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第16話:古参農夫の涙と、温かな記憶

「ん、んんっ……ふぁあ……」


どれくらい眠っていたのだろう。


私はふかふかのベッドの中でゆっくりと目を開け、猫のように大きく伸びをした。


窓の外を見ると、空はすっかり薄暗くなっている。


どうやら、夕暮れ時まで眠っていたらしい。


相変わらず、外では雪混じりの風が窓を揺らしていた。


ヒューオォォッ、と古い木枠が低く鳴る。


けれど、私のいるこの部屋だけは別世界だった。


「あぁ、よく寝たわ……。寒さで一度も目が覚めなかったなんて、辺境に来てから初めてじゃないかしら」


毛布から這い出しても、体がびくりと震えるような冷気はない。


床下に作ったハイポカウスト式の床暖房は、どうやら無事に働き続けているようだった。


足元の石床から、じんわりと穏やかな温もりが伝わってくる。


部屋全体も、体感では二十度を少し超えるくらいだろうか。


薄い部屋着の上に軽いガウンを羽織るだけで、十分に過ごせる。


「勝ったわね……」


私は裸足のまま、ぽかぽかの石床をぺたぺたと歩いた。


机の上に置かれていた水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。


「ふぅ……。煤っぽくない。喉も痛くない。床は温かい。完璧じゃない」


暖炉のような煙臭さはない。


火の前だけ熱くて、背中が寒いということもない。


ただ、足元から部屋全体がゆっくり包まれている。


念のため、壁際に作った小さな点検蓋へ顔を近づけてみたが、煙の匂いは漏れていない。


熱源室の火の魔石は、低い火力で安定しているようだった。


「私の施工管理能力、やっぱり天才的ね」


自画自賛しながら、私は次の計画を考え始めた。


この部屋で引きこもるには、食料の備蓄が必要だ。


水差しだけでは足りない。


軽食を運ばせる導線、茶葉の保管、寝たまま手の届く棚。


さらに、誰にも邪魔されないための来客制限。


完璧なニート生活には、まだ改善の余地がある。


そう真剣に考え始めた、まさにその時だった。


コンコンッ。


「お嬢様。失礼いたします。暖炉の灰の掃除と、夜用の薪をお持ちいたしました」


控えめなノックとともに、しわがれた老人の声が聞こえた。


館の雑務をこなしている古参の農夫、トマスだ。


元々はこの土地で畑を耕していたが、高齢で重労働が難しくなり、今は辺境伯様の計らいで、館の掃除や薪運びを手伝っている。


以前、ルークからそう聞いたことがある。


「ええ、入ってちょうだい」


私が声をかけると、ぎい、と重い木の扉が開いた。


「失礼しま……す……?」


大量の薪を背負い、煤取り用のバケツを持ったトマスが部屋に足を踏み入れる。


その瞬間、彼はぴたりと動きを止めた。


「……え?」


間の抜けた声が漏れる。


無理もない。


扉の向こうの廊下は、吐く息が白くなるほど冷えている。


それなのに、この部屋へ一歩入れば、外套を脱ぎたくなるほど穏やかな温もりに包まれるのだ。


トマスは背負っていた薪を、どさりと床に落とした。


それから、信じられないものを見る目で部屋の中をぐるりと見回す。


彼の視線が、部屋の隅にある古びた暖炉で止まった。


「ひ、火が……ない? 暖炉には、薪一つくべられていないというのに……なんだ、この暖かさは……?」


トマスは震える手で、自分の頬を撫でた。


外気で冷え切っていた顔が、部屋の温もりで少しずつほぐれていくのが分かる。


「魔法、でございますか……? お嬢様が、魔法で空気を温めておられるのですか?」


「いいえ。魔法で作った設備ではあるけれど、今この部屋を温めているのは床よ」


私が足元を指差すと、トマスは恐る恐るその場にしゃがみ込んだ。


ひび割れた粗い手で、石の床に触れる。


「あっ……!」


思ったよりも温かかったのだろう。


トマスは一度、驚いたように手を引っ込めた。


けれどすぐにまた、すがりつくように両手で床を撫で始める。


「床が……温かい……。煙の臭いもない。息苦しさもない。部屋の隅まで、ちゃんと暖かい……」


その声が、かすかに震えた。


次の瞬間、トマスの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「……トマス?」


「ああ……ああぁ……!」


老農夫は石の床に額を擦りつけるようにしてひれ伏し、子供のように声を上げて泣き崩れた。


突然の号泣に、私は戸惑って数歩後ずさる。


「ど、どうしたの? どこか痛むの?」


「……申し訳、ありません……。ただ、思い出してしまったのです……」


トマスは涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、床の温もりを両手でかき集めるようにして嗚咽を漏らした。


「五年前の……今日のように、ひどい吹雪の夜でした。私の四つになる孫が、ひどい風邪をこじらせましてな。私たちは少しでも部屋を温めようと、窓の隙間をボロ布で塞ぎ、質の悪い薪を暖炉で燃やしたのです」


私は息を呑んだ。


それは、まさに私がルークへ話した、古い暖炉の危うさそのものだった。


「けれど……部屋は煙で満ちました。孫は苦しそうに咳き込みました。たまらず窓を開ければ、今度は恐ろしい冷気が吹き込んできて、孫の体を冷やしていく」


トマスの手から涙が落ち、温かな石床の上に小さな染みを作る。


「暖炉の前は熱いのに、背中は氷のように冷たい。煙を逃がせば寒い。窓を閉めれば煙い。どうすればよいのか、私たちには何も分からなかった……」


彼の声は、そこで一度詰まった。


「次の日の朝……孫は、冷たくなっておりました。煙に巻かれたのか、寒さに負けたのか……今となっては分かりません。ただ、もっと安全に、部屋全体を温めることができていれば……」


トマスは顔を上げ、涙で霞んだ瞳で私を見つめた。


「お嬢様……。この床は、煙を出さず、部屋のどこにいても暖かいのですね。もし、あの時。この暖かさがあれば、私の孫は……あの子は、助かったのでしょうか……?」


その問いに、私はすぐには答えられなかった。


助かった、とは言えない。


そんなことを、軽々しく口にすることはできなかった。


病の重さも、部屋の状態も、当時のことは何一つ分からない。


過去は、もう変えられない。


けれど。


寒さと煙で苦しむ夜を、減らすことはできる。


同じような後悔を、これから減らすことはできるかもしれない。


私がこの床暖房を作った理由は、ただ自分が快適に二度寝をしたかったからだ。


隙間風が顔に当たるのが嫌だったから。


ポカポカの部屋で引きこもりたかったから。


本当に、それだけだった。


けれど、この極寒の辺境で生きる人々にとって、温かい部屋は贅沢ではない。


命をつなぐための、切実なインフラなのだ。


「……トマス」


私は静かに歩み寄り、冷気と土の匂いが染みついた老農夫の肩に、そっと手を置いた。


「過去を変えることはできないわ」


トマスの肩が、小さく震える。


「でも、これから先を変えることはできる」


私の口は、勝手に動いていた。


『私は自分のために作っただけよ』


そう言い訳するには、目の前の涙が重すぎた。


「この領地で、寒さと煙に震えながら夜を越す人を、少しでも減らす。私が作ったものが、その役に立つなら……使える形にしていきましょう」


言った。


言ってしまった。


また仕事が増える予感が、背筋をすうっと撫でる。


けれど、もう取り消せなかった。


「お、お嬢様ぁぁっ……!」


トマスは私の足元にすがりつき、枯れた声を震わせた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……! あの子も、きっと……きっと、喜んでおります……!」


私は困ったように眉を下げながら、彼の肩を軽く叩いた。


温かい石床の熱が、少しでもこの老人の心の傷を和らげてくれることを、願わずにはいられなかった。


だが、この時の私はまだ知らない。


トマスの涙と、私の不用意な言葉。


それを、扉の外で足を止めていた人物が、しっかりと聞いていたことを。


そしてそれが、辺境全土を巻き込む大規模な越冬計画の引き金になることを。

最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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