第30話:最強の官僚組織の誕生
「お、お嬢様ぁぁっ! 助けてくだせえ!!」
ぽかぽかの自室で、極上のアールグレイを楽しみながら、うたた寝を決め込もうとしていた私の耳に、ルークの悲痛な叫び声が飛び込んできた。
バンッ、と扉が開く。
屈強な現場頭として育ち始めたはずの彼が、なぜか涙目で部屋に逃げ込んできた。
「どうしたのよ、ルーク。また排水管が詰まったの?」
「違います! 管じゃなくて、俺の支出願いが詰まったんです! あの帳簿係が……マーサさんが、血も涙もねえんです!!」
ルークが私の長椅子の後ろへ逃げ込んだ、まさにその直後。
カツン、カツン。
廊下に、きっちりとした靴音が響いた。
分厚い書類綴りを胸に抱えたマーサが、一切の無駄を削ぎ落とした表情で部屋へ入ってくる。
「……現場頭ルーク。未承認の支出願いを持ったまま逃げるとは、どういうおつもりですか。差し戻しはこれで三度目です」
「ヒィッ! 来たぁっ!」
ルークが長椅子の背にしがみつく。
マーサは銀縁眼鏡を中指でくいっと押し上げ、淡々と、しかし逃げ道のない声で言った。
「いいですか。下水工事の区切りとして、兵士たちに肉とエールを振る舞いたい。その心意気は理解できます」
「ほ、本当ですかい!?」
「ですが」
その二文字で、ルークの顔が一気に青ざめた。
「この『宴の費え、銀貨十枚』とは何ですか。誰が、何人参加するのですか。肉は何斤、エールは何樽ですか。一人あたりいくらかかるのですか」
「だ、だから! 昨日は皆よく働いたから、レオンハルト様の時みたいにパーッと……」
「『パーッと』という費目は、帳簿のどこにも存在しません」
マーサの声が、ぴしゃりと部屋に響いた。
「これを兵への労いとして認めるなら、人数、品目、量、支払い先、受け取った者の印が必要です。金庫から銀貨が減る以上、銅貨一枚たりとも行き先の分からない金は許せません」
「ぐはぁっ……! お、お嬢様! この人、数日前に倒れてたか弱い文官と同じ人ですかい!? 完全に別人じゃねえですか!」
完全に押し負け、白目を剥きかけているルークを見て、私はティーカップを置きながら、思わず小さく笑った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
私が声をかけると、二人ははっとして姿勢を正した。
ルークは、現場の士気を第一に考える熱血漢。
マーサは、数字の正しさと領地の台所を守ることに命を懸ける文官。
一見すると水と油のようだが、前世でいくつもの現場を見てきた私からすれば、これはむしろ良い組み合わせだった。
「ルーク。現場の者を労うのは大切よ。よく働いた者に報いることは、次の仕事への力になるわ」
「は、はい!」
「でも、領地の金を使う以上、何に、どれだけ、誰のために使うのかを明らかにする責任がある。そこを曖昧にすれば、また昔のどんぶり勘定に戻ってしまうわ」
「うっ……お嬢様の仰る通りで……」
ルークがしゅんと肩を落とす。
私は次に、マーサへ目を向けた。
「そしてマーサ。あなたの厳しい目のおかげで、領地の金庫は確かに守られているわ。でも、数字にすぐ現れないものもある。兵たちの士気、信頼、次の仕事への意欲。そういうものも、領地を動かす力なのよ」
「……!」
マーサの眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺れた。
「申し訳ありません。私の目が、帳簿の上に寄りすぎておりました」
「帳簿を見る目はそのままでいいわ。ただ、現場の声も少しだけ聞きなさい。ルークも、支出願いを書く時はマーサが納得できるだけの中身を揃えること。二人で話し合って、必要なものだけ通しなさい」
「はいっ!」
「承知しました」
二人はそろって深く頷いた。
よし。
二人の力関係は、これで少し釣り合った。
今だ。
私はゆっくりと長椅子から立ち上がり、二人の前へ進み出た。
そして、公爵令嬢として最も慈愛に満ちた、気高い笑みを浮かべる。
「ルーク。マーサ。あなたたち二人は、すでに私の想像を超えるほど頼もしく育ってくれたわ」
「えっ……?」
「だから私はもう、あなたたちに細かく口を出すのをやめます」
二人が顔を見合わせる。
私はルークの肩と、マーサの肩に、それぞれそっと手を置いた。
「ルークには、領地の工事と現場の指揮を任せます。道、水、暖房、排水、修繕。現場のことは、あなたが見なさい」
「お、俺が……!」
「マーサには、領地の金庫と帳簿を任せます。支払い、備蓄、収入、節約。金の流れは、あなたが守りなさい」
「私が……」
「これからは、いちいち私に『やっていいか』『通していいか』と聞きに来なくていいわ。現場のことはルークが判断し、金のことはマーサが確かめる。二人が納得したことなら、私は後で報告を聞くだけで構いません」
私はにっこりと微笑み、二人の顔を覗き込んだ。
「あなたたちを、心から信頼しているからよ」
――というのは、もちろん建前である。
本音は、
現場の揉め事も、面倒な支払いの確認も、全部あなたたちで片づけてちょうだい。
私はもうベッドでごろごろしたいの。
である。
しかし、そんな底知れぬ怠惰な本音に気づくはずもなく。
現場を任されたルークと、金庫を託されたマーサは、雷に打たれたように体を震わせた。
「お、お嬢様……! 俺みたいな農兵上がりに、黒曜辺境伯領の現場を任せてくださるなんて……!」
ルークの目に、熱いものが浮かぶ。
「このルーク、死に物狂いで道も水も暖房も守ってみせます!!」
「一介の左遷文官にすぎない私に、領地の金庫と帳簿を託してくださるのですね……」
マーサは書類綴りを胸に抱き、深く頭を下げた。
「ヴィクトリアお嬢様。必ずや、そのご信頼に数字でお応えします。銅貨一枚たりとも、無駄にはいたしません」
二人は私の前で膝をつき、それぞれの役目を胸に刻むように頭を垂れた。
これにて、私の安眠を妨げる現場の揉め事と金庫の危機という二つの大敵は、かなりの部分、私の手から離れたのである。
「ええ、頼りにしているわ。じゃあ、私は少し休むから、お仕事に戻ってちょうだい」
「「はいっ!!」」
意気揚々と執務室へ戻っていく二人の背中を見送りながら、私は自室の扉を閉めた。
かちり、と鍵をかける。
振り返れば、そこには完璧な温度に保たれた部屋があった。
一切の悪臭がしない清潔な空気。
ふかふかの寝台。
湯気を立てる紅茶。
そして、誰も私に仕事を振ってこないという、何より尊い静寂。
「……勝った。ついに、私の完全勝利よ」
私はベッドに向かって飛び込み、柔らかな毛布に顔を埋めた。
過労死した元社畜が、前世の知識と、育て上げた部下たちを駆使して作り上げた、誰にも邪魔されない至高の休養生活。
現場はルークへ。
金庫はマーサへ。
最強の任せる仕組みが完成し、私の辺境引きこもり生活は、ここに一つの完成形を迎えたのだった。
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