第31話:追放令嬢は硬い黒パンを拒絶する
――カァァァンッ!!
ぽかぽかに温まった私室に、火花でも散ったかのような硬い音が響いた。
「……痛っ! ちょっと、私の歯が欠けるところだったじゃない!」
私は右手で顎を押さえ、テーブルの上の木皿に鎮座するそれを、恨めしそうに睨みつけた。
見た目は丸い石。
触った感触も石。
フォークを力いっぱい突き立てようものなら、金属音を立てて弾き返される。
辺境の厳しい冬を越すために、水分を限界まで飛ばして焼き上げられた保存食。
すなわち、硬い黒パンである。
「お嬢様、また無茶なことを。その黒パンは、塩漬け肉のスープに浸して、よぉくふやかして食べるんですよ。そのまま齧ったら、本物の石より硬いですからね」
部屋の隅で床暖房の点検口を確認していたルークが、苦笑いしながら振り返った。
私は言われた通り、黒パンの欠片を塩気の強いスープにぽちゃりと沈めた。
しばらく待ってから口に運ぶ。
だが、ふやけたところで、ぼそぼそとした食感と、舌に刺さるような塩辛さが口の中に広がるだけだった。
「……不味い。いや、食べられるだけありがたいのは分かっているのだけれど、私の胃腸はもう限界よ……」
私がフォークを置いて深いため息をついた、その時だった。
「失礼いたします。ヴィクトリアお嬢様、本日の蔵と帳簿の報告に参りました」
ばんっ、と勢いよく扉が開く。
分厚い書類綴りを抱えたマーサが、一切の無駄を省いた足取りで入ってきた。
その後ろからは、なぜかレオンハルトもついてくる。
「おお、ヴィクトリア! 今日も部屋が温かいな! 先ほどマーサ嬢が『糧秣の蔵を確認する』と息巻いていたので、俺も領主として付き添ってきたのだ!」
「単に執務室の書類から逃げてきただけでしょう」
マーサはレオンハルトを一瞥し、銀縁眼鏡を中指でくいっと押し上げた。
「結論から申し上げます、お嬢様。現在の備蓄の減り方が続いた場合……あと一月半ほどで、領地の黒パンと塩漬け肉は底をつきます」
「……はい?」
私は間抜けな声を上げた。
ルークも目を丸くし、マーサへ詰め寄る。
「おいおいマーサ、嘘だろ? 秋の収穫は例年通りだったし、今年は魔物の被害も少なかったんだ。春まで十分もつはずじゃねえか!」
「例年通りなら、です」
マーサは書類綴りを開き、淡々と続けた。
「お嬢様が整えた湯治場と床暖房のおかげで、兵士たちの体調は大きく改善しました。凍傷で寝込む者も減り、病で倒れる者も減りました」
「それは良いことだろう?」
レオンハルトが首を傾げる。
「もちろん良いことです。ですが、元気に働ける者が増えれば、そのぶん腹も減ります」
マーサは、ぴしゃりと言い切った。
「以前は寒さで寝込み、ろくに動けなかった者たちが、今は朝から晩まで土を掘り、石を運び、湯に浸かってまた働いています。当然、食べる量が増えます。さらに、亡くなる者も減りました。つまり、守るべき口数が減らない」
「口数……」
「このままでは、春を待たずに蔵が空になります」
「な、なんだってー!?」
ルークが頭を抱えて絶叫した。
すると、レオンハルトが、ぽんっと力強くルークの肩を叩いた。
「心配するな、ルーク! 食糧が足りないなら、俺が今から雪山へ入り、冬眠中のブリザード・ベアを百頭ほど狩ってこよう! あの肉は硬いが、三十回ほど噛めば味が――」
「却下です」
マーサの声が、部屋の空気をぴしりと割った。
「魔獣の肉は、処理を誤れば腹を壊す危険があります。猛吹雪の中で狩りに出れば、怪我人も出ます。得られる肉より、失う体力と薬代の方が大きくなる恐れがあります」
「ぐっ……!」
「領主が冬山へ突撃する案は、割に合いません」
「割に合わぬ……」
レオンハルトが、未知の魔法を浴びたような顔で固まった。
「でもよぉ、マーサ!」
今度はルークが、どんっと自分の胸を叩いた。
「俺たち農兵は、気合で腹の虫を黙らせることもできますぜ! 俺たちが少し我慢すれば、お嬢様の分くらいは――」
「腹は気合では膨れません」
マーサは即座に切り捨てた。
「食べる量を削りすぎれば、力が落ちます。力が落ちれば、工事も畑仕事も遅れます。春の種まきにも響きます。あなた方の根性頼みの案は、すべて却下です」
「ぐはぁっ……!」
ルークが胸を押さえてよろめいた。
マーサは書類綴りを閉じ、私へ向き直る。
「現実的な策としては、領地全体の食事量を一時的に絞るしかありません。まずは黒パンと塩漬け肉の配り方を改め、一人あたりの量を減らします」
配る量を減らす。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かがぷつんと切れた。
前世のブラック企業時代。
徹夜明けに、冷えたコンビニのおにぎり一つで空腹をごまかした、あの惨めな記憶が蘇る。
ただでさえ硬くて塩辛い黒パンと塩漬け肉。
それを、さらに削れというのか。
「……嫌よ」
私は俯いたまま、低く呟いた。
「お嬢様? お気持ちは分かりますが、今は真冬です。春まで我慢していただかないと……」
「嫌だと言っているのよ!!」
私は、ばんっ、と机を叩いて立ち上がった。
三人がびくりと肩を跳ねさせる。
「誰がそんなひもじい思いをするものですか! 私はね、ふかふかで柔らかい、湯気の立つ白いパンが食べたいの! しゃきしゃきでみずみずしい、甘い野菜のサラダが食べたいの! 毎日毎日、石みたいな黒パンを齧る生活なんて、もう一秒たりとも耐えられないわ!!」
「お、お嬢様……? いくらなんでも、真冬の雪国で瑞々しい野菜なんて育つわけが……」
ルークが引きつった笑いを浮かべる。
だが、私の中の元エンジニアとしての熱は、すでに限界を超えていた。
「育たないなら、育つ場所を作ればいいだけでしょうが!!」
「えっ」
「寒いなら温める。風が強いなら囲う。日が足りないなら、光を逃がさない。土が凍るなら、土ごと温める。ただそれだけの話よ!」
「た、ただそれだけ……?」
マーサが、嫌な予感を察したように顔を青ざめさせる。
「待ってください、お嬢様。まさか、新しい工事を――」
「ルーク!」
「は、はいっ!」
「今すぐ館の裏庭の雪を退かしなさい。風の流れと日当たりを見るわ。レオンハルト様、兵士を数名貸してください。マーサ、必要な資材の残りを確認して。硝子に使えそうな砂、石灰、灰、火の魔石、全部よ」
「お、お嬢様?」
私は杖を引っ掴み、三人の前に仁王立ちした。
「私はこれから、真冬の辺境に、野菜が育つ温かな菜園を作るわ」
「「「……はいぃぃぃぃッ!?」」」
節約をしようとしたら、さらに新しい工事が始まろうとしている。
マーサが書類綴りを抱えたまま白目を剥きかける中、私の食への執念に火がついた農業革命が、今まさに幕を開けようとしていた。
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