第25話:追放令嬢の美しい水洗トイレ
「トマス、ちょっと来なさい」
水洗厠と、館の外れに作った簡易浄化槽の調整を終えた私は、一階の廊下で雑務をこなしていた老農夫のトマスを呼び止めた。
彼は館の暖炉の灰を掃除したり、薪を運んだり、そして今までは、あの汲み取り式の厠から汚物を外へ運び出すという、最も過酷で不衛生な仕事まで担ってくれていた人物である。
「お嬢様。お呼びでしょうか?」
「今日から、館の厠の使い方が変わるわ。あなたに確認してほしいの。さあ、開けてみて」
私が厠の扉を指差すと、トマスの顔がさっと青ざめた。
「お、お嬢様……。誠に申し上げにくいのですが、床が温かくなったせいで、今の厠はひどい臭いに包まれております。お嬢様のような高貴な方が近づいてよい場所では……」
「いいから、開けなさい」
私の強い語気に押され、トマスは鼻をつまんだ。
覚悟を決めたように目をぎゅっと閉じ、分厚い木の扉を開け放つ。
……が。
いつまで経っても、あの鼻を突き刺すような悪臭は襲ってこなかった。
「……あれ?」
恐る恐る目を開けたトマスは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
「臭いが……ない? それに、穴が消えて……この、白くて美しい器は一体……?」
彼が見つめる先には、私が土魔法で作った白い便器が据えられていた。
陶器ほど完璧ではないが、表面は滑らかに固めてある。
底には、澄んだ水が静かに張られていた。
その水が、床下から上がってくる臭いを封じている。
「これが新しい水洗厠よ。用を足したら、そこにある取っ手を引きなさい」
私が上部の貯水槽を指差すと、トマスは震える手で取っ手を引いた。
ざあああっ!
「おおおおっ!?」
勢いよく水が流れ落ち、便器の内側を洗いながら、底の管へ吸い込まれていく。
トマスは腰を抜かしそうになりながら、水がすべて下へ消えていく様を、食い入るように見つめた。
そして流れが止まると、便器の底にはまた、静かな水面が残った。
「み、水が勝手に流れて……! それに、流れた後にはまた水が溜まっておりますぞ!?」
「ええ。その水が、臭いが戻ってくるのを防ぐの。流したものは館の外れの密閉槽へ運ばれて、そこで沈ませたり、分解させたり、砂利や砂を通したりして処理するわ」
「処理……」
「ただ外へ捨てるわけではないわ。井戸や川を汚さないよう、場所も流れも管理する。だからトマス、あなたはもう、真冬の中で重い汚物桶を抱えて運び出す必要はないの」
私は、白い便器の縁を軽く叩いた。
「これからあなたに必要なのは、便器を軽く磨くこと。水がきちんと溜まっているか見ること。水の流れが悪くなったり、変な臭いが戻ったりしたら、すぐ知らせること。それだけよ」
そう告げた瞬間、トマスの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ああ……ああぁっ……!」
「えっ、ちょ、トマス!?」
老農夫は、白い便器の前にひれ伏した。
そして、子供のように声を上げて泣き始める。
「私はてっきり、お嬢様がご自身の部屋の暖かさだけを求めておられるのだと……。しかし、違ったのですね」
「え?」
「私のような老いぼれが担っていた、誰も見向きもしない汚れ仕事まで気にかけて、このような美しい魔法の器を与えてくださった……!」
「あ、いや……」
違う。
私のティータイムが臭かったからである。
紅茶の香りを、厠の臭いで台無しにされた怒りで作っただけである。
だが、喉まで出かかったその本音を、私は必死に飲み込んだ。
トマスは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、私の足元にすがりつく。
「この領地では、春先になると、雪解け水に混じった汚物のせいで腹を下す者が後を絶ちませんでした。幼い子や年寄りは、それで命を落とすことも珍しくなかった……」
彼の声は震えていた。
「ですが、この水洗厠と、精霊たちの浄化槽があれば……もう、あのような汚れた水で苦しむ者を減らせるのですね……!」
「……ええ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「すべてを一夜で変えることはできないわ。使い方を守らなければ詰まるし、浄化槽も点検しなければならない。汚泥もいずれ取り出す必要がある」
「はい……!」
「でも、汚物を水源から離し、臭いを封じ、流した先まで管理すれば、今までよりずっと病は減らせるはずよ」
トマスは、また深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます、お嬢様……!」
その姿を見て、私は胸の奥が少しだけ痛んだ。
公衆衛生と感染症の関係。
前世では当たり前のように扱われていた知識が、この辺境では命そのものに直結している。
私にとっては、紅茶と安眠を守るための工事だった。
けれど彼らにとっては、冬と病から家族を守るための奇跡なのだ。
「トマス」
私は、できるだけ落ち着いた声で告げた。
「この厠の使い方を、館の者たちに教えてちょうだい。使ったら流す。水が溜まっていない時は足す。変な臭いがしたら報告する。掃除を怠らない。いいわね?」
「はい。必ず」
「それと、浄化槽の近くで火を使ってはいけないわ。中に悪い空気が溜まることがあるから、覗き込むのも駄目。点検は必ず決められた者が行うこと」
「承知いたしました。命に代えても守ります」
「命に代えなくていいわ。普通に守りなさい」
なぜ辺境の人間は、すぐ命を賭けたがるのか。
その後、私は館だけでなく、まず病兵舎と兵舎の要所にも、同じ水洗厠と簡易浄化槽を少しずつ設置していった。
もちろん、すべてを一気に作ったわけではない。
水源からの距離。
地形の傾き。
雪解け水の流れ。
汚泥の取り出しやすさ。
管理できる人員。
そうした条件を一つずつ確認し、ルークとトマスに使い方と点検方法を叩き込んでいく。
その結果、館と兵舎の悪臭は目に見えて減った。
汚物を運ぶ重労働も少なくなり、春先に多かった腹下しや原因不明の発熱も、少しずつ減っていった。
王都の貴族街すら知らない、辺境式の衛生革命。
それは、私の紅茶を守るために始まった工事から、静かに広がり始めていた。
「ふふふ……。これで今度こそ、臭いにも寒さにも邪魔されない、私の無敵の引きこもり生活が完成したわ……!」
数日後。
自室で優雅に紅茶を啜りながら、私はついに到達した環境に酔いしれていた。
温かい床。
煙くない空気。
臭わない廊下。
清潔な水。
これで、もう私が土木工事のために外へ出る必要はない。
完璧なインフラが、私をあらゆるストレスから守ってくれる。
……はずだった。
バンッ!!
「お、お嬢様!! 大変です!!」
扉を蹴破る勢いで、ルークが飛び込んできた。
私の至福のティータイムは、またしても無惨に引き裂かれる。
「ちょっとルーク! 今度は何よ! 悪臭はもうかなり減ったでしょう!?」
「臭いじゃありません! 金です!!」
「……金?」
ルークは真っ青な顔で叫んだ。
「お嬢様が作ったお風呂、床暖房、水洗厠、浄化槽……全部に、魔石も石材も人手も使いすぎてます! このままだと、領地の予算が完全に底をつきます!!」
「…………は?」
私は、持っていたティーカップを取り落としそうになった。
寒さ。
悪臭。
それらを乗り越えた私に、次に襲いかかってきたのは、最も現実的で、最も逃げ場のない敵。
財政破綻だった。
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