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第28話:追放令嬢は究極の魔法を授ける

温かい野菜スープを飲み終えたマーサの顔に、ようやく少しだけ血の気が戻っていた。


しかし、彼女の視線は依然として、机の上に置かれたズタボロの帳簿に釘付けになっている。


まるで親の仇でも見るような目だった。


「……申し訳ありません、ヴィクトリアお嬢様。取り乱しました」


「いいのよ。真面目なあなたが、あの『お小遣い帳』を見て絶望するのは当然だわ」


私は優しく微笑みながら、マーサの隣に座った。


向かいの席では、屈強な黒曜辺境伯レオンハルト様が、叱られた大型犬のようにしゅんと肩を落として小さくなっている。


「レオンハルト様。あなたが職人たちに気前よくお金を渡した心意気は、悪いものではないわ。でもね、領地という大きな家を動かすには、ただ『入った金』と『出た金』を一本の線で書き並べるだけでは限界があるの」


「うむ……。だが、金庫から金貨が減ったことには変わりないだろう? どう書けば正解だったのだ……」


レオンハルトが、困り果てたように頭を掻く。


数字に弱い彼にも。


そして、帳簿の矛盾に苦しんできたマーサにも。


今こそ、新しい帳簿の概念を叩き込む時が来た。


私は白紙の羊皮紙を一枚引き寄せ、炭筆を握った。


「それはね、レオンハルト様。金の動きを、常に二つの面から同時に記録する帳簿術――『複式簿記』を使うのよ」


「ふくしき……ぼき?」


「ええ。理屈は簡単よ。たとえば、あなたが金庫から金貨十枚を持ち出して、新しい剣を買ったとするわね」


私は羊皮紙の真ん中に、縦線を一本引いた。


左右に分かれた二つの欄ができる。


「今までの帳簿なら、『剣を買った。金貨が十枚減った』とだけ書いて終わりでしょう。これだと、金貨がただ消えたように見える」


「うむ。俺の財布は十枚分、確実に軽くなっているからな。悲しいことだ」


「でも、本当にあなたの財産は減ったのかしら?」


「む?」


「金貨は手元から消えた。でも、その代わりに、あなたの腰には金貨十枚の価値がある剣がぶら下がっているわよね?」


その言葉に、レオンハルトははっと目を丸くした。


「おおっ!? 確かに! 俺は今、十枚分の価値を持つ剣を持っている! 財産は消えていない。ただ、金から剣に姿を変えただけだ!」


「その通りよ!」


私は羊皮紙の左側を、とん、と叩いた。


「この左側を『借方』、右側を『貸方』と呼ぶわ。剣を買った時、左側には『剣という財産が十増えた』と書く。そして同時に、右側には『金貨という財産が十減った』と書くの」


【借方】剣 十

【貸方】金貨 十


「これが複式簿記の基本よ。金が何に姿を変えたのか。あるいは、何のために出ていったのか。それを左右の欄に分けて、必ず対にして書くの」


「対にして……」


「そう。こうすれば、領地の財産が今どんな姿で残っているのかが見える。金貨なのか、魔石なのか、石材なのか、建物なのか。それを追えるようになるわ」


「……ッ!」


横で静かに話を聞いていたマーサが、突然息を呑んだ。


銀縁眼鏡の奥で、知性の光が鋭く瞬く。


「ま、待ってください、お嬢様。もしその決まりをすべての金の動きに当てはめるなら……左と右に書いた数は、最後には……!」


「ええ、マーサ。あなたの想像通りよ」


私は頷いた。


「借方の合計と、貸方の合計は、銅貨一枚の狂いもなく一致するわ」


マーサの体が、ぶるりと震えた。


数字の海で溺れていた彼女にとって、その「必ず左右が合う」という決まりは、暗闇の中に灯った灯台の光に等しかったのだろう。


「この帳簿術は、大きく五つの要素で成り立っているわ」


私は炭筆を走らせ、羊皮紙に順番に書き出した。


「一つ目は、財産。金貨、魔石、石材、建物、道具。領地が持っているもの」


「二つ目は、借り。まだ払っていないツケや、よそから借りた金」


「三つ目は、元手。誰かに返す必要のない、領地そのものの土台になる財」


「四つ目は、入り。税や売り物で得た金」


「五つ目は、費え。給金、食料、燃え尽きた魔石のように、使って消えていくもの」


マーサは食い入るように羊皮紙を見つめていた。


私は続ける。


「すべての金の動きは、必ずこのどれかに当てはまる。そして、左右の合計が合わなければ、どこかに書き間違いがある。あるいは、誰かが勝手に金を動かしている」


「……なんという……なんという美しさ……!」


マーサは両手で顔を覆い、感極まったように声を震わせた。


「これなら……これなら、上役が勝手に金庫から金貨を抜いても、『金貨が減った理由』を左側に書けなければ、すぐにおかしいと分かる……! ごまかしが通じない……帳簿そのものが、嘘を映す銀鏡になる……!」


「そうよ」


私は静かに頷いた。


「複式簿記は、ただの記録ではないわ。領地の体調を測る道具であり、金の流れに潜む嘘を照らす鏡なの」


「おおおお……!」


レオンハルトも感嘆の声を漏らした。


完全に理解したのか。


それとも、雰囲気で感動しているだけなのか。


そこは少し怪しい。


「つまり、俺が職人に金を袋のまま渡した場合は、右に『金貨が減った』と書き、左に『職人への給金』と書けばいいのだな! 剣の時と違って形には残らんが、職人たちの働きに対して金を払ったことになるわけだ!」


「その通りよ、レオンハルト様! 大正解!」


私が拍手を送ると、レオンハルトは嬉しそうに胸を張った。


「ガッハッハ! 俺にも分かったぞ!」


そして、隣のマーサを見る。


彼女はすでに、先ほどの死んだ魚のような目ではなかった。


猛禽類のような鋭い目で、ズタボロの帳簿を睨みつけている。


「……見えました」


マーサが低く呟いた。


「お嬢様。この複式簿記の決まりに当てはめれば、過去の杜撰な記録からでも、領地の本当の台所事情と、無駄な支払いを炙り出せます……!」


彼女は手元の筆記具を掻き集め、凄まじい気迫で立ち上がった。


私はその姿を見て、心の中でそっと拳を握った。


よし。


これで面倒な金勘定と帳簿の仕事は、すべて彼女に任せられる。


私の「サボりたい」という私欲が、またしても一人の優秀な人材を覚醒させてしまった。


絶対の秩序を手に入れた鬼帳簿係による、辺境の財政改革。


その嵐が、今まさに始まろうとしていた。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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