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第42話:追放令嬢は騒音を許さない

「お、お嬢様! お待ちください! 怒りに任せて外へ出るなど、みすみす命を捨てるようなものです! あまりにも無謀です!」


「そうですぜ、お嬢様! いくらお嬢様の魔法が桁外れだとしても、そんな格好で魔物の群れに突っ込むなんて自殺行為です!」


背後から服の袖を掴もうとするマーサとルークの手を、私は振り返りもせずに払いのけた。


床板を激しく踏み鳴らし、領主の館の薄暗い廊下を突き進む。


一階の大広間へ向かう私の胸中を占めていたのは、冷え切っているのに破裂しそうなほど膨れ上がった、純粋な怒りだった。


前世の忌々しい記憶が、まぶたの裏に鮮明に蘇る。


三日連続の徹夜。


すり減った精神と泥のように重い体を引きずり、ようやく辿り着いた午前二時の安アパート。


さあ、泥のように眠ろうと布団に潜り込んだ、まさにその瞬間に始まった。


隣の部屋の若者たちが鳴らす、地響きのような重低音と馬鹿騒ぎ。


壁をいくら叩いても止まず、誰かに助けを求める気力すら湧かなかったあの夜。


泣きたくなるほどの理不尽な絶望と、はらわたが煮えくり返るような怒り。


私はもう、二度とあんな惨めな思いはしない。


私の安眠を脅かす者は、魔物だろうが、神様だろうが、絶対に許さない。


大広間の重厚な両開き扉の前に立つと、私は容赦なく杖を突き出した。


膨れ上がった魔力が物理的な衝撃となって鍵を砕き、扉が勢いよく跳ね飛ばされる。


――ゴォォォォォォォォッ!!!


刹那、氷点をはるかに下回る暴力的な冷気と、鼓膜が裂けんばかりの戦場の絶叫が、濃密な質量を伴って大広間へ雪崩れ込んできた。


「ひるむな! 大盾で線を維持しろ! お嬢様の温室に爪一本触れさせるんじゃないぞ!!」


「右翼からさらにウルフの群れ! 槍を寝かせろ、絶対に通すな!!」


開け放たれた視界の先は、息を呑むような血と雪の地獄絵図だった。


地吹雪が吹き荒れる闇の中、松明の赤黒い炎だけが不気味に揺れている。


その炎に浮かび上がっていたのは、防衛線を押し潰さんばかりに群がる、底なしの魔物の大群だった。


牛ほどもある巨大な銀狼、ブリザード・ウルフの群れが、凍てつく息を吐き散らしながら兵士たちの防具を凍らせていく。


その後方からは、丸太のような四本の腕を持つスノー・エイプが、近くの大木を根こそぎ引っこ抜き、凄まじい風切り音とともに振り回していた。


その混戦の中心で、なぜか上半身を晒したまま大剣をぶん回している男がいた。


レオンハルトだ。


鬼神のごとき膂力で、迫る魔物を次々と一刀両断にしている。


「ガッハッハ! もっと寄ってこい、飢えた獣ども! 貴様らの肉もろとも、温室の良い肥やしにしてくれるわ!!」


男たちの咆哮が響き、魔物の鮮血が真っ白な雪原をどす黒く汚していく。


黒曜騎士団の強さは本物だった。


私の整えた温かな寝床と、腹いっぱい食べられる食事が、彼らの肉体を過去最高の状態まで引き上げていたからだ。


だが、いかんせん敵の数が尋常ではない。


マーサが指摘した通りだった。


暗闇の雪原の中で煌々と熱を放ち、何台もの荷車に積めるほどの新鮮な作物の匂いを漂わせる温室は、飢えた冬の魔物たちにとって、理性を狂わせる誘惑そのものだったのだ。


「ダメです、お嬢様! 前線の武器が限界を迎えています! 兵士たちの体力が尽きるより先に、剣の刃がことごとくこぼれて防衛線が崩れます!」


背後にへばりついていたマーサが、手にした書類綴りを強く抱きしめながら、悲痛な声で戦況の限界を叫んだ。


「グルルルゥゥゥッ!!」


その時、館の入口に佇む私たちの存在に、一匹のブリザード・ウルフが気づいた。


血走った目をぎらつかせた巨大な銀狼は、防衛線の隙間をすり抜け、寝間着の上に外套を羽織っただけの私を目がけて一直線に跳躍した。


「お嬢様っ! 下がってくだせえ!!」


ルークがハッと剣に手をかけるが、その速度では間に合わない。


魔物の巨大な顎が、私の頭部を噛み砕こうと目の前まで迫る。


「ヴィクトリアァァァッ!!」


遠くからレオンハルトの悲痛な絶叫が届く。


だが、私は指先一つ動かさなかった。


恐怖など、毛頭ない。


脳髄を支配しているのは、ただ一点。


底知れない不機嫌だけだ。


「――静かにしなさい、と言っているのよ」


私は杖の先で、足元の石畳をこん、と静かに叩いた。


刹那。


ズゴォォォォォォンッ!!!


目の前の雪原が爆発したかのように弾け飛び、二メートルを超える巨大な土柱が、砲弾のごとき速度で斜め上へ突き上がった。


宙を舞っていたブリザード・ウルフは、避ける暇もなくその岩塊に腹部を強打され、「キャンッ!?」という情けない悲鳴を残して、はるか彼方の雪煙の向こうへ消し飛ばされた。


「「「…………え?」」」


あまりに容赦のない一撃に、ルークも、マーサも、命がけで戦っていた兵士たちも、そして魔物たちまでもが、一瞬にして動きを止めてこちらを振り返った。


「ヴィ、ヴィクトリア!?」


レオンハルトが血に濡れた大剣をだらりと下げ、目を丸くしている。


「無事だったか! だが、なぜこんな場所へ出てきた! ここは危険だ、早く温かい部屋に戻って眠っていなさい!」


その余計な気遣いが、私の限界寸前だった導火線に完全に火をつけた。


「眠・っ・て・い・な・さ・い!? これだけの騒音の中で寝られるわけがないでしょうが、この筋肉ダルマ!!」


私は杖を乱暴に振り回し、猛吹雪の轟音さえも圧するほどの怒声をぶちまけた。


「刃物と爪が擦れ合う金属音! むさ苦しい男たちの暑苦しい叫び声! そこら中で響く獣のぎゃあぎゃあうるさい鳴き声! あんたたち、人が気持ちよく微睡んでいる家の庭先で、真夜中に大立ち回りを演じることがどれほど非常識か分かっているの!? 近所迷惑もいい加減にしなさいよ!!」


「き、近所……? いや、しかし相手は魔物で……」


困惑するレオンハルトを無視し、私は血走った目で周囲の魔物の群れを睨みつけた。


温室がある限り、この領地は強烈な匂いを放ち続ける。


今日この群れを力づくで退けたとしても、数日後にはまた次の群れがやってくるのは目に見えている。


そのたびに夜中に警鐘が鳴り響き、男たちが怒鳴り声を上げ、私の安眠が引き裂かれるのだ。


つまり、このままでは不快な騒音と戦闘の手間が、永遠に発生し続ける。


「マーサ!」


「は、はいっ!」


背後の文官が、条件反射で背筋を伸ばす。


「その場しのぎを繰り返すのは、最も無駄の多い対処よね?」


「仰る通りです! 兵の疲弊、武器の消耗、薬の備蓄……。その都度迎撃を繰り返す戦い方は、中長期的に見て赤字を垂れ流す愚策です!」


「なら、やるべきことは一つよ。原因そのものを物理的に断ち切る壁を作るわ」


私は杖を両手で強く握り締め、荒れ狂う冬の夜空へ高く掲げた。


「レオンハルト様! ルーク! 全員まとめて今すぐ館の敷地内まで退がりなさい! 魔物とまともに斬り合う必要なんてないわ!」


「な、何だと!? しかし、それでは奴らが居住区へなだれ込んで……」


「いいから退がりなさい!! 巻き込まれてぺしゃんこになっても私は知らないわよ!!」


私のただならぬ気迫に圧倒され、レオンハルトと兵士たちは慌てて獲物を引き、館の周囲へと一斉に後退した。


それを見た魔物どもは、敵が逃げ出したと勘違いしたのか、よだれを撒き散らしながら一斉にこちらへ向かって雪崩を打って突進してきた。


「来させないわよ。私の絶対的な安眠領域に、これ以上一歩も踏み込ませない!」


私は強く目を閉じ、体内の膨大な魔力を足元の大地へ一気に注ぎ込んだ。


「いい? 音を遮るための基本は、重さと厚みよ! 壁が重く、分厚ければ分厚いほど、音は通りにくくなる。なら必要なのは、薄い柵なんかじゃない。重くて、分厚くて、圧倒的な土と岩の塊――防音壁よ!!」


ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォッッ!!!!


世界そのものがひっくり返るような大地鳴りが轟き、領主の館と温室群の前方を半円状に囲むようにして、深い雪に覆われていた大地が大きく爆ぜた。


土と岩が空へ向かって猛烈な勢いで隆起する。


「な、なんだこれは!? 地面そのものがせり上がってくるぞ!!」


レオンハルトが絶叫する。


引き裂かれた大地の底から姿を現したのは、高さ十メートル、厚さ五メートルにも達する、圧倒的な威容を誇る土と岩の巨大な壁だった。


猛スピードで突進してきていた魔物たちは、突如眼前に現れた岩壁に次々と激突し、あるいは恐怖に足を止め、分厚い壁の向こう側へと完全に隔てられていく。


――ピタッ。


大壁が完成した瞬間、それまで館を包んでいた猛吹雪の風切り音も、魔物たちの耳障りな咆哮も、男たちのむさ苦しい怒号も、嘘のように遠ざかった。


圧倒的な厚みと重みを持つ岩壁が、騒音を受け止め、押し殺したのだ。


館の周囲には、まるで春の穏やかな夜のような、深い静寂が訪れていた。


「……す、すげえ……」


ルークが、天を突くような大防壁を見上げながら、呆然と声を漏らした。


「魔物の声が、ほとんど聞こえねえ……。お嬢様、たった一瞬で、館と温室を守る城壁を作っちまった……」


「これでようやく、静かに眠れるわ……」


私は外套をきゅっと掻き合わせ、杖を下ろして深い溜息をついた。


「よし。私の仕事はここまで。あとは部屋に戻って、明日の昼まで泥のように眠らせてもらうわ」


私が踵を返し、温かい大広間へ戻ろうとした、まさにその時だった。


「……えっ? ちょっと待ってくだせえ、お嬢様!」


ルークが慌てて私を呼び止める。


彼は、私が作り上げた半円状の防壁の端を見つめ、顔を引き攣らせていた。


「これ、館と温室の周りは完璧に囲まれてますけど……壁が途切れたその先、領民たちの居住区や職人街の周りには、壁が一切ねえままじゃないですか!」


「……当たり前でしょう?」


私は大きくあくびを漏らし、心底面倒くさそうに首だけを振り返った。


「私の魔力も体力も有限なのよ。この広大な辺境領の境を、全部こんな分厚い壁で囲むなんて、何日徹夜すればいいの? 私はね、自分が今すぐ静かに眠るためだけに、自分の家の前を塞いだのよ」


「じ、自分の家の前だけェ!?」


「ええ。とりあえず今夜は、この壁の内側にいれば魔物は簡単には回り込んでこられないわ。……でも、領地全体を守る本当の城壁をどうにかしたいなら、あなたたち自身の手で作りなさい」


私は呆然と立ち尽くすルークの肩を、ぽんと叩いた。


「もちろん、作り方は教えてあげる。垂直な石壁なんかじゃ、魔物の突進でいつか砕ける。必要なのは、衝撃を受け流し、崩れにくく、修理もしやすい防壁構造よ。……でも、それを口にするのは、私がたっぷり眠った明日の午後以降。さあ、解散! おやすみなさい!」


私はそれだけ言い捨てると、ほかほかと温まった自室へ一直線に足を向けた。


残されたルーク、マーサ、レオンハルトは、静寂が支配する壁の内側で、互いに顔を見合わせていた。


「……聞きましたか、ルーク殿。お嬢様は、あえてご自身で領地すべてを囲うことをなさらなかった」


マーサが、震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら、ぽつりと呟く。


「あ、ああ……。俺も薄々気づいてたぜ。お嬢様は『サボりたいから自分でやれ』って言ってたが、ありゃあ建前だ。本当は、俺たち領民が自分の手で領地を守る力をつけなきゃ、いつか必ず限界が来るって……そう背中で教えてくれたんだ」


ルークの瞳に、静かな、しかし熱い炎が宿る。


「ガッハッハ! その通りだ! ヴィクトリアは俺たちを試しているのだ! 彼女の授ける究極の防壁構造とやらを、我らの筋肉と気合で領地全土に築き上げてみせよという、女神の試練だな!」


レオンハルトも大剣を夜空に突き上げ、感極まった声を上げた。


「……はい。お嬢様が心地よくお眠りになっている間に、我々で防壁建設の予算案と人員配置を整えておきましょう。お嬢様が目覚めた時、すぐにでも大工事に取り掛かれるように」


私がただ「面倒くさい」「自分の家だけ静かならいい」という、極めて自己中心的な理由で放り投げた城壁工事。


しかしそれは、現場頭ルークを真の土木技術者として、そして領民たちを自分たちの土地を守る民として覚醒させる、決定的な一手となってしまったのである。


こうして、辺境領全体を囲む最強の防壁建設に向けた、熱い夜明けが迫っていた。

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