第2話:お風呂場作りは計画的に(前編)
「……はぁ。やっと、人間らしい飲み物にありつけたわ」
ボロボロの領主の館。
隙間風が吹き込む応接室で、私は欠けたティーカップを両手で包み込み、心の底から安堵の息を吐いた。
川沿いに作った簡易浄水設備を通し、一度煮沸した水。
泥臭さは、気にならない程度まで抜けていた。
持参したダージリンの茶葉が湯の中で開くと、王城で飲んでいたものにも劣らない、ふくよかな香りが立ち上る。
「これよ、これ。この一杯のために私は追放されたのよ」
美味しいお茶はある。
あとは、泥と埃にまみれた体を温かいお湯で洗い流し、ふかふかのベッドで昼過ぎまで眠るだけ。
完璧なニート生活の始まりである。
「……ねえ。お風呂の準備はまだかしら?」
私は、部屋の隅でおろおろしている館付きの老婆に声をかけた。
村から働きに来ているという彼女は、先ほどからずっと、私の泥だらけのドレスと床を交互に見ている。
無理もない。
土木工事のせいで、私のドレスは泥と砂で見る影もなくなっていた。
一刻も早くお湯に浸かりたい。
しかし老婆は、困ったように眉尻を下げた。
「お風呂、でございますか? ……お嬢様。この辺境には、お湯を張るような立派な湯船などございやせん」
「は?」
「体を清めるのでしたら、裏庭に水浴び用の木桶がございます。先ほどルークが汲んでくれた綺麗な水が入っておりますので、そちらで……」
裏庭。
木桶。
水浴び。
その三つの言葉を聞いた瞬間、私の脳内で危険察知アラームがけたたましく鳴り響いた。
窓の外を見れば、北の最果て特有の重く冷たい雲が空を覆っている。
気温は、間違いなく一桁だ。
そんな極寒の屋外で、冷たい水を頭から被る?
冗談じゃない。
一発で風邪を引く。
下手をすれば、そのまま棺桶行きである。
「……お湯を沸かすことはできないの?」
「魔物が出るせいで、森へ薪を取りに行くのも命がけでして。村には薪の蓄えがほとんどねえんです。冬を越すだけでも精一杯で、水浴び用のお湯を沸かす余裕なんて、とても……」
絶望だった。
このドロドロの体のまま、隙間風の吹く冷たいベッドで寝ろというのか。
そんなもの、私の思い描いていたスローライフとは程遠い。
ただの「劣悪な現場のタコ部屋」ではないか。
「……許せない」
私は空になったティーカップを置き、ドレスの裾を強く握りしめた。
私の生存権と、清潔で快適なサボり環境に対する重大な侵害だ。
このインフラの欠如は、今すぐ是正しなければならない。
「私専用の完全個室バスルームを施工する!」
私は再び現場監督の顔つきになり、裏庭へと続く扉を勢いよく開け放った。
◆ ◆ ◆
裏庭に出た私は、冷たい風に身を震わせながら、地形の傾斜と、先ほど引いてきた水路の位置関係を確認した。
水は確保できている。
問題は、どうやって効率よく温めるか。
そして、どうやって湯を無駄にしないかだ。
「お嬢様?」
私が地面を睨みつけていると、レオンハルトが怪訝な顔で近づいてきた。
辺境の兵を率いるこの領主は、先ほどから私を妙に丁重に扱おうとしている。
その後ろには、私を『奇跡の聖女』と崇め始めた貧農の青年・ルークが、目をきらきらさせながら付き従っていた。
「どうされた? そのような泥だらけのドレスで出歩かれては、体を冷やします」
「辺境伯様。当領地における給湯および入浴設備の欠如は、公衆衛生上、見過ごせない問題です。直ちに建設工事を開始します」
私がそう宣言すると、レオンハルトは眉間にしわを寄せた。
「お言葉ですが、ヴィクトリア様。先ほどの水の確保は見事でした。しかし、風呂を作るには大量の薪が必要になります。この地で、湯を沸かすためだけに貴重な薪を使うわけにはいきません」
「そうですよぉ、お嬢様!」
ルークも慌てて頷いた。
「村の連中も、体を拭くときは冷たい水で我慢してやす。薪は冬を越すための命綱ですからね!」
なるほど。
彼らの言い分はもっともだ。
限られた薪を、個人の入浴という贅沢に使うわけにはいかない。
だが、私は前世で過労死したゼネコンのエンジニアである。
燃料が足りないなら、燃料を無駄にしない仕組みを作ればいい。
人手が足りないなら、人が張り付かなくても動く仕組みにすればいい。
それだけの話だ。
私はふふっと笑い、ルークとレオンハルトに向けて人差し指を立てた。
「誰が、薪を燃やすと言ったかしら?」
「え……?」
「薪のように貴重な燃料は使わないわ。私が作るのは、ポンプも人力も使わず、熱と高低差だけで湯を回す自然循環式の給湯設備よ」
レオンハルトの眉がぴくりと動いた。
「ポンプも人力も使わずに、湯を回す……? そんなことが可能なのか」
「可能よ。温められた水は軽くなって上へ行く。冷めた水は重くなって下へ戻る。その流れを利用するの」
私は地面に枝で簡単な図を描いた。
下に熱源。
その上に湯を温める槽。
さらに高い位置に湯を溜める槽。
そこから浴槽へ湯を流し、冷めた水は下へ戻す。
細かい調整は必要だが、考え方は単純だ。
「魔法陣ではありません。ただの物理法則です」
「物理……?」
「覚えなくて結構。ルーク、村の倉庫に火の魔石はあるかしら? 暖炉の火種に使うような、下級品で構わないわ」
「は、はい! 魔石なら、魔物から採れたクズ石が山ほど転がってやすが……」
「上等よ」
火の魔石を熱源に使い、石造りの管で湯を巡らせる。
浴槽は完全個室。
排水は別の沈殿槽へ逃がし、汚水が飲み水に混ざらないようにする。
ついでに脱衣所も作る。
できれば床暖房も欲しい。
「私の、私による、私のための至高のバスルームを、今ここに出現させてあげる!」
絶対に働きすぎたくない元社畜令嬢による、完全私欲のお風呂場建設プロジェクト。
その幕が、今まさに上がろうとしていた。
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