第23話:追放令嬢の水封トラップ
「この便器の穴を通じて、排水管の奥の方から、結局『臭い』が上がってきちゃうんじゃないですか……?」
新しく作った白い便器を前に、ルークは眉を寄せてそう言った。
実に真っ当な疑問だった。
便器と排水管が、ただの真っ直ぐな筒でつながっているだけなら、汚物を流せたとしても、その先から臭いが戻ってくる。
場合によっては、虫や小さな獣まで這い上がってくるかもしれない。
素人なら「水で流れた、すごい」で終わるところを、その後の問題まで見ている。
……本当に、育ってきたわね。
私は内心でルークの成長に拍手を送りながら、人差し指を立てた。
「素晴らしい着眼点よ、ルーク。もし配管がただの真っ直ぐな筒なら、あなたの言う通り、ここは悪臭の通り道になってしまうわ」
「やっぱり! じゃあ、どうやって防ぐんですかい? 使うたびに木の蓋をして、重石を乗せるとか……?」
「そんな面倒なこと、私が毎回やるわけないでしょう」
私は即答した。
「何もしなくても、勝手に臭いを止めてくれる形にする。それが、良い設備というものよ」
「勝手に……?」
「ええ。水で塞ぐの」
「水で、塞ぐ?」
ルークが首を傾げる。
私は杖の先で、便器の下に続く床下の配管を示した。
「百聞は一見にしかずね。少し下がっていなさい」
土魔法で床の一部を薄く開き、配管の形が見えるようにする。
完全に床を壊すのではない。
点検口を兼ねた小さな蓋を作り、そこから断面を覗けるようにしただけだ。
「わっ……! 便器の下って、こうなってるんですかい」
「よく見て。便器から伸びる管が、どう曲がっているかしら?」
ルークは床に膝をつき、点検口から配管の形を覗き込んだ。
「……あれ? 真っ直ぐ下に落ちてねえです。途中でぐっと下がって、また少し上がって、それから排水管につながってる……。なんで、わざわざこんな水が溜まりそうな形に?」
「それが狙いよ」
私は貯水槽の取っ手に手をかけた。
「見ていなさい」
取っ手を引く。
ザァッ、と水が便器の内側を流れ、汚れを洗いながら下へ落ちていく。
水は曲がった配管を通り、排水管の奥へ流れていった。
そして流れが止まったあと。
「あっ」
ルークが声を上げた。
「曲がったところに、水が残ってる」
「そう。それが封水よ」
「ふうすい……」
「水で封じる、と書いて封水。管の底に水を残して、臭いの通り道を塞ぐの」
ルークは、点検口の奥を食い入るように見つめた。
「つまり……管の中に、水の蓋ができてるんですね」
「その通り」
私は頷いた。
「排水管の奥で臭いが発生しても、この水が管を塞いでいるから、空気がそのまま戻ってこられない。虫も、簡単には通れない。これを水封トラップというわ」
「水封……トラップ……!」
ルークは震える声でその言葉を繰り返した。
「魔法の壁じゃなくて、ただ管を曲げて水を残すだけで、臭いを止めるんですかい……!」
「ええ。単純でしょう?」
「単純すぎて、逆に怖いくらいです」
「単純で、使う人が何も考えなくても働く。そういう仕組みが一番強いのよ」
私は便器の下を示しながら続けた。
「ただし、弱点もあるわ」
「弱点?」
「水がなくなれば、臭いは戻る」
ルークの目が丸くなる。
「水がなくなるんですかい?」
「長く使わずに放っておけば、水は少しずつ蒸発する。強い流れで一気に水が引っ張られれば、封水が減ることもある。排水管の空気の流れが悪くて圧力が変われば、水が吸い出されることもあるわ」
「水の蓋が、なくなっちまう……」
「そう。だから点検が必要なの。しばらく使っていない厠は水を足す。詰まりがないか見る。変な音がする時は、排水の流れや換気管を確認する」
「換気管も関係あるんですかい?」
「あるわ。排水管の中の空気の逃げ道がないと、水を流した時に管の中の圧力が乱れる。そうすると封水が引っ張られたり、逆に臭気が押し戻されたりすることがある」
「管の中にも、空気の道がいるんですね……!」
「ええ。だから、排水と一緒に臭気を逃がすための通気管も作る。臭いは室内ではなく、屋根より高い位置へ逃がすの」
ルークは両手で頭を抱えた。
「厠ひとつで、便器、排水管、水の蓋、通気管、点検口……どれだけ仕組みがいるんですかい……!」
「厠を甘く見てはいけないわ」
私は真顔で言った。
「人が毎日使うものほど、雑に作ると毎日苦しむことになるのよ」
「説得力がすごいです」
「当然よ。私は今、紅茶を台無しにされて本気で怒っているもの」
「そこなんですね!?」
そこに決まっている。
私はもう一度便器を見下ろした。
水封トラップ。
排水管。
通気管。
点検口。
これで、館の中へ臭いが戻る危険はかなり減る。
もちろん、完璧ではない。
定期的な掃除と水の補充は必要だ。
けれど、ただの穴よりは、はるかにましだ。
「これで、お嬢様の安眠と紅茶を邪魔する臭いは防げるんですね!」
ルークが目を輝かせる。
「館の中に戻ってくる分は、かなり減らせるはずよ」
「かなり?」
「この手の設備に、絶対はないわ。使い方が悪ければ詰まるし、掃除を怠れば臭う。水が切れれば封水も消える。でも、仕組みを理解して管理すれば、防げる問題は多い」
「管理……また管理……」
「そう。インフラとは管理なのよ」
ルークは深く頷いた。
「俺、覚えやす。使ったら流す。しばらく使ってない厠には水を足す。点検口を見る。変な臭いや音がしたら、すぐ確認する」
「よろしい」
私は満足げに頷いた。
だがその時、ルークがふと真剣な顔になった。
「……でも、お嬢様。もう一つ、気になることがありやす」
「何?」
「この水洗厠で流した汚物は、排水管を通って、館の外れの汚水槽へ行くんですよね?」
「ええ」
「だったら、その汚水槽はどうするんですかい? そこに溜めるだけなら、今度は館の外れが臭くなります。もし溢れたり、地下に染みたりしたら……川や井戸の水まで汚れるんじゃねえですか?」
私は思わず、ルークを見つめた。
この子は。
本当に、そこまで考えるようになったのか。
自分の鼻先の臭いだけではない。
便器の先。
排水管の先。
汚水が行き着く場所。
そこまで思考が届いている。
「ルーク」
「は、はい」
「あなた、本当に良い現場監督になってきたわね」
「えっ!? そ、そうですかい?」
「ええ。臭いを部屋から追い出して終わり、では三流よ。汚水をどこへ運び、どう処理し、飲み水からどう隔離するか。そこまで考えて、ようやく衛生設備と言えるわ」
ルークは照れたように頭を掻いた。
「俺はただ、村の連中がまた腹を壊したら嫌だなって思っただけで……」
「それが大事なのよ」
私は杖を握り直した。
「安心しなさい。私も、自分の汚物を他人の土地に押しつけるような雑な仕事はしないわ」
「お嬢様……!」
「水洗厠は、流して終わりではない。むしろ、ここからが本番よ」
私は館の外、下流側に作った密閉式の汚水槽の方角へ目を向けた。
「次は、汚水そのものをどう扱うか。沈殿させ、分け、臭いを逃がし、飲み水を守る。簡易的な浄化施設を作るわ」
悪臭の打破から始まった工事は、いよいよ汚水処理という、本当の公衆衛生へと進もうとしていた。
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