第36話:追放令嬢と豊穣の女神
点滴灌漑を導入してから、数週間。
私の私室は、相変わらず常春の快適さを保っていた。
そして私の心は、これまでにない達成感で満たされている。
なぜなら、あの給水の仕組みが完成して以来、ルークも、レオンハルトも、トマス爺さんすらも、私に「水やりを手伝ってくれ」とは一言も言ってこなくなったからだ。
「ふふふ……完璧だわ。これこそが私の追い求めていた、完全なる休養生活……」
私はベッドの上でごろごろと寝返りを打ちながら、贅沢にクッションを抱きしめた。
あとは、あの温室の中で勝手に野菜が育ち、私の元へ瑞々しいサラダとして運ばれてくるのを待つだけ。
これ以上ないほど順調な引きこもり生活である。
しかし、そんな私の怠惰な平和を破るように、部屋の扉が騒がしく叩かれた。
「お嬢様! ヴィクトリアお嬢様! 今すぐ温室へ来てください、大変なことになってやす!!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、ルークのひどく興奮した声だった。
「もう、なによルーク……。せっかく今、二度寝の最高潮だったのに。排水管でも詰まったの?」
「違いますよ! 逆です、育ちすぎて大変なんです! トマス爺さんたちが、温室の中でわけの分からないことになってるんです!」
「育ちすぎて、わけの分からないことに……?」
私は渋々ベッドから這い出し、寝間着の上にガウンを羽織って温室へ向かった。
ガラスの温室の扉を開けた瞬間、私の肌を包み込んだのは、数週間前とは明らかに違う、むせるような生命の熱気だった。
地中を通る煙道に温められた黒土からは、濃厚な土と緑の香りが立ち上っている。
そして何より異常だったのは、視界を埋め尽くすその光景だった。
「……えっ? うそ、もうこんなに育ったの?」
私の口から、思わず驚きの声が漏れた。
つい先日植えたばかりの葉物野菜は、瑞々しい葉を幾重にも重ね、今にも摘み取れそうなほど青々と育っている。
香草は柔らかな茎を伸ばし、温室の中に爽やかな香りを漂わせていた。
トマトの苗も、すでに私の腰ほどの高さまで伸び、黄色い小さな花をつけている。いくつかの枝には、まだ青い小さな実までぶら下がっていた。
真冬の辺境では芽吹くことすら難しい作物が、この温室の中では、まるで春を何度も重ねたような勢いで育っていたのだ。
だが、私が驚いたのは作物の成長だけではない。
温室の中央。
トマトの苗の前に、トマスをはじめとする十数人の農夫たちが、全員で黒土の上に綺麗に膝をつき、熱心に手を合わせている姿があった。
彼らの中心には、なぜか私の顔を不格好に模したらしい、粘土細工の小さな人形が飾られている。
「……トマス。あなたたち、一体何をしているの?」
私が怪訝に眉をひそめて声をかけると、トマス爺さんがびくっと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
その顔を見て、私は思わず一歩後ずさる。
トマスの目は、感動のあまり真っ赤に充血していた。
頬に刻まれた深い皺を伝って、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちている。
「お、お嬢様……! ああ、豊穣の女神様……っ!!」
「はい?」
トマスは私を見るなり、這いつくばるようにして私の足元にすがりついてきた。
「見てくだされ、この奇跡の光景を……! お嬢様が作ってくださった点滴灌漑のおかげで、種たちが、まるで母の愛を一身に受けた子供のように、こんなにも力強く育っておりますだ……!」
「あ、いや、それは温度と水分の具合が合っているからであって、私の愛とかは一ミリも関係ないのだけれど……」
「いいえ! 違いますだ!」
トマスは私の本音を遮り、血を吐くような熱弁を振るい始めた。
「これまでの農は、天から降る雨をただ待つしかありませんでした。大雨が降れば畑は泥沼になり、根が腐り、作物は病にやられる。かと思えば日照りが続き、葉は萎れ、実る前に枯れていく……。人間がどれほど血の汗を流して水を運んでも、天の気まぐれの前には無力でした」
トマスの言葉に、周りの農夫たちも深く、重く頷いた。
彼らにとって、これまでの農とは、飢えの恐怖と隣り合わせの過酷な賭けだったのだ。
「ですが、お嬢様の施してくださったこの黒い管は違います! 水は根元へ、少しずつ、絶えず、優しく落ちる。畑を泥に沈めることもなく、乾きに苦しめることもない。必要な場所に、必要な分だけを与える……これこそ、一切の無駄を嫌う、完璧にして深き慈悲! 神の御業に他なりませんだ!!」
「いや、無駄を嫌ったのは、ただ私が水を運ぶ労働をサボりたかったからで――」
「あああっ! 畏れ多いことです!」
トマスはさらに声を張り上げ、涙ながらに私の足元へ額を擦り付けた。
「お嬢様は『自分がサボるため』などと、あたかも私欲であるかのように仰る! ご自身の偉大な御業を誇ることもせず、我ら愚かな農夫たちが気後れせぬよう、あえて怠け者を演じてくださっているのですね……! なんという深い愛、なんという大いなる包容力……っ!」
「お、お嬢様……! 俺も、俺も今ならトマス爺さんの気持ちが分かります!」
温室の入口から、同じく涙目のルークが飛び出してきた。
「俺は今まで、お嬢様が『動きたくない』って言うのを、ただの我が儘だと思ってやした。でも違ったんだ! お嬢様は、人間が泥にまみれて腰を痛める姿を見るのが忍びなかったんだ! だから、水の流れと土の温もりを味方につけて、人間も水も無駄にしない仕組みを作ってくれた……! お嬢様は、俺たちを労働の呪いから救うために、あえて『サボりたい悪女』の仮面を被っていたんですね!!」
「ルーク、あなたまで何を言い出すのよ! 私は本当に、本気でサボりたかっただけよ!」
「ガッハッハ! その不敵な微笑み、まさに無駄を許さぬ豊穣の女神の貫禄だな!」
温室の入り口から、今度はレオンハルトが腕を組みながら歩いてきた。
その隣には、いつものように分厚い書類綴りを抱えたマーサも並んでいる。
「ヴィクトリアよ、お前のその徹底した無駄嫌いは、我が黒曜騎士団の兵士たちをも変えたぞ! 水汲みの重労働から解放された兵士たちは、余った力を守りと訓練に回せるようになった。一滴の水を惜しむことが、領地全体の守りを厚くするとは……このレオンハルト、ただただ感服するばかりだ!」
「……私も、お嬢様の知識には驚かされるばかりです」
マーサが眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、書類綴りに挟んだ羊皮紙を示した。
「当初、この温室の維持を懸念していました。ですが、点滴灌漑によって水運びの手間は大きく減り、兵士を畑へ取られずに済み、葉物の育ちも予想以上に早い。まだ収穫量を見極める必要はありますが……この調子なら、冬の食卓に青物を加えられます」
マーサは、そこでわずかに息を吸った。
「お嬢様。貴女の『サボる』という執念は、領地の暮らしを変える力を持っています」
筋肉。
現場。
帳簿。
そして農夫。
領地を支える者たちが、私の「サボりたい」という純粋な怠惰を、ありとあらゆる角度から「完璧な女神の策」へと壮大に勘違いし、完全にひれ伏していた。
「さあ、皆の者! 豊穣の女神、ヴィクトリアお嬢様に感謝の祈りを捧げるのだ!」
トマスが音頭をとると、農夫たち、そして兵士たちまでもが一斉に黒土の上に跪き、私に向かって深く頭を下げた。
「「「女神ヴィクトリア様に、大いなる豊穣の祈りを――!!」」」
ガラスの温室の中に、地鳴りのような崇拝の声が響き渡る。
中央に飾られた、私の顔を模した粘土人形が、ガラス越しの日光を浴びて、妙に神々しく輝いていた。
「……はぁ。もう、好きにすればいいわ」
私は頭を抱え、深いため息をついた。
いくら本音を言っても、「あえて悪役を演じている」と深読みされるだけなら、もう何も言わない方がましである。
私の「動きたくない」という我が儘が、なぜか信仰めいた崇拝を生み出してしまった。
作物は日ごとに葉を広げ、辺境の食卓には、少しずつ青い彩りが戻り始めていく。
けれど、この温かな菜園がもたらした予想外の実りが、今度は領民たちの行動を、さらに妙な方向へ暴走させていくことを、私はまだ知らなかった。
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