王都の城壁と同じ、いやそれ以上の垂直な壁を、ぐるりと張り巡らせてやりやすよ!」
さらにマーサが眼鏡のブリッジをくいっと押し上げる。
「ええ。石材は領地内の岩山から切り出せますので、材料費は抑えられます。最初に必要なのは人手と食糧のみ。この強固な石壁が完成すれば防衛にかかる費えも大きく減り、数年で元を取れる見込みです」
筋肉、現場、帳簿。
三人がそれぞれの視点から「完璧だ」と太鼓判を押した、王道中の王道とも言える垂直で分厚い石壁の案。
たしかに、ぱっと見ただけなら強そうに見える。
しかし。
その図面を一瞥した私は、呆れたように深く長いため息をつき、無慈悲な一言を放った。
「……却下よ。こんな設計で壁を作ったら、最初の冬を越す前にあちこちがひび割れて、その修繕費で領地が干上がるわね」
「「「……えっ?」」」
意気揚々としていた三人の動きが、文字通りぴたりと止まった。
「く、砕ける!? なぜだ、ヴィクトリア!」
レオンハルトが目を丸くして、信じられないという顔をした。
「これほど分厚い硬い石壁だぞ!? 魔物の爪や牙など、絶対に貫けるはずがない!」
「レオンハルト。あなたは魔物の恐ろしさを、爪や牙の鋭さだけで測っているわ。でもね、城壁にとって本当に恐ろしい敵は、鋭さではないの」
私はテーブルの横に立ち、こほんと軽く咳払いをした。
「重さと、速さよ」
私の休養生活を守る防壁が、こんな欠陥構造では安心して二度寝もできない。
彼らの前時代的な常識を、物の理で根本から叩き直す必要がある。
私は空間に魔力を漂わせ、テーブルの上に小さな石の壁の模型と、小さな魔物を模した土の塊を浮かび上がらせた。
「それはね。硬くて垂直な壁ほど、横からの衝撃をまともに受けやすいからよ」
「硬いのに、弱い……?」
ルークが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。昨夜押し寄せてきたスノー・エイプやブリザード・ウルフ。彼らの体重はどれくらいあるかしら?」
「そうだな……でかい奴なら、馬車二台分ほどはあるだろうな」
「じゃあ、その馬車二台分の肉の塊が、怒り狂って全速力で走ってきたら? その速さは馬にも匹敵するわよね」
私は空中に浮かべた土の塊を、猛スピードで垂直な石壁の模型へと激突させた。
ぱぁんっ!!
激しい破裂音とともに、石壁の模型の根元に一気にひびが入り、あっさりと折れてテーブルの上に砕け散った。
「わっ!?」
「いい? 重いものが速くぶつかる時、その勢いは恐ろしいほど大きくなる。しかも速さが増せば、その衝撃は跳ね上がる。単純に二倍、三倍では済まないわ」
三人は、砕け散った模型を呆然と見つめた。
「この勢いが、壁に真正面からぶつかった場合、その力はどこへ逃げると思う?」
三人は言葉を失い、室内が静まり返る。
「逃げ場が少ないのよ。もちろん現実には、音や熱、魔物側の肉体の変形、地面への揺れとして少しは逃げる。でも、垂直な石壁は衝撃を受け流しにくい。結果として、力が一部分に集中するの」
私は砕けた石壁の破片を拾い上げ、三人の目の前に突きつけた。
「いかに分厚い石壁だろうと、衝撃を散らせなければ、内部に致命的なひびが入る。とくに石という素材は、上から押し潰す力には強いけれど、横から曲げようとする力や、引っ張る力には弱いのよ」
私は図面に描かれた、まっすぐな壁を爪でこんこんと叩いた。
「王都の城壁が垂直なのは、あくまで人間の歩兵の侵入を防ぐための性格が強いわ。よじ登りや梯子を阻むには向いている。でも、馬車ほどの重さを持つ魔物が、勢いをつけて何度もぶつかってくることを前提にした構造ではないの」
私の説明に、レオンハルトの顔からさっと血の気が引いていった。
「た、確かに……。過去の防衛戦でも、巨大な魔物の突進を真っ向から盾で受け止めた兵士は、盾ごと腕の骨を砕かれていた……」
レオンハルトは、自分の太い両腕を見下ろした。
「真正面から受け止めるのではなく、いなすか、避けるかしなければ命はない……。壁も、それと同じだと言うのか……!」
「お、お待ちください、お嬢様!」
マーサが青ざめた顔で書類綴りを抱きしめた。
先ほどの自信は、もはや微塵も残っていない。
「もし壁にひびが入り、修繕工事が何度も必要になるとなれば……石材の切り出し直し、運搬、目地材の練り直し、作業員の食糧……莫大な追加費用が発生します!」
マーサの手が、震えながら計算板を弾く。
「魔物が突っ込むたびに壁が壊れていては、修繕に修繕を重ねる地獄……! 最初の費えが安くても、維持費で完全に大赤字です!!」
「そういうこと。私の安眠を長く守り、かつ費えを最小限に抑えるためには、魔物の突進を何百回受けても簡単にはひびすら入らない壁でなければならないのよ」
私がびしっと言い放つと、ルークが頭を抱えて唸り声を上げた。
「そ、そんな無茶な! 硬い石が駄目なら、何で壁を作ればいいんですかい!? 鉄の板でも張り巡らせますか!?」
「鉄なんて、それこそ金の無駄よ。それに、鉄だって衝撃を受け続ければ曲がるし、歪むし、留めた部分から壊れるわ」
「じゃあ、どうやって魔物のあの凄まじい衝撃を受け止めるって言うんですか!」
ルークの悲痛な叫びに、私はにやりと悪女のような笑みを浮かべた。
彼らはまだ、壁とは硬く弾き返すものだという思い込みに囚われている。
「衝撃を真正面から止めるんじゃないわ、ルーク」
私は新たな羊皮紙を引き寄せた。
「斜面に沿って受け流し、岩同士の噛み合いと、土のずれと、全体のたわみで吸収するのよ」
私は羊皮紙に、一本の斜めの線を力強く引き入れた。
それは垂直ではなく、なだらかな傾きを持った巨大な山の断面図のような形だった。
「前世の土木の知恵では、水の圧や土砂、地震の揺れのような巨大な力を、ただ硬さだけで押さえ込もうとはしなかった。力を受け流し、散らし、内側で吸収する構造を使っていたの」
レオンハルトが息を呑む。
ルークが目を見開く。
マーサが、震える指で計算板を止める。
私はその反応を見届けてから、羊皮紙の断面図にいくつもの層を書き加えた。
外側には大きな岩石。
内側には細かい砕石。
さらに中心には、水を通しにくい粘土質の芯。
「垂直な石壁の時代は今日で終わりよ。私たちが辺境に築くのは、硬さだけに頼らず、力を散らして受け止める最強の構造体」
私は羊皮紙をテーブルの中央に叩きつけた。
「岩石と粘土の複合防壁――ロックフィル防壁よ!!」
私のその宣言は、彼らの常識を再び根底から覆した。
そして、私の絶対的な安眠領域を完成させるための最強の要塞都市建設への号砲を、高らかに鳴らすこととなった。
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