第15話:極上の常夏部屋と、甘い微睡み
ゴォ……。
一階外壁側に作った小さな熱源室で、火の魔石が赤く灯っている。
その低い音が、床の奥からかすかに伝わってきた。
試運転を始めて、しばらく経った頃だった。
「お、お嬢様……!? こ、これは……!」
部屋の隅に控えていたルークが、突然弾かれたように声を上げた。
彼は履いているブーツの底を、何度も石床に擦りつける。
「床が……石の床が、冷たくねえですぜ!? さっきまで氷みたいだったのに、日向に置かれた石みてぇに……!」
「ふふっ。回り始めたようね」
私は、にやけそうになる口元を必死に引き締めながら頷いた。
床下の低い空洞を、温められた空気がゆっくり流れている。
その熱が、分厚い石床へ少しずつ移っていく。
さらに、壁の中に通した煙道もほんのり温まり、部屋全体を囲む石材が、ゆっくり熱を蓄え始めていた。
暖炉のように、顔だけが熱くて足元が冷たい、という不快感はない。
足の裏から、じんわりと温もりが上がってくる。
冷え切っていた空気まで、少しずつ角が取れていくようだった。
「す、すげえ……! 隙間風もさっきよりずっと弱いです! 部屋が、部屋が人間の住む場所になってやす!」
「当然よ。窓枠と石壁の隙間も一緒に塞いだもの。熱源は部屋の外。煙も排気も煙道を通って屋根の外。室内で火を燃やしていないから、暖炉よりずっと安心して眠れるわ」
「お嬢様、あんた本当に天才ですぜ……! この魔法の床があれば、冬の辺境でも凍えずに眠れやす!」
目をきらきらさせて感動するルーク。
しかし、温まり始めた部屋の中で、私はすでに次の段階へ意識を向けていた。
すなわち、究極の堕落である。
「分かったら、もう下がりなさい。私はこれから、完璧な環境で二度寝をするの」
「えっ? あ、はい! ゆっくりお休みくだせえ!」
「それと、熱源室には勝手に触らないこと。火の魔石を足すのも、弁を開けるのも禁止。温まりすぎたら危ないから、後で私が確認するわ」
「へい! 誰にも触らせやせん!」
ルークが勢いよく頭を下げ、部屋から出ていく。
分厚い木の扉が、ばたんと閉まった。
私はすかさず内側から鍵をかける。
ようやく、誰にも邪魔されない空間が戻ってきた。
「……はぁぁっ」
一人きりになった途端、私は張り詰めていた現場監督の顔を脱ぎ捨て、魂の底から息を吐いた。
温かい。
寒くない。
顔に刺さるような隙間風もない。
床から逃げていたはずの体温が、今は逆に、床からそっと返ってくる。
「勝ったわ……」
私は震える手で、分厚い毛皮の外套の留め金を外した。
極寒の館を歩くために着込んでいた外套も、重ね着した冬用のドレスも、今の部屋ではただ重いだけだ。
外套を石床へ落とす。
肩の力が、ふっと抜けた。
次に、首元まで留めていたドレスのボタンを一つずつ外していく。
コルセットも緩める。
締め付けられていた体が、ようやく息を吹き返した気がした。
「……ふぅ」
薄い部屋着一枚になった私は、分厚いウールの靴下を脱ぎ、裸足をそっと石床へ下ろした。
「――っ」
思わず、息が止まる。
冷たくない。
硬い石のはずなのに、そこにはほのかな熱が宿っていた。
足の裏から、じんわりと温もりが染み込んでくる。
さっきまで私を殺しにきていた床が、今は人間に優しい。
「最高……。信じられないくらい、気持ちいい……」
私はたまらず、その場にぺたりと座り込んだ。
両手を後ろにつき、温かい床に体重を預ける。
床が温かい。
ただそれだけのことなのに、こんなにも幸福だなんて。
火の気は見えない。
煤の匂いもしない。
それなのに、部屋のどこにいても、足元からじんわりと温もりが包んでくる。
窓の外では、相変わらず雪混じりの風が吹き荒れていた。
ガタガタ、と古い窓が鳴る。
けれど、その音すら今は、自分が安全な場所にいることを確かめるための背景音にしか聞こえなかった。
「ふふっ……あははっ」
私は温かい床の上で、思わずごろりと横になった。
前世、雪の降る建設現場のプレハブ小屋で、凍える手をさすりながら徹夜で図面を引いていた日々。
あの時の私に教えてあげたい。
いつか、その無駄に見えた知識で、床を温めて昼寝する日が来るのだと。
私は床に座ったまま、ルークが置いていったお盆に手を伸ばした。
まだ少し温かい野菜スープを、一口すする。
「……美味しい」
体が温まった状態で飲むスープは、格別だった。
胃の底へ、優しい熱が落ちていく。
満たされる。
眠くなる。
抗いがたい睡魔が、頭の奥からゆっくり広がっていった。
「……ベッドに、入らなきゃ……」
私はとろけかけた頭で、部屋の隅にある天蓋付きのベッドを見上げた。
ふらふらと立ち上がり、マットレスへ倒れ込む。
「んん……」
つい数刻前まで氷の板のようだったシーツと毛布は、部屋の温もりを吸って、ほんのり柔らかくなっていた。
冷たくない。
顔に吹きつける風もない。
毛布の中に入っても、体温が奪われない。
ただそれだけで、世界が祝福に満ちているように思えた。
「私の……勝ちよ……」
私は薄い部屋着のまま毛布にくるまり、シーツに頬を擦り寄せる。
「おやすみ、なさい……」
床から伝わる穏やかな温もりに抱かれながら、私は口元にだらしない笑みを浮かべた。
この小さな寝室の改修が、やがて辺境全土を巻き込む巨大な越冬計画の引き金になることなど、知る由もない。
元社畜の公爵令嬢はただひたすらに、己の欲望のまま、至福の二度寝へと沈んでいった。
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