第21話:追放令嬢のティータイムと、見えざる敵
「……ふふっ。完璧だわ。これこそが、私の求めていた生活よ」
窓の外では、相変わらず北風が唸り、雪が景色を白く塗り潰している。
けれど、私の自室だけは別世界だった。
床下に作ったハイポカウスト式の床暖房は、今日も静かに働いている。
足元の石床からじんわりと伝わる温もりが、部屋全体を春先の陽だまりのように包んでいた。
私は薄手で肌触りの良い部屋着に身を包み、ふかふかの長椅子に深く腰を沈めている。
手元には、ルークが淹れてくれた温かい紅茶。
湯気とともに、微かにベルガモットの香りが漂っていた。
病兵舎の試験施工も、ひとまずルークに任せられるところまで進んだ。
レオンハルト様たちは、凍傷の恐怖から少しでも兵を守れると大喜び。
そして何より、私はこうして暖かい部屋でゴロゴロしていられる。
誰にも文句を言われず。
過酷な書類仕事や現場監督からも、少しだけ距離を置ける。
前世で過労死するまで働き続けた私が、ようやく手に入れた至福の時間である。
私は目を細め、優雅な手つきでティーカップを持ち上げた。
「あぁ、美味しい……。これでもう少しお茶菓子が充実していれば、言うことはないのだけれど――」
ぴたり。
ティーカップの縁が唇に触れる直前。
私は、ある異変に気づいて動きを止めた。
「……ん?」
カップを下ろし、周囲の匂いを確かめる。
ベルガモットの香りに混じって、何か。
ひどく不快な、鼻をつくような臭いが漂ってきた気がしたのだ。
「気のせい、かしら……?」
首を傾げ、もう一度紅茶を飲もうとした瞬間。
もわぁ……。
「……っ!?」
今度は、気のせいではなかった。
微かな刺激臭は、あっという間にはっきりとした悪臭へ変わった。
アンモニアのような鼻を刺す臭い。
そして、何かが腐ったような、腹の底がぞわりとする臭気。
それが暖かな部屋の空気に混ざり、容赦なく私の顔面へ襲いかかってきた。
「なっ、何よこれ!? どこから……っ、げほっ!」
私はむせ返りながらティーカップを置き、鼻と口をハンカチで覆った。
匂いの元を探るように視線を巡らせる。
どうやら、廊下へ続く分厚い木の扉の隙間から、その見えない敵がじわじわと這い込んできているらしい。
「ルーク! ルーク、いる!?」
私が声を張り上げると、ばたばたという足音が近づいてきた。
すぐに扉が開き、ルークが飛び込んでくる。
彼もまた、顔をしかめ、手ぬぐいで鼻を覆っていた。
「お嬢様! だ、大丈夫ですか!? 館の中が、とんでもねえ臭いで……!」
「どういうことなの!? 一体何が起きているのよ!」
ルークは涙目で首を横に振った。
「分かりやせん! ただ、一階の奥にある厠の方から、すげえ臭いが上がってきていて……! 換気しようにも、外は雪と風が強すぎて、窓を開けたら館中が凍っちまいます!」
厠。
つまり、トイレだ。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、前世の衛生設備の知識が最悪の形でつながった。
「……しまったわ」
「お、お嬢様?」
「完全に見落としていた……!」
私は額に手を当てた。
この世界の厠は、穴を掘って排泄物を溜めるだけの汲み取り式である。
今までは、極寒のせいで汚物が半ば凍りつき、臭いも動きも抑えられていた。
だが、私が自室や館の一部に床暖房を入れ、廊下まわりまで少しずつ温まり始めたことで、今まで眠っていた臭気が一気に顔を出したのだ。
「温度が上がると、臭いの元になる成分は空気中に出やすくなる。凍って動かなかった汚物も、少しずつ緩み、分解が進む。そこからアンモニアや腐敗臭が上がってくるのよ」
「つまり……寒さで封じられていた臭いが、床暖房で復活したってことですかい?」
「そういうことよ!」
しかも、問題はそれだけではない。
暖められた空気は上へ向かう。
一階の厠付近で発生した臭気が、廊下や階段の空気の流れに乗って、二階へ引き上げられている。
いわゆる煙突効果だ。
暖かい館を作った結果、臭いまで上へ運ぶ通り道を作ってしまったのである。
「そ、そんな……! じゃあ、お嬢様の床暖房が、館を巨大な厠に変えちまったってことですか!?」
「言い方!」
私は悲鳴を上げた。
しかし、否定しきれないのが腹立たしい。
せっかくの極上ティータイムが。
私が死ぬ気で作った、完璧な安眠と堕落の環境が。
目に見えない悪臭によって、根底から破壊されようとしている。
「……許せない」
私はハンカチ越しに奥歯を噛み締めた。
前世の建設現場でも、仮設トイレの臭いには散々悩まされた。
あの臭いが風向きひとつで休憩所へ流れ込んできた時の絶望。
昼食中に漂ってきた時の怒り。
そして今。
ようやく手に入れたはずの私の楽園に、同じ敵が侵入してきたのである。
許せるはずがない。
「ルーク。一階へ行くわ」
「お嬢様!? その格好でですかい!?」
私は部屋着の上からガウンを引っかけ、杖を掴んで立ち上がった。
「今すぐ、この悪臭の侵入経路を特定する。臭いは根性では消えない。発生源を封じ、空気の流れを制御し、汚物を生活空間から隔離する必要があるわ」
「発生源を封じて、空気の流れを……」
「まずは厠の穴を密閉する。臭気を室内ではなく屋根より高い位置へ逃がす換気管を作る。それから、可能なら水で臭いを封じる仕組みも入れる」
「水で臭いを封じるんですかい?」
「ええ。水封トラップよ。水の膜で、穴の奥の臭いが室内へ戻るのを防ぐの」
「み、水で臭いを塞ぐ……!」
ルークの目が驚きに見開かれる。
私はさらに続けた。
「汚物をただ近くの穴に溜めるのも駄目。生活空間から離した密閉槽へ流すか、地下の排水路で運ぶ必要がある。ただし、飲み水の水源には絶対に近づけない。そこを間違えると、今度は病が広がるわ」
「お嬢様……それ、また大工事じゃ……」
「分かっているわよ!」
私は泣きたい気持ちで叫んだ。
また仕事だ。
また工事だ。
またインフラだ。
けれど、臭いだけは無理である。
睡眠の敵。
紅茶の敵。
ニート生活の敵。
それが悪臭だ。
「私の快適な生活を脅かす見えざる敵は、元・土木エンジニアの誇りにかけて、今日この場で叩き潰すわ」
「お、お嬢様……!」
「行くわよ、ルーク!」
「はいっ!」
温かい部屋に忍び寄った悲劇を前に、公衆衛生の概念すらろくにないこの辺境で、私の怒りに任せた新たな工事が始まろうとしていた。
水で臭いを封じ、汚物を生活空間から遠ざける。
簡易水洗と地下排水路。
その歴史的な第一歩が、いま悪臭とともに幕を開けたのだった。
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