第38話:追放令嬢の知らない農業革命
「――ふあぁ……。よく寝たわ」
完璧な室温に保たれた私室のベッドの上で、私は大きく伸びをした。
お腹はいっぱいで、部屋はぽかぽか。
ルークが持ってきてくれた瑞々しいサラダと白いパンの余韻が、今も口の中に幸せに残っている。
外は猛吹雪だというのに、私は柔らかな毛布の中で、ぬくぬくと惰眠をむさぼれる。
なんという勝利だろう。
「ルークもマーサも、私の丸投げに応えてよくやってくれているわ。私はもう、このまま春まで冬眠する勢いで……」
心地よい微睡みに身を任せ、私が再び深い眠りへ落ちようとしていた、まさにその時。
窓の外から、かすかに地鳴りのような音と、大勢の男たちの熱い怒号が聞こえてきた。
「せーの、そぉれ!!」
「女神様のために、もっと木材を運べぇぇッ!!」
「土を掘れ! 一寸の無駄も残すなッ!!」
「……んん?」
私は薄目を開けた。
ハイポカウストのおかげで、この部屋は外の寒さだけでなく音もかなり遮っているはずだ。
それなのに、壁と窓を突き抜けてくるほどの騒ぎである。
私は渋々ベッドから這い出し、寝間着姿のまま窓辺へ歩いていった。
そして、ガラス越しに裏庭を見下ろす。
その瞬間、私の思考は完全に止まった。
「……え? 何、あれ」
そこにあったのは、私が魔法で作ったはずの、あの美しい温室だけではなかった。
いや、私の温室は確かにある。
あるのだが……その背後に、まるで巨大な芋虫が脱皮を繰り返すかのように、木材と半透明の獣皮、さらに薄く伸ばしたガラスの端材をつなぎ合わせた、歪で巨大な増築温室が広がっていた。
元の温室の何倍もの広さで、裏庭の敷地を埋め尽くすように伸びている。
そこでは、数百人の領民や兵士たちが、額から湯気を立ち上らせながら、狂気じみた熱量で地面を耕し、溝を掘り、管を埋め込んでいた。
「ちょっと、ルーク!! レオンハルト様!! マーサ! 来なさい!!」
私が慌てて呼び出すと、どたばたと騒がしい足音と共に、お馴染みの三人組が部屋に飛び込んできた。
ルークは顔を泥だらけにしている。
レオンハルトはなぜか上半身裸で、肩にツルハシを担いでいる。
マーサは銀縁眼鏡の奥の目をぎらぎらと光らせ、分厚い書類綴りを胸に抱えていた。
三人とも、妙に興奮している。
「お嬢様! お目覚めですか! 見てくだせえ、外のあの壮大な景色を!」
ルークが目を輝かせて、窓の外を指差した。
「説明しなさい、ルーク。あの巨大なナメクジみたいな増築建造物は一体何なのよ!?」
私が頭を抱えて問い詰めると、レオンハルトが「ガッハッハ!」と豪快に笑いながら前へ出た。
「ヴィクトリアよ、お前が眠っている間に、トマスが最高の提案をしてくれてな! お前が授けてくれた点滴灌漑と地中熱温室の知恵を、お前の魔法に頼らず、我らの手で真似しようという大事業だ!」
「……は? 私の魔法を使わずに?」
私が困惑していると、泥だらけの麻服を着たトマス爺さん本人が、部屋に招き入れられた。
彼の目は、まるで天啓を受けた預言者のようにぎらぎらと輝いている。
「お嬢様……! 豊穣の女神様!」
トマスは部屋に入るなり床に膝をつき、熱を帯びた声で語り始めた。
「お嬢様が作ってくださった温室の野菜があまりにも瑞々しく、美味だったため、村の農夫たちも兵士たちも、皆、涙を流して感動いたしました。そして、こう悟ったのです……女神様がこれほどの知恵を授けてくださったのに、我らがただ座って甘えているだけでよいはずがない、と!」
「いや、甘えていていいのよ。私は甘えて寝ているんだから」
「いいえ!」
トマスは力強く首を振った。
「お嬢様はあえて『サボるため』と仰ることで、我らの自立を促してくださった! その深い慈悲に報いるため、私とルーク殿、そしてマーサ様で知恵を絞り、魔法に頼らず人の手で広げられる農の仕組みを始めましただ!」
トマスはルークと顔を見合わせ、誇らしげに胸を張った。
「まず、ガラスは高価で数が足りねえ。だから、ルーク殿の提案で、光を通すほど薄く鞣した獣皮と、ガラスの端材を継ぎ合わせて、天窓と壁を作りましただ! 透明さはお嬢様のガラスには遠く及びませんが、風と雪を防ぎ、日差しを中へ通すには十分です!」
「お嬢様の考え通り、屋根は雪が滑り落ちるように急な傾きにしてありやす。骨組みの木材には、俺が手作業で溝を掘りやした!」
ルークが水ぶくれだらけの手を差し出し、自慢げに笑った。
「お嬢様を煩わせるわけにはいきませんからね! 職人魂の見せ所ですぜ!」
「さらに、地中を温める煙道の増設ですが……」
ここでマーサが、書類綴りをばしっと叩いて会話に割り込んできた。
彼女の目の下の隈は、興奮のせいか、いつもより濃く見える。
「館と兵舎の余り熱だけでは、これほど広い増築温室を温めるには足りません。そこで私は、近場の炭焼き小屋と鍛冶場の炉から出る余り熱を、密閉した石の煙道で温室の地下へ引く計画を承認しました」
「鍛冶場の余り熱まで!?」
「はい。もちろん、煙そのものは温室へ入れません。煙は石の煙道の中だけを通し、最後は高い排気筒から外へ逃がします。温室の土に触れるのは、管を通して伝わる熱だけです」
マーサは眼鏡をくいっと押し上げた。
「掃除口も設けました。煤が溜まれば熱の通りが悪くなりますし、火の道を塞ぐことは危険ですから」
「……あなた、いつの間にそこまで覚えたの?」
「帳簿に載せる以上、壊れた時にいくらかかるかを知らねばなりませんので」
恐ろしいほど実務的な理由だった。
「これにより、これまで空へ捨てられていた炉の余り熱を、農地の温もりとして使えるようになりました。新たな魔石の購入は不要。すでにある仕事の副産物で、温室を広げられます」
マーサは興奮のあまり、ほんの少し息を荒げている。
現場。
筋肉。
帳簿。
そして農民。
私の部下たちが、それぞれの知恵と執念を妙な方向へ融合させ、私の知らないところで勝手に大規模工事を進めていた。
「そして、お嬢様が最も大切にされている、サボるための点滴灌漑ですが……」
トマスが、にやりと老獪な笑みを浮かべた。
「魔法の黒い管は作れません。ですが、我らには葦の茎がありやす!」
「葦?」
「はい。茎の中をくり抜いて、節を抜き、蜜蝋と樹脂で継ぎ目を塞いで、畝に沿ってつなぎましただ。お嬢様の教え通り、種の近くへ小さな穴を開け、貯水槽の高さだけで水がぽたぽた落ちるようにしてあります」
「まさか、葦の茎で点滴灌漑を再現したの!?」
私は驚愕のあまり、開いた口が塞がらなかった。
前世の歴史でも、竹や葦のような中空の植物は、簡易的な水路や管として使われることがあった。
だが、それをこの世界の住人たちが、私の気まぐれな説明だけを頼りに、自力で組み上げてしまったのだ。
「ただし、穴は詰まりやすいですだ。だから貯水槽の入口には布と砂利を重ねた濾し口をつけ、管の端には掃除口を作りました。時々、強めに水を流して中を洗うよう、農夫たちにも教えてあります」
「トマス……あなた、本当に学んだのね……」
「お嬢様の御言葉を、土に刻み込みましただ!」
少し重い。
「ガッハッハ! 見事だろう、ヴィクトリア!」
レオンハルトが自慢げに胸を張った。
「今や領民たちは『一滴の水を惜しみ、一粒の種を慈しむ』というお前の教えに染まり、寝る間も惜しんで農地を広げているぞ! 騎士団の連中も、ツルハシを持たせたら見事な掘削速度を発揮してな!」
「ちょっと待って」
私はこめかみを押さえた。
「寝る間も惜しんでって、あなたたち、いつからそれをやっているの?」
私が恐る恐る尋ねると、ルークが爽やかな笑顔で答えた。
「お嬢様がサラダを食べてお休みになられた直後からですから、交代しながら丸二日ですぜ!」
「交代していても働きすぎよ!!」
私は思わず叫んだ。
前世の私が最も憎み、最も恐れた不眠不休の地獄。
それを、私の部下たちが、私を崇拝するあまりに、自発的に、しかも笑顔で再現しかけている。
「お嬢様、ご安心ください。全員が一度に倒れるような無茶はさせていません」
マーサが凍りつくような笑顔で言った。
「ルーク殿の班分けを採用し、四交代で回しています。食事と湯治場での休息時間も帳簿上は確保済みです」
「実際に寝かせなさい!」
「……承知しました。休息札を発行し、札を持たない者は現場に入れない仕組みにします」
「そこまでしないと寝ないのね、あなたたち!?」
マーサは真顔で頷いた。
「はい。現在、領民全体がかなり燃えています」
「燃えないで。寝なさい!」
私の切実な本音は、彼らの耳には「さらなる高みを目指せ」という女神の試練として変換されている気がした。
「さあ、ルーク殿、辺境伯様! 女神様がお目覚めになられたのだ、裏庭の第五区画の配管工事を急ぐぞ!」
「おう! 筋肉が唸るぜ!」
「お嬢様、銅貨一枚の無駄もない温室群、必ず完成させてみせます!」
「待ちなさい! まず全員、六時間は寝なさい! これは命令よ!!」
私が叫ぶと、三人はぴたりと動きを止めた。
そして、なぜか感動したように目を潤ませる。
「お嬢様……我らの体まで気遣って……」
「やはり女神……」
「この休息時間も、労働力を長持ちさせるための尊い采配なのですね……」
「もうそれでいいから寝なさい!!」
こうして泥まみれの狂信者たちは、私の制止の声にようやく従い、いったん湯治場と兵舎へ向かっていった。
窓の外を見れば、猛吹雪の中で、不格好だが驚くほど合理的に作られた増築温室群が、怪しく、そして力強く冬の光を浴びて輝いている。
「……私の引きこもり生活、これからどうなっちゃうのよ」
完璧な仕組みを作り上げ、完璧にサボる環境を整えたはずなのに、周囲が妙な方向へ働き蜂化していく。
自分の知らないところで辺境が巨大な食糧生産地へ変わっていく恐怖に震えながら、私はただ、次のサラダが届くのを待つしかなかった。
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