第29話:追放令嬢の帳簿と、狂喜乱舞する経理担当
「……ふふっ。ふふふふふっ!!」
領主の館、一階に急遽設けられた執務室。
そこから、深夜の廊下にまで響くような、底知れぬ歓喜を孕んだ笑い声が漏れていた。
「す、すげえ気迫だ……。お嬢様、あの中、どうなってるんですかい?」
ルークが少し引いた様子で、扉の隙間から中を覗き込む。
私も一緒にこっそりと覗き見ると、そこには大量の羊皮紙とインク壺に囲まれ、髪を振り乱しながら羽根ペンを走らせるマーサの姿があった。
「合う……! 合います! 借方と貸方が、銅貨一枚の狂いもなくぴたりと!! ああ、なんという美しさ、なんという絶対の秩序!!」
彼女の銀縁眼鏡が、ランプの光を反射してぎらりと妖しく輝く。
かつて王都で数字の海に溺れかけ、過労で倒れかけていた文官の姿は、そこにはなかった。
複式簿記という武器を手に入れた彼女は、無駄な支払いを次々と斬り捨てる、容赦のない鬼文官へと覚醒していたのである。
「す、すごい執念ね。あの子、昨日からほとんど休んでいないはずよ」
「ええ。レオンハルト様が『少し休め』と声をかけたら、『どんぶり勘定で領地を傾けた張本人が、私の計算を邪魔しないでください』って一喝されて、しょんぼり部屋に戻っていきましたからね……」
ルークの報告に、私は思わず苦笑した。
あの無敵の黒曜辺境伯すらしょんぼりさせる覇気。
金庫の鍵を握った女は、時として剣よりも強い。
バンッ!!
突然、執務室の扉が内側から勢いよく開かれた。
隙間から覗き見していた私とルークは、
「ひゃっ!?」
と情けない声を上げて尻餅をついた。
「ヴィクトリアお嬢様!!」
マーサが、血走った目と妙に晴れ晴れとした笑みを浮かべ、分厚い書類綴りを抱えて私たちを見下ろしていた。
「お、お疲れ様、マーサ……。どう? 領地の台所事情は、少しは見えたかしら?」
「はい!! お嬢様が授けてくださった複式簿記のおかげで、過去三年分の荒れ果てた記録から、金貨の流れを大筋で組み直すことに成功しました!」
マーサは書類綴りを広げ、ばしっと一つの数字を指差した。
「結論から申し上げます! このままの勢いで魔石と建材を使い続ければ、二月もたずに領地の蔵は空になります!!」
「えぇぇっ!? 全然笑い事じゃないじゃない!!」
嬉々として破滅寸前の報告をしてくるマーサに、私は悲鳴を上げた。
しかし、彼女は眼鏡を中指でくいっと押し上げ、不敵に笑う。
「ふふふ。以前の帳簿のままなら手遅れでした。しかし、金貨、魔石、建材、人手、支払いの約束。そのすべての流れが見えた今なら、削るべき無駄を銅貨一枚単位で洗い出せます。借方と貸方の均衡を取り戻す、領地再建の大手術を始めます!」
鬼文官マーサは、凄まじい早口でまくし立て始めた。
「まず、王都から買い入れている火の魔石。仲介の商会が不当に口銭を上乗せしています。これは私が売買の札と受取印を突き合わせ、証拠を揃えた上で直接交渉します。仕入れ値は必ず下げます」
「ひっ」
ルークがなぜか怯えた。
「次に、兵士たちへの支払い。すべてを金貨で渡すから、蔵から現金が一気に消えるのです。一部は領地で獲れた肉や小麦、暖房の優先利用券などに置き換えます。腹は満たしつつ、金貨の流出を抑えます」
「お、おお……」
「さらに、使われていない空き兵舎。あれを近隣の行商人向けの有料宿として整えます。床暖房と清潔な厠がある宿など、この辺境では他にありません。雪を避けたい商人なら、銀貨を払ってでも泊まります」
「なるほど……!」
私は思わず身を乗り出した。
ただ支出を削るだけではない。
既に作ってしまった設備を、今度は稼ぎに変える。
マーサの目は、完全に領地の金庫番として覚醒していた。
「他にもあります。余った石材は寸法を揃えて売れる形に切り出す。火の魔石は用途ごとに等級を分け、浴場用、床暖房用、鍛冶場用で使い分ける。職人への褒美は、今後すべて受取印つき。袋のまま金貨を渡すなど、金輪際許しません」
「うっ……」
いつの間にか廊下に来ていたレオンハルトが、胸を押さえてうめいた。
マーサは眼鏡越しに、容赦なく彼を睨んだ。
「レオンハルト様」
「は、はい」
「お気持ちは尊いです。ですが、気前のよさで帳簿は埋まりません」
「……肝に銘じる」
レオンハルトは、戦場で敗北を認める騎士のように深く頷いた。
「これなら……いけます」
マーサは書類綴りを胸に抱き、天を仰いだ。
「お嬢様が作った設備を止めず、兵たちの命も守り、そのうえで領地の蔵に余りを生み出してみせます。王都の馬鹿どもは、数字を曇らせるために私を遠ざけた。けれど、お嬢様は私に、数字が嘘をつけなくなる複式簿記を授けてくださった!」
彼女の声は震えていた。
怒りではない。
歓喜と、解放の震えだった。
「私はこの辺境の地で、銅貨一枚のズレも見逃さない、最強の帳簿方を作り上げてみせます!!」
「た、頼もしいわね……」
ちょっと怖いけれど。
私は引き攣った笑みを浮かべながら、ぱちぱちと拍手を送った。
これで、私の懸念だった金庫の危機は、ひとまず回避できそうだ。
それどころか、マーサに金のことを任せられる。
つまり、私は細かい金勘定から逃げられる。
なんて素晴らしい流れだろう。
「マーサ、素晴らしいわ。領地の帳簿と金庫の管理は、あなたに任せる。細かな采配は、あなたが正しいと思うように進めなさい」
私がそう告げると、マーサははっと息を呑んだ。
そして、深く、深く頭を下げる。
「……身に余る光栄です。お嬢様のご信頼、必ず数字でお返ししてみせます」
「ただし」
私はすかさず付け加えた。
「三日に一度は眠りなさい。倒れたら帳簿も金庫も止まるわ」
マーサは一瞬だけ不満そうに眉を動かしたが、すぐに眼鏡を押し上げて頷いた。
「……承知しました。倒れない程度に働きます」
「倒れない程度ではなく、普通に休みなさい」
「努力します」
これは監視が必要だ。
私は心の中で、ルークにまた一つ仕事を振ることを決めた。
こうして、辺境の財政は一人の鬼文官によって握られた。
現場を仕切るルーク。
金庫を守るマーサ。
最強の部下たちが揃い始めたことで、私の「サボりたい」という壮大な野望は、ついに最終段階へと近づいていくのだった。
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