第24話:追放令嬢と見えざる清掃員
「領地の外れには、村の畑や、近くの川がありやす。もし俺たちの汚物をそのまま流したら……下流の土地が病気になっちまうんじゃねえですか?」
排水管の先にある、さらなる問題。
そこまで思考を巡らせたルークの成長ぶりに、私はひそかに感動していた。
その通りだ。
汚物を自分の生活空間から追い出すだけでは、臭いの場所を移しただけにすぎない。
川へ流せば下流の水を汚す。
畑の近くへ染み出せば、作物や井戸に悪影響が出る。
前世の都市でも、汚物と飲み水を分けられなかった時代には、病が何度も人々を襲った。
インフラとは、見えないところまで責任を持って、ようやく完成と言えるのだ。
私はふふっと笑みを深め、ルークに向けて人差し指を立てた。
「安心しなさい、ルーク。私の衛生工事は、流して終わりではないわ」
「後始末まで考えてるんですかい?」
「当然よ。汚水をそのまま川へ流すなんて、三流の仕事ですらないわ」
私は杖の先で床に簡単な図を描いた。
便器。
排水管。
館の外れに作った密閉式の汚水槽。
そして、その先に続く砂利と砂の層。
「下水の終点には、まず密閉した大きな槽を作る。そこへ流れてきた汚水を、いきなり外へ出さず、しばらく留めるの」
「留める……?」
「ええ。まず、重いものは底に沈む。軽いものは上に浮く。水だけが、その中間に残る」
「おお……。混ざったものを、重さで分けるんですね」
「そう。これが最初の分離よ」
私は図の中に、三つの層を描き足した。
上に浮く汚れ。
真ん中の水。
底に溜まる泥のようなもの。
「でも、それだけでは足りない。沈んだ汚れは、そのまま放っておけば臭うし、槽もいっぱいになる。そこで働いてもらうのが、見えざる清掃員たちよ」
「見えざる清掃員……?」
ルークが首を傾げる。
私は図の底の部分を、杖で軽く叩いた。
「この世界には、目に見えないほど小さな生き物が無数にいるの。湿った土にも、水にも、人の腹の中にもね」
「目に見えない、生き物……」
「その中には、空気の少ない場所で汚れを少しずつ分解するものがいる。私は前世で、そういうものを微生物、あるいはバクテリアと呼んでいたわ」
「ばくてりあ……」
「覚えなくてもいいわ。要するに、汚れを食べて分解する小さな働き者よ」
「汚れを、食べる……?」
ルークの顔が、驚きと困惑で固まる。
私は頷き、さらに説明を続けた。
「密閉槽の中では、そうした小さな生き物たちが、沈んだ汚れを時間をかけて分解してくれる。もちろん、すぐに綺麗な水になるわけではない。嫌な臭いのするガスも出るし、底には汚泥も残る」
「お、おでい……?」
「分解しきれずに残る泥のようなものよ。これは定期的に汲み出して、生活用水から離した場所で管理する必要があるわ」
「管理、また管理……!」
「衛生設備は、管理しなければただの臭い箱よ」
私は真顔で言った。
「だから槽には、点検口を作る。汚泥を取り出す口も作る。発生したガスは、館や人のいる場所に戻さず、屋根より高い位置へ逃がす通気管で処理する」
「ガスも出るんですかい?」
「出るわ。だから火気厳禁。中を覗き込むのも駄目。空気の悪い場所へ不用意に入れば、それだけで倒れることもある」
ルークの顔から、さっと血の気が引いた。
「厠の後始末、怖すぎやせんか……?」
「怖いからこそ、構造と手順で危険を減らすのよ」
私はさらに、密閉槽の先に砂利と砂の層を描いた。
「槽で分けた上澄みの水も、そのまま川へは流さない。まずは砂利と砂の層を通す。それから、飲み水の井戸や川から十分に離した場所へ、ゆっくり地面へ染み込ませる」
「地面に……?」
「土は、ただの土ではないわ。細かな粒や、そこに住む小さな生き物たちが、汚れを少しずつ捕まえ、分解してくれる。もちろん万能ではないけれど、いきなり川へ流すよりはずっとましよ」
「じゃあ、井戸の近くに作っちゃ駄目なんですね」
「絶対に駄目。井戸、川、畑、住居。全部から距離を取る。雨で溢れない高さも必要。雪解け水で流れ込まないよう、周りの地形も見る」
ルークは、必死に木板へ書きつけていた。
「汚水槽、点検口、汚泥、ガス、通気管、砂利と砂、井戸から離す……。厠って、こんなに考えることがあるんですね……」
「人間が毎日使うものですもの」
私は肩をすくめた。
「毎日使うものを雑に作れば、毎日苦しむことになるわ」
「お嬢様……」
ルークは、床に描かれた図をじっと見つめていた。
その表情が、次第に真剣なものへ変わっていく。
「つまり、汚物はただの汚物じゃなくて……水と、土と、目に見えない小さな生き物たちの力を借りて、少しずつ自然に戻していくんですね」
「そういうこと」
「すげえ……」
ルークはぽつりと呟いた。
「空気の少ない暗い槽の中で、目に見えない小さなものたちが働いて、汚れを食べて、土に戻す……」
そこで、彼の瞳がかっと見開かれた。
「お嬢様……それって……」
「え?」
ルークは突然、その場に膝をついた。
「伝説の、水と土の精霊じゃないですか!?」
「…………はい?」
あまりにもこの世界らしい言葉に、私の思考が一瞬止まった。
「精霊は、目に見えず、土や水に宿って、世界を巡らせるものだって、村のばあ様が言ってました! お嬢様は、その精霊たちに住む場所を与えて、汚れた水を清めさせるんですね!?」
「いや、精霊というより、微生物というか、バクテリアというか……」
「ばくてりあ!」
ルークは感極まったように声を震わせた。
「水と土の精霊たちに、お嬢様はそんな立派な名まで与えておられるんですね……!」
「違うわ。名前を与えたわけではなくて……」
「すげえ……すげえです、お嬢様! 水を清める砂の精霊、土の中で汚れを食べる精霊、空気の少ない場所を好む精霊……それらをまとめて働かせるなんて!」
「話が大きくなっているわ」
「お嬢様は精霊王だったんですね!」
「違うわ」
私は即答した。
だが、ルークはもう聞いていなかった。
彼は便器と、床に描かれた浄化槽の図と、私を順番に拝んでいる。
「水洗厠に、水封結界。そして今度は、精霊たちの地下神殿……! なんという途方もない御業……!」
「地下神殿ではなく、浄化槽よ」
「じょうかそう……! 精霊神殿の正式名ですね!」
「違うと言っているでしょう」
しかし、訂正する気力が急速に削られていく。
顕微鏡もないこの世界で、微生物の概念を一から正確に説明するのは骨が折れる。
彼らの世界観で一番近い言葉が精霊なら、今はそれで理解の取っかかりにしてもいいかもしれない。
ただし、管理だけは間違えさせてはならない。
「……まあ、目に見えない小さな働き者、という意味では大きく外れてはいないわ」
「やはり精霊!」
「ただし」
私はルークの額を杖の先で軽く押した。
「精霊任せにして放置すれば、ただの臭い汚水溜めになるわ。点検、汲み出し、通気、井戸との距離、砂利層の管理。全部必要よ」
「精霊にも、住みよい家と世話が必要……!」
「その理解でいいわ。たぶん」
ルークは、真剣な顔で何度も頷いた。
「俺、覚えやす。流して終わりじゃない。水の行き先まで見る。井戸と川を守る。精霊……じゃなくて、ばくてりあが働ける場所を整える」
「よろしい」
私は満足げに頷いた。
「では、館の外れに作った密閉槽を本格的に整えるわ。三つに分ける。まず沈殿槽。次に分解槽。最後に砂利と砂を通す処理槽。そこから、井戸と川から離した浸透場所へ流す」
「三つの槽……!」
「それと通気管。点検口。汚泥を取り出す口。雨水が入り込まない蓋。雪解け水が流れ込まない周囲の排水溝。全部作るわ」
「厠ひとつで、また大工事じゃないですか!」
「言わないで」
私は泣きそうな気持ちで杖を握り直した。
私はただ、臭いのしない部屋で紅茶を飲みたかっただけなのだ。
それなのに、気づけば水洗トイレ、水封トラップ、浄化槽、土壌浸透まで作ることになっている。
またしても、私の快適生活はインフラ工事へ姿を変えていた。
けれど、ここまで来て手を抜くわけにはいかない。
臭いは許せない。
水を汚すのも許せない。
私の紅茶に使う水が汚れるなど、絶対にあってはならないのだ。
「行くわよ、ルーク」
「はい、お嬢様!」
「臭いの発生源を封じ、水の行き先まで管理する。これが、本当の衛生設備よ」
悪臭の打破から始まった工事は、いよいよ汚水そのものを扱う段階へ進む。
水と土と、見えない小さな働き者たちの力を借りる、辺境初の簡易浄化施設。
その建設が、今まさに始まろうとしていた。
そして私は、まだ気づいていなかった。
水洗厠と浄化槽がもたらす次なる問題。
すなわち、流すための水をどこから確保するのかという、領地の生命線に関わる難題が、すぐそこまで迫っていることに。
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