第41話:追放令嬢の安眠妨害
分厚い石壁と二重窓が、吹き荒れる猛吹雪を、遠い子守唄のような音へと変えていた。
床下から這い上がるハイポカウストの柔らかな熱。
胃の腑には、夕食の肉汁と甘い赤い実の心地よい重み。
沈み込むような羽毛の感触に体を預け、私は泥のような微睡みへと落ちていく。
誰の声もしない。
締切もない。
ただ呼吸だけが、シーツを静かに上下させる。
前世、安い栄養飲料の空き瓶に囲まれて過労死した私が、喉から手が出るほど欲しかったもの。
完全なる、圧倒的な安眠。
毛布を鼻先まで引き上げ、私はゆっくりと目を閉じた。
明日の昼まで、絶対に起きない。
意識が白く溶けかけた、その時。
カンッ! カンッ! カンッ!
耳障りな金属音が、分厚い壁を突き破って鼓膜を殴りつけた。
「……っ」
眉間に皺を寄せ、無理やりまぶたをこじ開ける。
金床?
いや、違う。
館の屋上で、狂ったように鳴らされている警鐘だ。
「西の森から多数! 見えねえ、吹雪で……っ、百はいやがるぞ!!」
階下から怒号が湧き上がり、無数のブーツが床板を踏み鳴らす振動が這い上がってくる。
それに重なるようにして、腹の底を揺らす重低音が響いた。
窓ガラスが、びりびりと悲鳴を上げる。
吹雪を切り裂く、幾重にも重なった飢えた獣の咆哮。
「……は?」
羽毛布団から這い出し、ぼんやりと虚空を見つめる。
真冬だ。
魔物など、森の奥で凍えている季節のはずだ。
バンッ!
木っ端微塵になりそうな勢いで扉が開き、鋼の匂いと冷気がどっと流れ込んできた。
全身鎧姿のルークと、外套を頭から被ったマーサだ。
マーサの手には、なぜか計算板が握りしめられている。
「お嬢様! ご無事ですか!」
「……何事。なんでこんな時間に」
あくびを噛み殺す私の前で、ルークは血相を変えて窓を指した。
「魔物の群れですぜ! ブリザード・ウルフにスノー・エイプ……冬眠してるはずの連中が、よだれ垂らして村へ雪崩れ込んできやがったんです!」
「理由は明白です!」
マーサが裏返った声で叫ぶ。
「あの温室です! この極寒の最中に漏れ出る異常な温もり、新鮮な野菜の匂い! おまけに兵士たちが捨てた食べ残しの匂いまで混ざって……冬枯れの森に、極上の饗宴の匂いを撒き散らしているようなものです!!」
「……え?」
一気に血の気が引いた。
私が美味しくサラダを食べるために作った温室が、魔物を呼び寄せる餌場になっていた。
「ヴィクトリア! お前は絶対に出てくるな!」
窓の下から、吹雪に負けない怒号が突き上げてきた。
ガラス越しに見下ろすと、白一色の庭に真っ黒な人影が散らばっている。
大剣を振りかざすレオンハルトと、黒曜騎士団の面々だ。
雪の壁をぶち破り、巨大な雪猿が飛びかかっていく。
レオンハルトの大剣が、鈍い光の弧を描いた。
重い肉の断たれる音。
雪原に、どす黒い染みが一気に広がる。
「押し込め! 館と温室には一歩も近づけるな!」
「うおおおッ! 腹いっぱい食った力を見せてやる!!」
「俺たちの野菜は、俺たちが守る!!」
充実した食事のおかげで無駄に逞しくなった騎士や農兵たちが、吹雪の中で血走った目を輝かせ、魔物へ突っ込んでいく。
肉が弾ける音。
剣戟の甲高い響き。
むさ苦しい雄叫びと獣の悲鳴が、休むことなく窓ガラスを揺らす。
私と領地の財産を守るための、壮絶な防衛戦。
普通なら、胸を打たれるか、恐怖に震える場面だろう。
だが。
窓枠にかかった私の指先は、白くなるほど食い込んでいた。
こめかみの奥で、ぷつん、と何かが切れる音がした。
「……さい」
「え? お嬢様?」
「うるさいぃぃぃぃぃぃっ!!」
喉が千切れるほどの絶叫。
あまりの声量に、そばにあったグラスが共鳴して、びりっと微かな音を立てた。
「ヒッ!?」
ルークが素っ頓狂な悲鳴を上げ、マーサと一緒に数歩飛び退いた。
「猿だか狼だか知らないけど! レオンハルト様も! 騎士団も! 真夜中の庭でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるんじゃないわよ!」
ガウンを床に放り投げ、クローゼットから分厚い外套を引きずり出して肩にひっかける。
「お、お嬢様!? 怒るのそこですか!?」
「当たり前でしょう! 私は今日、十時間ぶっ通しで寝る予定だったの! 私の睡眠時間を削る奴は、魔物だろうが身内だろうが万死に値する!」
視界の端が明滅する。
前世、三徹明けの朝方に、隣の部屋で若者たちが大騒ぎを始めた時の、あの黒い衝動。
胃液が逆流するような苛立ちが、腹の底で渦巻いている。
私は杖をひったくり、床を踏み抜くような足取りで扉へ向かった。
「お待ちください、外は危険です!」
すがりつこうとするマーサを、肩越しに睨みつける。
「決まっているでしょう。私の安眠を妨げる害獣ごと、あの騒音を物理的に遮断する壁を作りに行くのよ」
寝不足の執念を舐めるな。
この騒がしい世界から私を完全に隔離するための巨大土木工事が、今、始まろうとしていた。
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