第26話:悪役令嬢の暴走と予算のパンク
「よ、予算が底をついたって……どういうことよ!?」
私は手にしたティーカップを、がちゃん、とソーサーに戻して立ち上がった。
ルークは青ざめた顔で、何枚かの羊皮紙を握りしめている。
「そ、そのままの意味ですぜ、お嬢様! 館のお風呂から始まって、病兵舎の床暖房、それから水洗厠と浄化槽……。お嬢様は魔法で一気に作っちまいますが、動かし続けるには火の魔石も、石材も、金具も、人手もいるんです!」
「あ……」
私は言葉に詰まった。
そうだ。
当然、分かっていたはずだ。
インフラは、作って終わりではない。
作るための初期費用がある。
動かし続けるための維持費がある。
壊れた時に直すための予備費がある。
前世で現場監督をしていた私なら、本来は誰よりも分かっていなければならないことだった。
だが、
「寒いのは嫌」
「臭いのは嫌」
「早く引きこもりたい」
という自分の欲望を最優先した結果、私はコスト管理という最も面倒な工程を、見事に脳内から締め出していたのである。
「お、お嬢様! ご安心ください!!」
そこへ、ばんっ、と扉を開けてレオンハルト様が飛び込んできた。
彼はひどく思い詰めた顔をしていたが、私と目が合った瞬間、無理やり爽やかな笑顔を作った。
「資金の枯渇など、ヴィクトリア様がもたらしてくださった温かな兵舎と清潔な厠に比べれば安いものです! 私の愛馬と、先祖代々伝わる黒曜石の鎧を王都で売り払えば、まだしばらくは魔石を買えます! ですから、どうかお気になさらず!」
「気にするわよ!! 領主が身ぐるみ剥がされてどうするの!!」
私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
自分の安眠と紅茶のために、私を慕ってくれる脳筋騎士の財産を食いつぶすなど、いくら悪役令嬢でも寝覚めが悪すぎる。
「ど、どうしよう……。私、土木と建築の知識はあるけれど、領地財政の立て直しなんて専門外よ……」
前世でも、概算工事費や工期の管理はしていた。
けれど、会社全体の資金繰りや帳簿は、経理部や本社の人間が扱う領域だった。
現場の人間である私に、領地の財務を丸ごと立て直す技能などない。
このままでは、魔石が買えなくなる。
資材も補充できなくなる。
床暖房も、水洗厠も、お風呂も、維持できなくなる。
つまり、私のニート生活が崩壊する。
私たちが絶望の淵に立たされていた、まさにその時だった。
「――失礼いたします。王都の財務省より赴任してまいりました。本日付で、黒曜辺境伯領の文官として着任いたします」
静かで、抑揚が少なく、けれど妙によく通る声が廊下から響いた。
開け放たれた扉の前に立っていたのは、一人の若い女性だった。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
この場にいる誰よりも、彼女の姿は異質だった。
まず目につくのは、一切の乱れなく、後頭部できっちり結い上げられた濃茶の髪。
おくれ毛一本すら許さない、という意志を感じる。
少し青白い肌。
銀縁の眼鏡。
そして、その奥にある、目の下の濃い隈。
長年、睡眠不足と過酷な書類仕事に身を置いてきた者だけが持つ、あの目である。
身につけている文官の制服は、生地こそ少し擦り切れていたが、折り目だけは刃物のように鋭かった。
両腕には、分厚い帳簿が何冊も抱えられている。
「レオンハルト辺境伯様ですね。私、マーサと申します」
マーサは、角度を測ったように正確なお辞儀をした。
「おお、君が王都から派遣されてきた新しい文官か! 遠路はるばる、よく来てくれた!」
「……左遷ですので。歓迎には及びません」
マーサは、感情を殺した目で淡々と告げた。
その乾いた響きに、私はぴくりと反応した。
この子。
間違いない。
完全に、私と同類だ。
社畜の目をしている。
前世で鏡を見るたびに嫌というほど向き合った、あの死んだ魚のような目。
しかし同時に、
「自分の担当だけは、何があっても完璧に処理する」
という狂気を宿した目でもあった。
ルークが、こっそり私の耳元で囁く。
「お嬢様、あの方……王都の財務省で、上司の不正な帳簿付けを何度も指摘して、煙たがられてここに飛ばされてきたって噂ですぜ……」
なるほど。
真面目すぎたのだ。
見て見ぬふりができず、不正を見逃す柔軟性もなかった。
だから、組織から弾かれた。
……最高じゃない。
私は目を輝かせた。
不正を許さない几帳面さ。
数字に対する異常な執着。
帳簿の乱れを見た瞬間に体調を崩しそうな繊細さ。
今の黒曜辺境伯領に最も必要な人材である。
「マーサと言ったわね」
私が声をかけると、彼女は銀縁眼鏡を中指でくいっと押し上げ、こちらを見た。
「はい。貴女が、公爵家のヴィクトリア様ですね。お噂は伺っております」
「どんな噂かは聞かないでおくわ」
「賢明なご判断です」
一切の愛想笑いもない。
ただ数字と事実だけを信じていそうな顔だった。
マーサは抱えていた帳簿の一冊を胸に押し当てたまま、淡々と続ける。
「早速ですが、着任の挨拶より先に、当領地の財務帳簿を拝見してもよろしいでしょうか。馬車を降りた瞬間から、この領地のインフラの充実ぶりに嫌な予感が止まりません」
「嫌な予感……?」
「この規模の設備が、辺境領の通常予算で自然発生するはずがありません。どこかで必ず、現金か在庫か人員に無理が出ています」
「…………」
正しい。
あまりにも正しい。
レオンハルト様が慌てて、机の上に積まれていた帳簿を彼女へ手渡した。
「うむ、これだが……」
マーサは帳簿を受け取り、ぺらりとページをめくった。
その瞬間。
「…………ッ!!」
彼女の血色の悪い顔から、さらに表情が抜け落ちた。
銀縁眼鏡の奥の目が見開かれる。
帳簿を持つ手が、かたかたと震え始めた。
「な……」
「な?」
「なんですか、この帳簿は……!」
マーサの声が、低く震えた。
「ただ、入ってきた金と出ていった金を、日記のように並べているだけ……。費目の分類もない。設備として残っているものの記録もない。魔石の在庫表もない。誰が、いつ、どの工事に、どれだけ資材を使ったのかも分からない……!」
彼女は、震える指で帳簿の一行を指した。
「『石材、たくさん』とは何ですか」
レオンハルト様が、少し誇らしげに答える。
「たくさん使ったという意味だ」
「意味は分かります。数字がないことを問題にしています」
「なるほど」
「なるほどではありません」
マーサの眼鏡が、ぎらりと光った。
「『火の魔石、必要分』。必要分とは何個ですか。何日分ですか。単価はいくらですか。どの設備で使いましたか。残数はいくつですか」
「ええと……必要な分だ」
「説明になっていません」
ルークが小さく震えた。
「お嬢様……マーサさん、怖いです……」
「大丈夫よ。あれは正しい怖さよ」
マーサは帳簿をさらに数ページめくり、ついに両手で頭を抱えた。
「これでは、領地の現金残高も、資材在庫も、維持費も、何一つ正確に把握できません。収支の記録ではなく、ただの思い出日記です」
「思い出日記……!」
レオンハルト様が衝撃を受けたように後ずさる。
マーサはさらに畳みかけた。
「お風呂、床暖房、水洗厠、浄化槽。これらはすべて、一度作れば終わりではありません。燃料費、修繕費、清掃費、点検人員、予備資材。毎月の維持費が発生します。設備が増えれば、固定費も増える。当たり前です」
「こ、固定費……」
レオンハルト様が、未知の魔物名でも聞いたような顔をした。
マーサは冷たい目で彼を見上げる。
「毎月、逃げられない支出のことです」
「なるほど……恐ろしい魔物だ」
「魔物ではありません。現実です」
その一言が、部屋に重く落ちた。
私は思わず胸を押さえた。
現実。
なんて嫌な響きだろう。
マーサは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
そして、私たちを順番に見回す。
「まず、現金残高を確定します。次に、魔石、石材、金具、木材、食料の在庫を棚卸しします。さらに、既存設備を一覧化し、それぞれの維持費を見積もります」
「た、棚卸し……」
ルークがごくりと喉を鳴らす。
「つまり、倉庫に何がどれだけ残っているか、全部数えるということですかい?」
「そうです。一つ残らず」
「ひ、一つ残らず……!」
「当然です。数えないものは管理できません。管理できないものは、必ず失われます」
あまりにも正しい。
正しすぎて、耳が痛い。
マーサは、銀縁眼鏡を押し上げた。
「そのうえで、不要不急の支出を凍結します。魔石の使用量を制限し、各設備の稼働時間と優先順位を決めます。病兵舎、館の最低限の衛生設備、兵の越冬に必要な熱源。それ以外は一旦保留です」
「えっ」
私は嫌な予感に肩を震わせた。
「保留って……」
マーサは、表情ひとつ変えずにこちらを見た。
「ヴィクトリア様の私室の暖房稼働時間も、当然見直し対象です」
「なっ……!」
私は胸を押さえてよろめいた。
「私の……私の床暖房が……?」
「燃料を消費している以上、例外ではありません」
「で、でも、あれは私の生命維持装置で……!」
「領地の生命維持が先です」
ぐうの音も出なかった。
この女、強い。
数字を盾にした時の圧が、王太子の婚約破棄宣言より重い。
マーサは帳簿を抱え直し、淡々と言った。
「ご安心ください。破綻を避ける道はあります。ただし、全員に痛みを伴います」
「痛み……」
「まずは徹底的な支出管理。次に、収入源の確保。最後に、不正と無駄の洗い出しです」
彼女はそこで、初めてわずかに口角を上げた。
笑顔というより、獲物を見つけた監査官の表情だった。
「帳簿の乱れは、必ず正します。数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、数字を書いた人間です」
部屋の空気が凍りついた。
黒曜辺境伯領に、ついに財務の番人が現れた。
お小遣い帳同然の帳簿しか存在しなかったこの領地に、元・財務省の社畜文官マーサが降臨した瞬間である。
そして私は、暖かい部屋でゴロゴロするために作ったインフラのせいで、今度は財政再建という、最も逃げたかった種類の仕事に巻き込まれようとしていた。
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