第22話:追放令嬢は匂いも許さない
「くっ……! これは想像以上ね……!」
領主の館の一階の奥。
問題の厠の前に辿り着いた私は、分厚いハンカチで鼻と口を覆いながら呻いた。
隣にいるルークなど、涙目になりながら壁に手をつき、今にも崩れ落ちそうになっている。
「お、お嬢様……これ、臭いとかいう次元じゃねえです……! 目が痛い……!」
「分かっているわ。喋ると余計に吸い込むから、口は閉じていなさい」
問題の厠は、木製の板に穴を開けただけの簡素なものだった。
その下には、ただ深く掘られた縦穴がある。
いわゆる汲み取り式――というより、ほとんど穴を掘って溜めているだけの構造だ。
これまでは、極寒のおかげで中身が半ば凍りつき、臭いも抑え込まれていたのだろう。
しかし、私が館の一部を暖めたことで、厠の周辺や床下の温度も少しずつ上がり始めた。
凍っていたものが緩み、臭いが一気に動き出した。
アンモニアのような鼻を刺す臭い。
腐ったものが混じったような重い臭気。
さらに、暖かい空気は上へ向かう。
一階の奥で生まれた悪臭が、廊下や階段を通って二階へ吸い上げられていたのだ。
「私の床暖房が、眠っていた臭いを叩き起こしたわけね……」
「お嬢様のせい、なんですかい……?」
「そうよ。だから私が責任を持って叩き潰すの」
私はハンカチを押さえたまま、杖を構えた。
「まず、この穴を生活空間から切り離す。臭いの発生源を、部屋の中にむき出しで置いておくなんて論外よ」
「どうするんですかい?」
「便器を作るわ」
「べんき……?」
「汚物を受けて、すぐ下水へ流すための器よ。ただの穴とは違う。表面が滑らかで、汚れが染み込みにくいものにする」
私は床へ杖を向けた。
「《アース・クリエイト》」
魔力が床下へ流れ込み、石材と土が形を変えていく。
ただの石では駄目だ。
石は水を吸う。
表面に細かな凹凸があれば、汚れが残り、臭いの原因になる。
だから表面をできる限り緻密に固め、さらにガラス質の薄い層で覆う。
前世で見慣れた陶器ほど完璧ではない。
それでも、木の板と穴だけの厠よりは、はるかに洗いやすい。
ボゴッ、と低い音を立てて、床から滑らかな白っぽい器がせり出した。
丸みを帯びた縁。
奥へ向かって細くなる流れ道。
汚れが溜まりにくいよう、内側にはできるだけ角を作らない。
「お、おお……!? なんですかい、この白くてつるつるした石は……!」
「陶器に近いものよ。汚れが染み込みにくく、水で流しやすい。厠の第一歩は、掃除できる形にすること」
「掃除できる形……」
「そう。洗えないものは、いずれ必ず臭うわ」
私は便器の下へ、さらに魔力を伸ばした。
「次は、流した汚物を運ぶ道を作る」
ズズ……ッ。
床下の土が静かに動く。
館の外壁側へ向けて、太めの排水管を形成していく。
内側は滑らかに。
途中で急に曲げない。
掃除できるよう、必要な場所には小さな点検口を設ける。
「いいこと、ルーク。ただ管をつなげればいいわけじゃないの」
「管にも決まりがあるんですかい?」
「あるわ。水と汚物を運ぶには、勾配が必要よ」
「こうばい……」
「傾きのこと。平らすぎると流れずに詰まる。逆に急すぎると水だけが先に流れて、重い汚物が管の中に残ることがある」
ルークは嫌そうに顔をしかめた。
「残ったら……」
「臭う。詰まる。最悪、逆流する」
「最悪すぎやす……!」
「だから、ゆるく、途切れなく、掃除できるように作る。これが大事」
私は排水管を、館の外れへ向けて伸ばした。
ただし、川や井戸へは近づけない。
飲み水を汚せば、臭いどころでは済まない。
病が広がる。
私が目指したのは、館から離れた下流側の荒れ地。
そこに、厚い石で囲った密閉式の汚水槽を作る。
中で重いものを沈め、上澄みだけをさらに別の処理場所へ送る。
あくまで仮の仕組みだ。
本格的な下水道には、もっと広い計画と維持管理が必要になる。
だが、今はまず、館の中に悪臭が戻らないようにすることが最優先だった。
「飲み水の水源からは離す。雨で溢れない高さにする。蓋をして、臭いは換気管で屋根より高い位置へ逃がす。汲み出しや点検ができる口も作る」
「お嬢様……厠ひとつで、そこまで考えるんですかい?」
「厠だからこそよ」
私はきっぱりと言った。
「水と汚物の扱いを間違えた町は、臭いだけでは済まない。病で人が死ぬわ」
ルークが、ごくりと喉を鳴らした。
「お嬢様の紅茶を邪魔した臭い、そんなに危ねえもんだったんですね……」
「私の紅茶を邪魔した時点で重罪よ」
「そっちが先なんですね!?」
当然である。
私はさらに、便器の上方へ小さな貯水槽を作った。
館の浄水とは別に、生活用の水を引き込む管をつなぐ。
飲み水用とは分ける。
ここを混ぜると、後で必ずひどい目に遭う。
「次は洗浄用の水よ。汚物を動かすには、水の勢いが必要になる」
「勢い?」
「高い位置に水を溜める。そこから一気に落とす。重力で水を流すの」
「上から落とすだけで、そんなに違うんですかい?」
「違うわ。水は高いところから低いところへ落ちる時、勢いを持つ。その勢いで便器の中を洗い、汚物を管へ押し流すの」
私は貯水槽から便器へ向かう管をつなぎ、取っ手を作った。
取っ手を引けば、槽の中の水が一気に落ちる。
便器の内側を回るように流れ、排水管へ押し出す。
「これが水洗の基本よ」
「す、水で洗って流すから、水洗……!」
ルークが目を輝かせる。
「すげえ……! 穴に落とすんじゃなく、水で遠くへ運ぶんですね!」
「そう。ただし、水を使えばいいというものでもない。水が少なすぎれば流れない。多すぎれば汚水槽がすぐいっぱいになる。だから、使う量も決める必要があるわ」
「水にも管理がいるんですかい……!」
「全部に管理がいるのよ」
私は完成した便器と貯水槽、排水管のつながりを確認した。
汲み取り穴は塞がれた。
便器は排水管につながった。
汚水は館の外れの密閉槽へ向かう。
これで、少なくとも厠の穴から臭いがむき出しで上がることはない。
「よし。これで一段落ね」
「す、すげえ……! さっきより臭いがかなり弱くなってきやした!」
ルークは感動のあまり、新しい便器の周りをぐるぐる回った。
「白くてつるつるで、水で流せる厠……! これなら、掃除も楽そうです!」
「掃除は毎日よ。使ったら水で流す。便器の周りも拭く。点検口は定期的に見る。汚水槽も溜まり具合を確認すること」
「やること多いですね!?」
「衛生とは、毎日の地味な管理で成り立つものよ」
私がそう言って踵を返そうとした、その時だった。
「……あれ? お嬢様、ちょっと待ってくだせえ」
ルークが便器の底を覗き込みながら、眉をひそめた。
「この綺麗な便器、さっき作った排水管に直接つながってるんですよね?」
「ええ」
「ということはですよ……管の奥から、結局また臭いが戻ってきたりしませんか?」
私は思わず、ルークを見た。
そして、心の中で拍手を送る。
いい。
実にいい。
この子は、本当に現場を見る目が育ってきている。
便器と下水管がただの一本の筒でつながっていれば、当然、臭いや虫は管を通って戻ってくる。
それを防がなければ、水洗化した意味が半分消える。
「いい質問ね、ルーク」
「お嬢様がいい質問って言うと、また何か始まるやつですね」
「その通りよ」
私は不敵に笑い、杖を構え直した。
「臭いの逆流を防ぐための、物理の結界を見せてあげるわ」
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