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第35話:追放令嬢の点滴灌漑

「人間が水を運ぶのではなく、水自身に畑の隅々まで巡ってもらい、必要な場所へ、必要な分だけ落としてもらえばいいのよ」


私が不敵な笑みを浮かべて言い放つと、巨大な温室の中に、しん……と静寂が落ちた。


「……お嬢様。お言葉ですが、それはいくらなんでも土台無理な話ですべ」


沈黙を破ったのは、温室の片隅で種を仕分けていた老農夫のトマスだった。


長年、辺境の痩せた土地で泥にまみれて生きてきた彼は、深く刻まれた額の皺をさらに深くして、首を横に振る。


「農業ってなぁ、天の恵みである雨を待ち、雨が降らねば人間が腰を痛めながら水を運ぶもんです。水が勝手に動くなんて、そんな都合のいい話……たとえ高位の魔法使い様でも、ずっと水を操り続ける魔力が保ちますまい」


トマスの言うことは、この世界の住人としては至極真っ当だ。


魔法を維持するには、魔力か高価な魔石が必要になる。


昼も夜も水を動かし続けるなど、いくら私でも面倒すぎる。


そもそも、やりたくない。


「トマス、そしてルーク、レオンハルト様も。よく聞きなさい」


私は杖を握り直し、温室の黒土へ向けた。


「私は水を動かし続けるために、魔力を使うつもりなんてないわ。使うのは、この世界にも最初からある自然の理よ」


「自然の、理……?」


ルークが首を傾げる。


「ええ。水は高いところから低いところへ流れる。ただそれだけ」


私は温室の奥、少し高い位置に作っておいた貯水槽を指差した。


「まず、水の道を作るわ」


私は杖を振り、温室の端に積んでおいた樹脂の塊へ魔力を流し込んだ。


木から採った粘りのある樹液を、魔法で練り、固め、しなやかな管へと形を変えていく。


黒く、細く、しなる管。


それが、にょろにょろと蛇のように畑の表面を這い始めた。


「わわっ!? なんだこの黒い紐は……? 畑が蜘蛛の巣みたいになっちまったぞ!」


ルークが驚いて飛び退く。


「ただの管よ。でも、普通の管じゃないわ」


黒い管は、畝に沿ってまっすぐ伸び、種を植える予定の場所の近くを正確に通っていく。


やがて温室全体に、細かな水の道が張り巡らされた。


「次は、水の出口を作る」


私は管の上へ杖を滑らせた。


パチ、パチ、パチ……。


小さな音を立てて、管のところどころに針の先ほどの穴が開いていく。


ただし、やみくもに開けるのではない。


種を植えた場所の近く。


根が伸びるであろう場所。


そこへ水が落ちるよう、穴の位置を一つずつ合わせていく。


「よし。管は完成ね。ルーク、貯水槽に水を入れて」


「へい! レオンハルト様、お願いします!」


「任せろ! 筋肉の出番だな!」


ルークとレオンハルトが、先ほど運んでおいた水桶を担ぎ、温室の高い位置にある貯水槽へ注ぎ込む。


私は念のため、貯水槽の入口に細かな濾し網を取り付けた。


泥や小石が入れば、小さな穴はすぐに詰まる。


こういう仕組みは、動かすことより、詰まらせないことの方が大切なのだ。


「お嬢様、その網は?」


「管が詰まらないようにするためよ。泥や砂が穴を塞いだら、水は出なくなるでしょう?」


「な、なるほど……!」


「それと、管の端には掃除口を作っておくわ。たまに水を強めに流して、中の汚れを押し出すためよ」


「水やりにも掃除がいるんですかい……」


「放っておいて働く仕組みほど、手入れの場所を作っておくのよ」


私は貯水槽の下につけた小さな弁をひねった。


すると、水が高いところから落ちる力に従って、黒い管の中へ静かに流れ込んでいく。


そして、管に開けられた無数の小さな穴から――。


ぽたっ。


ぽたっ。


ぽたっ……。


水滴が、種のそばの土へ落ち始めた。


「……あ、あれ?」


トマスが這いつくばるようにして、土を見つめる。


「水が、どばっと流れるんじゃなくて……種のそばに、一滴ずつ落ちておる……?」


そう。


水は勢いよく噴き出すわけではない。


畑全体を水浸しにするわけでもない。


種を植えた場所の近くへ、静かに、一定の間隔で水を落としている。


土は水を受け止め、じわりじわりと黒く湿っていった。


「お嬢様、これは一体……? こんなぽたぽた落とすだけの頼りない水やりで、本当に畑が潤うんですか? 畑全体に水が行き渡るくらい、豪快に撒かなきゃ、野菜は乾いて死んじまいますだ!」


トマスが焦ったように声を荒げる。


私は人差し指を立てた。


「それはね、トマス。桶でどばっと水を撒くことこそが、水と手間を無駄にするやり方だからよ」


「無駄……ですか? 畑全体を濡らすのが、農の基本では……」


「いいえ。植物が本当に水を欲しがっている場所を考えなさい。葉かしら? 茎かしら?」


「い、いえ……土の中の根っこですだ」


「その通りよ」


私は足元の黒土を軽く踏んだ。


「植物が必要としているのは、根の周りの土がほどよく湿っていること。畑の通り道や、根の届かない場所まで水浸しにする必要はないわ」


トマスとルークが、はっとしたように顔を見合わせる。


「特に、この温室は下から土を温めているでしょう? そこへ大量の水を一度に撒いたら、根が吸う前にかなりの水が湯気になって逃げてしまう。おまけに、土の表面が濡れて乾くことを繰り返すと、硬く締まってしまうこともある」


「あ、あわわ……。確かに、表面が硬くなった畑は、芽の出が悪くなることがありますだ……」


長年の経験と私の説明が結びついたのだろう。


トマスの目が驚きに染まっていく。


「この仕組みの良いところは、必要な場所に、必要な分だけ、少しずつ水を届けられることよ。水滴がゆっくり染み込むから、根のまわりを湿らせやすい。土も崩れにくい。通路に無駄な水を撒くこともない」


「つまり……畑全体じゃなく、根の近くを狙って水をやるんですね」


ルークが呟く。


「ええ。これを点滴灌漑と呼ぶわ」


「てんてき、かんがい……」


トマスが、まるで祈りの言葉でも聞いたように繰り返した。


「ぽたぽたと、一滴ずつ……根へ水を届ける農法……」


「そうよ。桶で撒くより水は少なくて済むし、水を運ぶ回数も減る。何より、一度管を張ってしまえば、人が畝の間を歩き回って水を撒く必要がない」


「水を運ぶ回数が減る……!」


その言葉に、今まで静かに書類綴りを抱えていたマーサが、がたっと反応した。


「お待ちください、お嬢様。水を運ぶ回数が減るということは、人手を他の仕事に回せるということ。衣服や靴の傷みも減りますし、兵士を水汲みに使わずに済みます。これは……これは、帳簿にも非常に優しい仕組みです!」


「それだけじゃないわ、マーサ」


私は不敵に微笑んだ。


「この仕組みの最大の利点はね……水やりに張りつかなくていいことよ」


「「「えっ?」」」


「貯水槽に水が入っている限り、この管が少しずつ畑へ水を届け続けてくれる。私たちは、貯水槽の水が減った時に足すだけでいい」


私はルークとレオンハルトへ視線を向けた。


「ねえ、ルーク、レオンハルト様。朝夕に何十往復も桶を運ぶのと、時々、貯水槽を満たすだけの仕事。どちらがましだと思う?」


「圧倒的に後者ですぜ、お嬢様!!」


ルークが自分の腰をさすりながら、感動のあまり涙ぐんだ。


「俺の腰は……俺たちの筋肉は、今、お嬢様の怠惰によって救われたんだ……!」


「ガッハッハ! 筋肉を使わぬ農業とは、少し寂しい気もするが……なるほど、水が自ら畑を巡る様は見事だ。これなら兵士たちを本来の訓練や守りに専念させられる!」


レオンハルトも、感心したように深く頷いた。


「……素晴らしい。素晴らしいです、ヴィクトリアお嬢様!」


トマスが、ついにその場にどさりと膝をついた。


そして、ふかふかの黒土に額を擦り付ける。


「長年、農とは、空の機嫌に怯え、腰が曲がるまで這いつくばるものだと思っておりました。しかし、お嬢様は……ただの黒い管一つで、その苦しみを和らげてくださった! この点滴灌漑があれば、真冬でも、人手が足りなくとも、作物に水を届けられますだ……!」


「いや、私はただ、美味しいサラダを食べるために、一歩も動きたくなかっただけなんだけれど……」


私の切実な本音は、トマスの感謝の涙と、ルークたちの歓声にかき消された。


マーサは眼鏡の奥の目を輝かせ、書類綴りに凄まじい勢いで文字を書き込んでいる。


「水運びの手間、削減。兵士の拘束時間、減少。靴と衣服の傷みも軽減。収穫が安定すれば、食糧の蔵にも余裕が生まれる……。お嬢様、これは食糧問題を解く鍵になります!」


こうして、真冬の辺境に、地中の熱と点滴灌漑を備えた温室が完成した。


水を惜しみ、手間を減らし、作物の根へ静かに水を届ける仕組み。


完璧な温室を手に入れた私は、今度こそ、誰にも邪魔されない至高の引きこもり生活へ戻れるはずだった。


しかし、私の食への執念が生み出した温かな菜園が、今度は領地の外の人間たちの目を引き始めることに、私はまだ気づいていなかった。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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