第34話:追放令嬢は水やりをサボりたい
「よし! ならば早速、皆で畑を耕して種を撒こう! そして毎日、川から水を汲んできて、たっぷり水をやるのだな!」
完成したばかりのぽかぽかの温室の中で、レオンハルトが自慢の胸板をどんと叩きながら、高らかに宣言した。
その言葉を聞いた瞬間、私の思考はぴたりと止まった。
「……ちょっと待って。毎日、水をやる?」
「そうだとも! 植物には水が欠かせないだろう?」
事もなげに言うレオンハルトの隣で、ルークが顎に手を当て、真剣な顔で温室の広さを見回した。
「そうですね……。この温室、かなり広いですし、床下の熱で土が下から温められてる。普通の畑より、土が乾くのも早いはずです」
ルークは指を折りながら、さらに続ける。
「トマス爺さんのやり方だと、この広さの畑全体を奥まで湿らせるには、朝と夕方に大桶で何十往復も川から水を運ばなきゃ足りねえでしょうな」
「何十往復……?」
「へい。しかも毎日です。収穫まで、一日も欠かせません」
その言葉が、私の耳を通り抜け、脳内で恐ろしい光景へと変わっていく。
重い桶を両手に持ち、猛吹雪の中を川まで歩く。
凍った水面を割り、水を汲み、温室まで戻る。
それを、朝と夕方。
毎日。
収穫まで、ずっと。
「もちろん、俺たちだけじゃ手が足りねえんで、お嬢様にも手伝ってもらうことになるかと。ほら、この小さめの桶なら、お嬢様でも持てるはず……」
ルークが、満面の笑みで空の木桶を差し出した。
その瞬間。
私の脳裏に、前世の記憶が蘇った。
重い資材を運び、泥だらけの現場を歩き回り、ひび割れた手で図面を握っていた日々。
悲鳴を上げる腰。
慢性的な筋肉痛。
そして、どれだけ働いても終わらない作業。
労働。
私がこの世界で最も憎み、最も遠ざけたい二文字が、巨大な質量を持って襲いかかってきた。
毎日。
私が。
この広い畑に。
重い水桶を運んで、水を撒く。
――冗談じゃない。
「い、嫌よ……」
「えっ?」
「絶対に嫌よおおおおッ!! 誰がそんな果てしない肉体労働なんてするものですか!! 私はベッドでごろごろしながら、サラダが出てくるのを待ちたいの!! 水やりなんて、絶対に、絶対にサボってやるわ!!」
私は頭を抱え、温室の真ん中で絶叫した。
いくら美味しいサラダのためとはいえ、毎日泥だらけになって水を運ぶなど、私の休養生活に対する重大な裏切りである。
そんなことをするくらいなら、石みたいな黒パンを齧って胃痛に耐えていた方が、まだましだ。
「ガッハッハ! ヴィクトリアよ、何を我が儘を言っているのだ。働いた後の飯こそが至高! お前がやりたくないと言うなら、俺と黒曜騎士団の兵士たちで水を運ぼう! 筋肉を鍛え、汗を流してこそ、野菜は美味くなるのだぞ!」
私が頭を抱えていると、レオンハルトがどんと胸を叩いて請け負った。
だが、その筋肉任せの提案に、背後から冷たい声が突き刺さる。
「お断りします。辺境伯様、その案は領地の台所をさらに苦しめるだけです」
カツン、カツン。
一切の無駄を許さない足音とともに、分厚い書類綴りを抱えたマーサが前に進み出た。
彼女は銀縁眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、レオンハルトを見上げる。
「いいですか、辺境伯様。兵士たちを毎日水汲みに駆り出せば、そのぶん腹が減ります。食事を増やせば、ただでさえ心もとない糧秣の蔵がさらに早く空になります」
「むっ……! そ、それは……」
「さらに、猛吹雪の中での水汲みは、凍傷や怪我を招きます。怪我人が出れば薬も人手も必要になりますし、兵士たちの疲れが溜まれば、本来の務めである魔物への備えも薄くなります」
マーサは書類綴りをぱん、と閉じた。
「つまり、手作業による水やりは、食糧も、人手も、防衛も同時に削る悪手です」
レオンハルトとルークは、完全に言葉を失った。
「ぐうの音も出ねえ……」
「正しすぎて胸が痛い……」
二人が壁際で小さくなる。
さすがマーサ。
私の「サボりたい」という怠惰な願望を、領地経営の正論として立派に支えてくれた。
私は心の中で盛大に拍手を送りながら、こほんと咳払いをして立ち上がる。
「マーサの言う通りよ。貴重な人手を、ただ水を運ぶためだけに使うのは無駄が大きすぎるわ。ルーク、レオンハルト様、水汲みの計画は今すぐ白紙にしなさい」
「は、白紙にするって……じゃあ、どうやってこの広い畑に水をやるんですかい?」
ルークが途方に暮れたように畑を見渡した。
「雨も雪も、このガラスの屋根に阻まれて中には入ってきませんぜ?」
広がる黒土は、床下の熱によって、すでに表面がうっすらと乾き始めている。
このまま種を撒いても、水がなければ芽は出ない。
水やりは必要だ。
だが、人は動きたくない。
少なくとも、私は絶対に動きたくない。
その二つの矛盾する願いを前に、私はにやりと笑った。
「ふふっ。人が水を運ぶのが無駄なら、答えは簡単じゃない」
私は杖を軽く回し、乾いた土の表面を指差した。
「人間が水を運ぶのではなく、水自身に畑の隅々まで巡ってもらえばいいのよ。しかも、必要な場所に、必要な分だけ、根元へ静かに落ちるようにね」
「……水が、自分で畑を巡る?」
ルークとレオンハルト、そしてマーサまでもが、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
この世界において、農業とは祈りと労働の積み重ねだ。
雨を待ち、川から水を運び、手で土を湿らせる。
それを仕組みで肩代わりするなどという発想は、彼らの常識には存在しないのだ。
「ええ。私は絶対に水やりなんてしないわ。けれど、水を無駄にもしたくない」
私は両手で杖を握りしめた。
「見せてあげる。水を畑へばら撒くのではなく、一滴ずつ根へ届ける仕組みを。前世の農の知恵が辿り着いた、手間を減らし、水を惜しむための答えをね」
絶対に働きたくないという私の執念が、またしても辺境の地に新たな仕組みを生み出そうとしていた。
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