表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/60

第36話:追放令嬢と豊穣の女神

点滴灌漑を導入してから、数週間。


私の私室は、相変わらず常春の快適さを保っていた。


そして私の心は、これまでにない達成感で満たされている。


なぜなら、あの給水の仕組みが完成して以来、ルークも、レオンハルトも、トマス爺さんすらも、私に「水やりを手伝ってくれ」とは一言も言ってこなくなったからだ。


「ふふふ……完璧だわ。これこそが私の追い求めていた、完全なる休養生活……」


私はベッドの上でごろごろと寝返りを打ちながら、贅沢にクッションを抱きしめた。


あとは、あの温室の中で勝手に野菜が育ち、私の元へ瑞々しいサラダとして運ばれてくるのを待つだけ。


これ以上ないほど順調な引きこもり生活である。


しかし、そんな私の怠惰な平和を破るように、部屋の扉が騒がしく叩かれた。


「お嬢様! ヴィクトリアお嬢様! 今すぐ温室へ来てください、大変なことになってやす!!」


扉の向こうから聞こえてきたのは、ルークのひどく興奮した声だった。


「もう、なによルーク……。せっかく今、二度寝の最高潮だったのに。排水管でも詰まったの?」


「違いますよ! 逆です、育ちすぎて大変なんです! トマス爺さんたちが、温室の中でわけの分からないことになってるんです!」


「育ちすぎて、わけの分からないことに……?」


私は渋々ベッドから這い出し、寝間着の上にガウンを羽織って温室へ向かった。


ガラスの温室の扉を開けた瞬間、私の肌を包み込んだのは、数週間前とは明らかに違う、むせるような生命の熱気だった。


地中を通る煙道に温められた黒土からは、濃厚な土と緑の香りが立ち上っている。


そして何より異常だったのは、視界を埋め尽くすその光景だった。


「……えっ? うそ、もうこんなに育ったの?」


私の口から、思わず驚きの声が漏れた。


つい先日植えたばかりの葉物野菜は、瑞々しい葉を幾重にも重ね、今にも摘み取れそうなほど青々と育っている。


香草は柔らかな茎を伸ばし、温室の中に爽やかな香りを漂わせていた。


トマトの苗も、すでに私の腰ほどの高さまで伸び、黄色い小さな花をつけている。いくつかの枝には、まだ青い小さな実までぶら下がっていた。


真冬の辺境では芽吹くことすら難しい作物が、この温室の中では、まるで春を何度も重ねたような勢いで育っていたのだ。


だが、私が驚いたのは作物の成長だけではない。


温室の中央。


トマトの苗の前に、トマスをはじめとする十数人の農夫たちが、全員で黒土の上に綺麗に膝をつき、熱心に手を合わせている姿があった。


彼らの中心には、なぜか私の顔を不格好に模したらしい、粘土細工の小さな人形が飾られている。


「……トマス。あなたたち、一体何をしているの?」


私が怪訝に眉をひそめて声をかけると、トマス爺さんがびくっと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。


その顔を見て、私は思わず一歩後ずさる。


トマスの目は、感動のあまり真っ赤に充血していた。


頬に刻まれた深い皺を伝って、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちている。


「お、お嬢様……! ああ、豊穣の女神様……っ!!」


「はい?」


トマスは私を見るなり、這いつくばるようにして私の足元にすがりついてきた。


「見てくだされ、この奇跡の光景を……! お嬢様が作ってくださった点滴灌漑のおかげで、種たちが、まるで母の愛を一身に受けた子供のように、こんなにも力強く育っておりますだ……!」


「あ、いや、それは温度と水分の具合が合っているからであって、私の愛とかは一ミリも関係ないのだけれど……」


「いいえ! 違いますだ!」


トマスは私の本音を遮り、血を吐くような熱弁を振るい始めた。


「これまでの農は、天から降る雨をただ待つしかありませんでした。大雨が降れば畑は泥沼になり、根が腐り、作物は病にやられる。かと思えば日照りが続き、葉は萎れ、実る前に枯れていく……。人間がどれほど血の汗を流して水を運んでも、天の気まぐれの前には無力でした」


トマスの言葉に、周りの農夫たちも深く、重く頷いた。


彼らにとって、これまでの農とは、飢えの恐怖と隣り合わせの過酷な賭けだったのだ。


「ですが、お嬢様の施してくださったこの黒い管は違います! 水は根元へ、少しずつ、絶えず、優しく落ちる。畑を泥に沈めることもなく、乾きに苦しめることもない。必要な場所に、必要な分だけを与える……これこそ、一切の無駄を嫌う、完璧にして深き慈悲! 神の御業に他なりませんだ!!」


「いや、無駄を嫌ったのは、ただ私が水を運ぶ労働をサボりたかったからで――」


「あああっ! 畏れ多いことです!」


トマスはさらに声を張り上げ、涙ながらに私の足元へ額を擦り付けた。


「お嬢様は『自分がサボるため』などと、あたかも私欲であるかのように仰る! ご自身の偉大な御業を誇ることもせず、我ら愚かな農夫たちが気後れせぬよう、あえて怠け者を演じてくださっているのですね……! なんという深い愛、なんという大いなる包容力……っ!」


「お、お嬢様……! 俺も、俺も今ならトマス爺さんの気持ちが分かります!」


温室の入口から、同じく涙目のルークが飛び出してきた。


「俺は今まで、お嬢様が『動きたくない』って言うのを、ただの我が儘だと思ってやした。でも違ったんだ! お嬢様は、人間が泥にまみれて腰を痛める姿を見るのが忍びなかったんだ! だから、水の流れと土の温もりを味方につけて、人間も水も無駄にしない仕組みを作ってくれた……! お嬢様は、俺たちを労働の呪いから救うために、あえて『サボりたい悪女』の仮面を被っていたんですね!!」


「ルーク、あなたまで何を言い出すのよ! 私は本当に、本気でサボりたかっただけよ!」


「ガッハッハ! その不敵な微笑み、まさに無駄を許さぬ豊穣の女神の貫禄だな!」


温室の入り口から、今度はレオンハルトが腕を組みながら歩いてきた。


その隣には、いつものように分厚い書類綴りを抱えたマーサも並んでいる。


「ヴィクトリアよ、お前のその徹底した無駄嫌いは、我が黒曜騎士団の兵士たちをも変えたぞ! 水汲みの重労働から解放された兵士たちは、余った力を守りと訓練に回せるようになった。一滴の水を惜しむことが、領地全体の守りを厚くするとは……このレオンハルト、ただただ感服するばかりだ!」


「……私も、お嬢様の知識には驚かされるばかりです」


マーサが眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、書類綴りに挟んだ羊皮紙を示した。


「当初、この温室の維持を懸念していました。ですが、点滴灌漑によって水運びの手間は大きく減り、兵士を畑へ取られずに済み、葉物の育ちも予想以上に早い。まだ収穫量を見極める必要はありますが……この調子なら、冬の食卓に青物を加えられます」


マーサは、そこでわずかに息を吸った。


「お嬢様。貴女の『サボる』という執念は、領地の暮らしを変える力を持っています」


筋肉。


現場。


帳簿。


そして農夫。


領地を支える者たちが、私の「サボりたい」という純粋な怠惰を、ありとあらゆる角度から「完璧な女神の策」へと壮大に勘違いし、完全にひれ伏していた。


「さあ、皆の者! 豊穣の女神、ヴィクトリアお嬢様に感謝の祈りを捧げるのだ!」


トマスが音頭をとると、農夫たち、そして兵士たちまでもが一斉に黒土の上に跪き、私に向かって深く頭を下げた。


「「「女神ヴィクトリア様に、大いなる豊穣の祈りを――!!」」」


ガラスの温室の中に、地鳴りのような崇拝の声が響き渡る。


中央に飾られた、私の顔を模した粘土人形が、ガラス越しの日光を浴びて、妙に神々しく輝いていた。


「……はぁ。もう、好きにすればいいわ」


私は頭を抱え、深いため息をついた。


いくら本音を言っても、「あえて悪役を演じている」と深読みされるだけなら、もう何も言わない方がましである。


私の「動きたくない」という我が儘が、なぜか信仰めいた崇拝を生み出してしまった。


作物は日ごとに葉を広げ、辺境の食卓には、少しずつ青い彩りが戻り始めていく。


けれど、この温かな菜園がもたらした予想外の実りが、今度は領民たちの行動を、さらに妙な方向へ暴走させていくことを、私はまだ知らなかった。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

ブクマ・評価・リアクションを押して頂けると嬉しいです!(◍•ᴗ•◍)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ