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第17話:悪役令嬢の私室は、越冬要塞の基盤となる

「この領地で、寒さと煙に震えながら夜を越す人を、少しでも減らす。私が作ったものが、その役に立つなら……使える形にしていきましょう」


老農夫トマスの涙にほだされ、ついそんなことを口にしてしまった直後だった。


「――おおおおおっ!!」


バンッ!!


凄まじい音を立てて、私室の重い扉が開いた。


「ひゃっ!?」


あまりの勢いに、私は素っ頓狂な悲鳴を上げて飛び上がる。


振り返ると、そこには黒曜辺境伯レオンハルトが立っていた。


雪のついた外套をまとったまま、目を見開き、拳を震わせている。


その頬には、トマスに負けないほどの涙が伝っていた。


「れ、レオンハルト様!? いつからそこに……!?」


「トマス殿が、この床に触れて泣き崩れたあたりからです!」


「十分聞いているじゃないの!」


思わず声が出た。


つまり彼は、トマスの過去の話も、私が勢いで放った「寒さに震えさせない」宣言も、しっかり聞いていたということだ。


「申し訳ありません、ヴィクトリア様。王都からの追加書類をお渡ししようと参ったのですが、扉の向こうからトマス殿の泣き声が聞こえまして……」


レオンハルトは、ぐっと奥歯を噛みしめる。


「退くことができませんでした」


「そこは退いてください」


私の抗議は、彼には届いていないようだった。


レオンハルトは部屋の中央まで歩み寄ると、トマスの隣に並び、その場に勢いよく片膝をついた。


ドンッ、と温かな石床が重く鳴る。


「この床……本当に、暖かい」


彼は革手袋を外し、素手で床に触れた。


そして、壁、窓、使われていない暖炉へと視線を巡らせる。


「暖炉には火がない。煙の臭いもない。だが、部屋全体が下から温められている。……なるほど。火元は室外。排気は壁の煙道から外へ。部屋には熱だけを伝える仕組みか」


「ええ、まあ……」


「これほどのものを、たった一室のためだけに?」


「たった一室のためです」


私は即答した。


「私の安眠のためです」


しかし、レオンハルトの瞳には、もう何か危険な光が宿っていた。


「ヴィクトリア様。貴女は先ほど、トマス殿に仰った。寒さと煙に震えながら夜を越す者を、少しでも減らす、と」


「それは、その場の空気に流されてつい……」


「分かっております!」


「分かっていないわ」


「貴女はいつもそうだ。自分のためだとおっしゃりながら、その手で辺境の命を救う道を作ってしまう」


違う。


違うのだ。


私はただ、冷たい床で眠れなかっただけである。


顔に隙間風が当たるのが嫌だっただけである。


寒すぎる寝室を、人間が眠れる部屋にしたかっただけである。


しかし、レオンハルトはすでに止まらなかった。


「この辺境で、冬の敵は魔物だけではありません。むしろ、寒さこそが最も多く兵と民を削ってきた」


彼の声が低く、重くなる。


「兵舎で暖炉を焚けば、火の前にいる者だけが暑く、端の寝台は凍える。煙突の流れが悪ければ煙が逆流する。隙間を塞げば空気が悪くなり、窓を開ければ熱が逃げる。トマス殿の話は、決して珍しい悲劇ではありません」


トマスが、涙で濡れた顔を伏せた。


レオンハルトは床を見つめたまま続ける。


「だが、この床暖房は違う。火を寝室の中で燃やさず、排気を室内に入れない。床から部屋全体を温められる。もちろん換気や煙道の点検は必要でしょう。しかし、少なくとも古い暖炉だけに頼るより、はるかに安全に眠れる」


「……そこは、まあ、そうですね」


技術的には正しい。


そこだけは認めざるを得ない。


「さらに、兵舎にも応用できる」


「来た」


「え?」


「いえ、何でもありません」


レオンハルトは立ち上がり、拳を握りしめた。


「冬の夜、兵士が凍えずに眠れる。凍傷の危険が減る。睡眠が取れれば、翌日の警備も討伐も安定する。煙の量も薪の消費も減らせるなら、魔物に位置を悟られる危険も多少は抑えられる」


「多少は、ですよ。煙が完全に消えるわけではありません」


「承知しています。だからこそ、きちんと設計しなければならない」


嫌な流れだった。


非常に嫌な流れだった。


レオンハルトは、きらきらとした目で私を見つめる。


「ヴィクトリア様。これは単なる暖房ではありません。辺境の冬を越えるための、命を守る設備です」


「私の寝室用です」


「辺境全体の越冬能力を底上げする基盤です」


「私の二度寝用です」


「兵の睡眠環境が改善されれば、守備隊の生存率も士気も上がります」


「私の睡眠環境です」


「やはり貴女は、湯だけでなく、眠りまでも辺境に与えようとしておられるのですね……!」


「人の話を聞いて」


駄目だった。


完全に駄目だった。


お風呂の時と同じである。


私が「自分のため」と言えば言うほど、彼らの中では「恩を着せないための照れ隠し」に変換されていく。


私の頭の中で、警報が鳴り響いた。


このままでは、また仕事になる。


確実に仕事になる。


「レオンハルト様、落ち着いてください。これは試作です。まだ私の部屋で動かしたばかりですし、煙道の点検方法も、火の魔石の消費量も、床が熱くなりすぎないかも、きちんと確認しなければなりません」


「つまり、検証すれば兵舎にも導入できるのですね!」


「なぜ前向きに受け取るのですか!」


レオンハルトは、扉の外へ向かって大声を張り上げた。


「ルーク!」


「は、はいぃぃっ!」


廊下からルークの声が返ってくる。


どうやら彼も、しっかり扉の外にいたらしい。


「ただちに黒曜騎士団の各小隊長を集めろ! まずは病兵舎、次に負傷兵の宿舎、最後に一般兵舎だ! 床暖房導入に向けた調査会議を開く!」


「承知しましたぁぁっ!」


「待ちなさい!」


私は慌てて声を上げた。


「全兵舎にいきなり導入なんて無理です! まずは一部屋。せめて一棟。煙道の漏れ確認、熱源室の管理、灰の掃除、床温の確認、火の魔石の補給手順。全部決めないと危険です!」


「さすがです、ヴィクトリア様!」


レオンハルトが感動したように叫ぶ。


「導入前に、そこまで細かな運用基準を見据えておられるとは!」


「違うわ! やると言っているわけではなく、危ないと言っているの!」


「危険を理解した上で進める。それこそが真の指揮官、いや、真の技術者の姿……!」


「都合よく聞かないで!」


だが、もう遅かった。


ルークは廊下を駆け出している。


トマスは床に手をついたまま、涙でぐしゃぐしゃの顔で私を拝んでいる。


レオンハルトは、完全に作戦開始前の将軍の顔になっている。


「ヴィクトリア様」


彼は深く頭を下げた。


「資材も人手も、こちらで用意いたします。貴女には設計と監督をお願いしたい。もちろん、まずは病兵舎の一室からで構いません」


「構いません、ではないのよ……」


その言葉の意味を、私は嫌というほど理解していた。


魔法で床下空間を作り、煙道を通し、熱源室を置き、排気と火力と床温を管理できる人間。


この領地に、そんな人間は一人しかいない。


私である。


「明日、まずは現場調査から始めましょう」


レオンハルトの声は、希望に満ちていた。


「病兵舎の子細をお見せします。凍傷の兵、長く咳を患っている兵、眠れぬ夜を過ごしてきた者たち……きっと、この床の温もりが救いになります」


私は温かな石床の上で、血の気が引いていくのを感じた。


ポカポカの部屋。


完璧な二度寝環境。


ついに手に入れたはずの、私だけの引きこもり空間。


それが、わずか数時間で辺境全体の越冬改善計画へと変貌しようとしている。


「……明日から、現場調査……」


前世の記憶が、脳裏をよぎった。


ヘルメット。


図面。


工程表。


安全確認。


業者との打ち合わせ。


無茶な納期。


そして、終わらない現場監督業務。


私はふらりとよろめき、温かい石床にへたり込んだ。


「なんで……」


声にならない悲鳴が、胸の奥から湧き上がる。


「なんで私が、極寒の外に出て、現場監督なんかやらなきゃいけないのよぉぉぉ……!」


もちろん、その悲痛な叫びは声にはならなかった。


公爵令嬢としての体面が、かろうじて私の口を閉じさせていたからだ。


だが、心の中では盛大に絶叫していた。


私の快適な睡眠環境作りは、辺境全土を巻き込む越冬インフラ計画へと、最悪の形で発展してしまったのである。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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