第1話:悪役令嬢は泥水をすすらない
「ヴィクトリア・アークライト! 君のような情け知らずの女は、次期王妃にふさわしくない!」
王城の華やかな大広間。
王太子アーサーの芝居がかった声が、磨き上げられた床に響き渡った。
「君のその薄汚い帳簿とともに、北の最果てへ永久追放してやる! そこで泥にまみれて一生を終えるがいい!」
彼の腕の中では、男爵令嬢アリシアが小さく身を縮めている。
「ヴィクトリア様……お辛いですよね。でも、辺境に行かれても、『人を愛する心』だけは忘れないでくださいね」
可憐な顔に同情を浮かべる彼女を見て、周囲の貴族たちはくすくすと笑った。
私は令嬢らしい微笑みを口元に浮かべる。
そして、ドレスの裾を軽く摘み、優雅に一礼した。
「謹んで、王命をお受けいたしますわ、殿下」
――よっしゃあああああああああッ!!
内心の私は、今にもドレスを脱ぎ捨てて小躍りしたいほどの歓喜に包まれていた。
追放?
辺境で一生を終える?
上等じゃないか。
私の前世は、現代日本のゼネコンで働く都市計画のプロジェクトマネージャーだった。
終わらない会議。削られる予算。連日の徹夜。
最後は過酷な現場のプレハブ小屋で過労死するという、絵に描いたようなブラック労働の犠牲者である。
だからこそ、このファンタジー世界に公爵令嬢として転生した時、私は心に固く誓った。
――もう二度と、働きすぎない。
しかし現実は甘くなかった。
無能な王族の尻拭いとして、膨大な国家予算の計算やら、インフラ整備の計画やらを、ほとんど無給同然で押し付けられていたのだ。
私の夢――完全週休七日のニート生活は、ずっと遠のいたままだった。
だが、それも今日で終わり。
辺境に行けば、うるさい予算委員会もない。
王都の茶会もない。
くだらない根回しもない。
きっと、誰にも邪魔されず、ふかふかのベッドで昼まで眠り、美味しい紅茶を飲むだけの生活が待っている。
そう信じていた。
◆ ◆ ◆
「……と、思っていた時期が私にもありました」
数週間後。
馬車に揺られ、ようやく辿り着いた北の最果て――黒曜辺境伯領。
その中心にある、名ばかりの「領主の館」の前に立ち、私は深くため息を吐いた。
「寒い。臭い。そして……汚い」
館は、隙間風だらけの石造り。
周囲には、やせ細った領民たちが身を寄せ合う、ボロボロの集落が広がっていた。
出迎えたのは、血と泥の匂いが染み付いた黒い鎧の青年。
この地の領主であり、王都から私の監視役も兼ねるよう命じられているらしい辺境伯、レオンハルトだ。
「ここは王都の温室じゃない」
レオンハルトは私を見下ろし、低い声で言った。
「ドレスを汚したくないなら、その屋敷から一歩も出るな。……俺たちは魔物の相手で手いっぱいだ。あんたの我儘に付き合っている暇はない」
「……一つ質問があります、辺境伯様。お風呂はどこですか?」
「は?」
「温かいお湯の出る、清潔な浴槽です。あと、紅茶を淹れるための浄水設備も」
「ふざけているのか? この村の井戸は枯れかけだ。水が飲みたければ、そこの川から汲んでこい。泥が混じっていても、ここではそれが普通だ」
泥水。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
こんな水で淹れたお茶など、一口たりとも飲めない。
お風呂にも入れず、隙間風の吹き込む冷たいベッドで眠る?
そんなもの、私の思い描いていたスローライフとは程遠い。
ただの「劣悪な現場のタコ部屋」ではないか。
「……許せない」
「あ?」
「こんな非合理的な生活環境、私の生存権とスローライフに対する重大な侵害です。直ちに改善作業へ移行します」
「おい、どこへ行く気だ、お前……!」
制止するレオンハルトを無視して、私は歩き出した。
貴族令嬢としての仮面を捨て、前世の「現場監督」の顔へと切り替える。
転生した時、神様からついでのように授けられた基礎的な魔法の能力。
今まで目立たないよう隠してきたが、重機のないこの世界でインフラを整えるには、これ以上ない力だった。
私が向かったのは、村の近くを流れる濁った川。
その川辺では、ボロボロの服を着た貧農の青年――ルークが、泥混じりの水を桶に汲もうとしていた。
「君、そこをどきなさい。安全基準を満たしていない水質です」
「えっ? あ、あんた、王都から来たお姫様……? どけって、でも、この水を飲まねえと妹が……」
「飲むしかない状況なのは理解しました。ですが、このままでは腹を壊す人間が増えます。下がって」
私は両手を地面についた。
脳内に展開するのは、十九世紀のロンドンでも使われていた緩速ろ過を参考にした、簡易浄水設備の設計図。
本来なら、ろ過層は時間をかけて育てる必要がある。
だが今は、泥と臭いを落とし、飲める水に近づけることが最優先だ。
「《アース・クリエイト》」
ドゴォォォォン!!
地鳴りとともに、川沿いの斜面へ巨大なすり鉢状の沈殿池が形成された。
私は続けて土魔法で地面を掘り下げ、石造りの槽をいくつも組み上げていく。
ただ水を出して終わり、などという雑な魔法は使わない。
私が欲しいのは、泥臭さが抜けた、紅茶に使える清潔な水だ。
「お、おい! 何してんだ!?」
「静かに。今、ろ過池の層を作っています。下から大きな石、砂利、細かい砂……よし。中間に焼き木炭の層を挟んで、臭いと色を落とします」
「は……? も、木炭? 砂……?」
ルークが尻餅をついて唖然とする中、私は川の水を上段の沈殿池へ引き込んだ。
水は高いところから低いところへ流れる。
その当たり前の流れを利用し、沈殿池からろ過槽へ、ろ過槽から貯水槽へとつながる石管を地中に通していく。
最後に、広場の水汲み場へつながる管を固定した。
「よし。勾配は問題なし。貯水槽の高さも足りていますね。バルブ、開栓」
村の広場に設置した石造りの水汲み場。
私がそのバルブを捻ると――。
ゴァァァァァァッ!!
勢いよく飛び出したのは、泥などほとんど混ざっていない、透き通った冷たい水だった。
「な……っ!?」
駆けつけてきたレオンハルトが、その水を見て息を呑む。
一番近くにいたルークは、恐る恐る水を両手で掬い、口に含んだ。
「……あ、甘い……」
ルークの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「泥の味がしねえ……腐った匂いもしねえ……こんな、こんな綺麗な水……初めてだ……」
「濁りと臭いはかなり抜けたはずです。煮沸すれば、さらに安全性は上がります。これでようやく、ダージリンが飲めますね」
私がほっと一息ついていると、ルークは泥だらけの地面に這いつくばった。
そして、私に向かって号泣しながら祈り始める。
「お嬢様……! お嬢様は、俺たちが泥水で腹を下して死んでいくのを見過ごせなくて、ご自分の手を泥に染めてまで、この村に命の水をくださったんだ……! 奇跡だ、聖女様の奇跡だぁっ!!」
「……はい?」
いや、違う。
私はただ、自分が美味しい紅茶を飲みたかっただけだ。
しかし、私の困惑などお構いなしに、今度はレオンハルトが水汲み場と川沿いの設備を見比べていた。
「……魔法で水を出したわけじゃないのか」
彼は低く呟いた。
「川の水を溜めて、汚れを沈めて、砂と炭を通している。しかも、坂の高さだけで水をここまで流しているのか……」
レオンハルトの顔つきが変わった。
「これなら、魔力のある者がいなくても使える。水場まで行く兵を減らせる。腹を壊して寝込む者も減る。野営地にも応用できるかもしれない」
彼は、私に向かって深く頭を下げた。
「王都の連中は、この価値を何も分かっていなかったんだな。ヴィクトリア様、あなたは辺境の兵站を変えられる方だ」
「……あの、辺境伯様?」
「この水の恩、必ず返す。辺境の兵を代表して誓おう」
「いや、ですから……」
私はただ、お風呂に入って、昼過ぎまで寝ていたいだけなのだ。
しかし、涙目で私を拝むルークと、すっかり何かを勘違いしたレオンハルトの顔を見て、私はそっと目を逸らした。
……まあいいか。
これで安全な水は確保できた。
今日の夕飯の準備は彼らに丸投げして、私はさっさと寝よう。
絶対に働きたくない元社畜令嬢が、己のスローライフ欲しさだけに世界を救ってしまう伝説。
その幕が、いま静かに――そして盛大な勘違いとともに、上がったのだった。
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