第8話 石を投げられた聖女ミュゼ
わたしの光は、蛍くらいしかありません。
聖女候補というのは、手のひらに癒しの光を灯せる子どものことです。教会には同じ年頃の候補が20人ほどいて、上手な子が祈ると、聖堂じゅうが昼間のように明るくなります。
わたしが祈っても、自分の指が見えるくらいでした。
落ちこぼれ、と呼ばれていました。面と向かって言う人はいません。けれども、わたしが祈りの列に並ぶと、後ろの子たちが小さく笑うのは聞こえていました。
それでも教会を出なかったのは、他に行く所がなかったからです。
お母さんは、わたしが9歳の冬に亡くなりました。
熱病でした。
村にお医者さまはいませんでした。わたしにできたのは、お母さんの手を握って、指のあいだに小さな光を灯すことだけです。光を当てているあいだは、お母さんの息が少し楽になるように見えました。
3日3晩、握っていました。
4日目の夜明け前に、わたしは眠ってしまいました。
ほんの少しのつもりでした。目を開けたら窓の外が明るくなっていて、握っていた手は、もう冷たくなっていました。
手を離したから、お母さんは死んだのです。
もっと光が強ければ。もっと長く起きていられたら。
足りなかったのです。わたしは何もかもが足りませんでした。
*
西の谷の村に行く者を、と司祭さまがおっしゃった時、誰も手を挙げませんでした。
熱病の村です。うつれば自分も死ぬかもしれません。光の強い子たちは、もっと大きな町の、もっと立派な仕事に呼ばれるのを待っていました。
わたしが行きます、と言いました。
司祭さまは少し困った顔をなさいました。お前の力では、とおっしゃりかけて、おやめになりました。他に誰もいなかったからです。
教会を出る前の3日間、わたしは書庫にこもりました。
光が足りないのなら、他のもので補うしかありません。熱病の記録を読みました。薬草の本を読みました。むずかしい字は司書のおじいさんに聞いて、覚えられるだけ覚えました。
銀葉草という草が、熱を下げること。
熱病の多くは、悪い水から始まること。
村に着いたその日に、わたしは井戸をのぞきました。底のほうから嫌な臭いがしました。
「この井戸の水を、飲まないでください」
村長さんにそう言いました。村長さんは、12歳のわたしを見下ろして笑いました。
「聖女さまは、祈るのが仕事でしょう。井戸のことは、わしらのほうがよく知っとります」
3回言いました。3回とも、同じでした。
だから祈りました。
1軒ずつ回って、病人の手を握って、蛍の光を灯しました。熱がほんの少し下がります。次の家に行っているあいだに、また上がります。戻って握ります。その繰り返しでした。
眠りませんでした。
眠ったら、また誰かの手が冷たくなる気がしたのです。
2日目におばあさんが1人亡くなりました。
5日目に木こりの奥さんが亡くなりました。まだ若い人でした。わたしは最後まで手を握っていましたが、光は少しも届きませんでした。
その日から、村の人たちの目が変わりました。
偽者だ、とささやく声が聞こえるようになりました。あんな弱い光で何ができる。教会は出来そこないを寄こしたんだ。
そのとおりです。
わたしは出来そこないです。言い返す言葉は1つもありませんでした。
*
10日目の夜のことです。
粉屋さんの末の子がひきつけを起こしました。3歳の男の子です。家の中は病人でいっぱいだったので、教会の前の広場に毛布を敷いて、そこで手を握りました。
小さな手でした。
燃えるように熱くて、わたしの指を握り返す力もありません。
光を灯しました。体じゅうの力を、指先に集めるつもりで祈りました。10日間ほとんど眠っていない頭が、ぐらぐら揺れていました。
いつの間にか、松明を持った人たちに囲まれていました。
「もうやめろ!」
木こりさんの声でした。
「お前が来て10日だ。何人死んだ。うちの女房も死んだんだぞ。それが聖女のやることか!」
ごめんなさい、と言いたかったのです。
声を出すと祈りが途切れてしまうので、言えませんでした。
「偽者め!」
「村から出ていけ!」
肩に、硬いものが当たりました。
石でした。
痛い、と思いました。でも、手は離しませんでした。
2つ目が背中に当たりました。3つ目が額をかすめて、温かいものが頬を流れていきました。
離しませんでした。
離したら、この子は死にます。お母さんのように。わたしが手を離したせいで、また1人死ぬのです。
石を投げる人たちを、恨む気持ちにはなれませんでした。
木こりさんは奥さんを亡くしたのです。わたしの光が足りなかったせいで。怒って当たり前です。石くらい、いくらでも投げてくださって構いません。
ただ、この手だけは。
指のあいだの光が消えかけていました。
体が傾いていきます。まぶたが落ちてきます。あの朝と同じでした。ほんの少しのつもりで目を閉じた、あの冬の朝と。
いやだ。
眠りたくない。
お願いです、女神さま。わたしはどうなってもいいから、この子だけは。
*
石畳が割れる音で、目がさめました。
わたしと村の人たちのあいだに、誰かが立っていました。
黒いマントが、風もないのに大きく広がっています。背中の向こうに小さな太陽のような光があって、その方の姿は影の中でした。頭から目元までを覆う仮面には、片側にだけ角があります。
そして体じゅうから、黒い炎が上がっていました。
こわい、と思いました。
教会の絵本で見た悪魔に、そっくりだったのです。
その方は村の人たちに向かって、静かに言いました。
「その石、我に投げてみよ」
しばらく、誰も動きませんでした。
それから石が飛びました。10も20も。さっきまでわたしに向かっていた石が、全部その方に向かっていきました。
1つも当たりませんでした。
黒い炎に触れたとたん、石は砂になって足元にこぼれていきました。その方は腕を組んだまま、よけようともしませんでした。
「ば、化け物だ」
「病を運んできた悪魔だ!」
「好きに呼べ」
村の人たちは松明を放り出して、逃げていきました。
広場が静かになりました。
その時になって、わたしはようやく気づいたのです。
この方は、わたしの代わりに石を受けてくださったのだ、と。
悪魔と呼ばれても言い返さずに。好きに呼べ、とだけおっしゃって。
*
仮面がこちらを向きました。
わたしはまだ、男の子の手を握っていました。額から血が流れているのは分かっていましたが、ぬぐう手がありませんでした。
叱られる、と思いました。
こんなに弱い光で何をしている。お前のせいで人が死んだ。そう言われるのだと。
その方はおっしゃいました。
「下がれ。貴様はもう十分に戦った。あとは我がやる」
胸の奥で、何かがほどける音がしました。
十分に。
十分に、戦った。
その言葉を、わたしは生まれてから1度も言われたことがありませんでした。
足りない、といつも言われてきました。光が足りない。力が足りない。自分でもそう思ってきました。お母さんの手を離したあの朝から、わたしはずっと足りないままでした。
それを、この方は。
十分だ、とおっしゃるのです。
目の奥が熱くなりました。でも泣いている場合ではありませんでした。
「……まだ、です。あと11人います」
言い返してしまいました。こんなに強い方に向かって。
「この子の熱が下がったら、次は鍛冶屋さんの家で、その次が」
立とうとして、膝が崩れました。
地面に倒れる前に、襟の後ろをつままれました。
そっと、でした。石の柱でも砕きそうな手が、わたしの法衣を破かないように、指先だけでつまんでくださったのです。
その方は、しばらく黙っていらっしゃいました。
それからおっしゃいました。
「ならば命じよ。何が要る」
耳を疑いました。
命じよ、と。
このわたしに。蛍の光しか持たない、12歳の出来そこないに。石を砂に変えるほどの方が、何が要るのかを聞いてくださっている。
村長さんは笑いました。聖女さまは祈るのが仕事でしょう、と。
この方は笑いませんでした。
「……水、です」
声が震えました。
「あの井戸の水を飲んだ家から、病人が出ています。わたし、何度も言ったんです。でも、子どもの言うことだからって」
その方は、うなずきもなさいませんでした。ただ聞いていらっしゃいました。
「それと、銀葉草。熱を下げる草です。北の峰の岩場に生えています。でも、大人の足でも3日かかるから……」
その方は広場の端まで歩いていらして、指を1本、地面にお当てになりました。
「貫け」
大地に穴があきました。
少しして、水が空まで噴き上がりました。澄んだ、冷たい水でした。夜の広場に雨のように降って、わたしの額の血を洗っていきました。
「……加減を知らぬ水だ」
そうつぶやいて、その方は姿を消されました。
まばたきを3つするあいだに、戻っていらっしゃいました。肩に山をかついで。
本当に、山でした。北の峰の岩場が、草も岩も土もそのまま、広場に下ろされたのです。丘のてっぺんで山羊が鳴いていました。
その方は、わたしを見下ろして一言だけおっしゃいました。
「選べ」
*
わたしは丘に登りました。
銀葉草はすぐに分かりました。葉の裏が銀色に光るのです。書庫の本で、何度も何度も絵を見ました。
摘みながら、やっと分かりました。
選べ、というのは、信じてくださったということです。
あの方なら、どの草でも一瞬で摘めたはずです。それをなさらずに、わたしに選ばせた。お前の調べたことは正しい、お前の目で見分けよ、と。
書庫で過ごした3日間は、無駄ではなかったのです。
薬湯を作って、1軒ずつ回りました。
あの方は、ずっと後ろについてきてくださいました。わたしがふらつくたびに、襟をつまんで支えてくださいます。何もおっしゃいませんでした。
最初の扉を開けてくれたのは、鍛冶屋さんでした。
「……その薬、本当に効くのか」
「効きます。教会の書庫で、ちゃんと調べました」
声は震えませんでした。
後ろに、あの方が立っていてくださったからです。
あの方は水を運び、丸太を手でちぎって薪にしてくださいました。途中で1度、鍋をご自分の足元の炎にかざして、じっと見つめていらっしゃったことがあります。何をなさっていたのかは分かりません。きっと、わたしなどには計り知れない意味があったのだと思います。
熱にうなされるおじいさんの枕元では、こうおっしゃいました。
「死ぬがいい」
おじいさんが気を失ったので驚きましたが、すぐに続きがありました。
「貴様ではない。貴様の内に巣くうものに言った」
病に、命じてくださったのです。
そのおじいさんの熱は朝までに下がりました。薬湯が効いたのか、あの方のお言葉が効いたのか、わたしには今も分かりません。
*
夜が更けても、あの方は広場の真ん中に立っていらっしゃいました。
腕を組んで、1度も座らずに。
病人の家を出るたびに、わたしは広場を見ました。黒い炎が星空の下で揺れていました。それを見ると、もう1軒回る力が湧いてきました。
見守ってくださっているのだ、と思いました。
鍛冶屋さんが黒パンを分けてくださった時、わたしは半分を持って広場に走りました。
「あの……鍛冶屋さんが、分けてくださったんです。半分、どうぞ」
「施しは受けぬ」
あの方は、手を伸ばしもなさいませんでした。
恥ずかしくなりました。食べる物にも困っている村で、あの方が何かを受け取るはずがなかったのです。
「……強い方は、おなかもすかないんですね」
「案ずるな」
その一言で、わたしはまた走れました。
東の空が白くなった頃、鍛冶屋さんの家の扉が開きました。
「熱が、下がった」
次の扉も。その次も。
わたしは噴水のそばに座りこんでいました。足がもう動きませんでした。村の人たちがまわりに集まってきます。
誰も、石を持っていませんでした。
人垣の向こうにあの方が見えました。
離れた所に、1人で立っていらっしゃいます。朝の光の中で、指先が透けはじめていました。
行ってしまう。
「待ってください」
手を伸ばしました。届きませんでした。
あの方は最後に、わたしを見て、おっしゃいました。
「……見事だ」
黒い炎が朝日に溶けて、マントの裾が空に散って、いなくなってしまわれました。
わたしは泣きました。
10日ぶん、いいえ、お母さんが亡くなった朝からの3年ぶんを、全部まとめて泣きました。
見事だ、と。
蛍の光しか持たないわたしに、あの方はそうおっしゃったのです。
*
その朝、最初にわたしの前に膝をついたのは、木こりさんでした。
両手で木の椀を持っています。新しい井戸の水でした。手が震えて、ふちからこぼれていました。
「……すまなかった」
わたしは首を振って、椀を受け取りました。
冷たくて、甘い水でした。
「奥さんを、助けられませんでした」
「あんたは最後まで手を握っててくれた。わしは見とった。見とったのに、石を投げた」
木こりさんは地面に額をつけました。
わたしはその背中に手を置きました。指のあいだに小さな光が灯ります。あいかわらず蛍くらいの光でした。
でも、もう恥ずかしくはありません。
これで十分だと、言ってくださった方がいるのですから。
昼前に、丘の上へ登りました。
夜のあいだ、そこに小さな焚き火がずっと見えていたのです。病の村を1晩じゅう見下ろして待っている人など、他に考えられませんでした。
赤毛の女の子が1人、消えた焚き火のそばに座っていました。
「黒い方の、お連れの方ですか」
女の子は目を丸くして、それから苦笑いしました。
銀葉草の束を渡しました。あの方はパンを受け取ってくださらなかったので、せめてお連れの方に、と思ったのです。
*
その夜、わたしは教会の祭壇の前で手を組みました。
あの方のお名前を、わたしは知りません。どこのどなたなのかも、どこへ行かれたのかも分かりません。お礼を言う方法が他に思いつきませんでした。
女神さま。
黒い炎の御方に、どうかお伝えください。
ありがとうございました、と。
わたしは、これからも手を握ります。光は小さいままですけれど、もう離しません。足りないぶんは本を読んで補います。
それから、もう1つだけ。
あの方は、おなかがすかないとおっしゃいました。でも、もし本当はすいていらっしゃったら。
どうか、あの方が温かいものを召し上がれますように。
*
——同じ頃、転生課では。
女神の机の上に、小さな光が1つ落ちてきた。
蛍ほどの大きさだった。手のひらに受けると、幼い声の祈りが聞こえる。
女神は最後まで聞いた。
それから、宛先を確かめた。自分に宛てたものではない。届け先は、引き出しの中の注文書の持ち主だった。
注文書のいちばん下には、こう書いてある。
報酬:一切受領不可。
女神は光をしばらく手のひらにのせていた。やがて引き出しを開けて、注文書のとなりにそっと置いた。
引き出しの中には、すでに2つの光があった。
1つは、荷を背負う少年のもの。
もう1つは、銀の盆を磨く娘のもの。
「……受け取らないとおっしゃったのは、あなたですよ」
女神は引き出しを閉めた。
閉める手が、いつもより少しだけ遅かった。




