第6話 悪役令嬢セラフィーナ
笑ってはなりません、と母は言った。
8歳の春、伯爵家との婚約が決まった日のことだ。
「あなたは伯爵夫人になるのです。軽々しく笑う女は侮られます。泣く女は付けこまれます。背筋を伸ばして、いつも正しくありなさい」
わたくしは、はい、と答えた。
それから10年、そのとおりにしてきた。
笑わなかった。泣かなかった。礼儀作法を覚え、帳簿の読み方を覚え、領地の法を覚えた。婚約者のレオポルト様が投げ出した書類を引き取って、夜ごと清書した。
生まれつきの顔立ちも良くなかったのだと思う。目尻が上がっていて、黙っているだけで怒っているように見えるらしい。そこへ笑わない10年が重なって、わたくしはいつの間にか「氷のような女」と呼ばれるようになっていた。
構わなかった。
正しくあれば、いつか分かってもらえる。そう信じていたからだ。
わたくしが誰の陰口も言わなかったことを。誰のことも陥れなかったことを。レオポルト様の名で出された施療院への寄付が、本当は誰の手配だったのかを。
見ている人は、きっとどこかにいる。
10年間、それだけを頼りにしてきた。
*
「セラフィーナ・エルメンライヒ! お前との婚約を、今この場で破棄する!」
楽団の音が止まった。
レオポルト様の腕に、ミレイユ様がしがみついている。男爵家の、花のように笑う方だ。わたくしが10年かけて捨てたものを、すべて持っている方だった。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
「とぼけるな。お前がミレイユを階段から突き落としたことは、皆が知っている。茶に毒を混ぜたこともだ」
存じません、とわたくしは答えた。
本当に知らなかった。階段のことも、茶のことも、その夜に初めて聞いた。
けれども広間を見回して、わたくしは理解した。
誰も驚いていない。
招待客の方々は扇の陰でうなずき合っている。やはり、という顔をしていた。あの氷のような女ならやりかねない、と。
10年かけて積み上げた正しさは、わたくしを守る壁にはならなかった。笑わない女が何を考えているのか、誰にも分からない。分からないものは、いくらでも悪く思える。
父と母を見た。
助けてほしかったのではない。ただひとこと、娘はそのような者ではないと言ってほしかった。
2人は、目をそらした。
エルメンライヒ子爵家は、伯爵家の後ろ盾なしには立ちゆかない。分かっている。分かっていたけれども。
笑うなと言ったのは、お母様ではありませんか。
そう叫びたかった。叫ばなかった。叫ぶ女は侮られる、と教わったからだ。
「セラフィーナ。お前は今夜のうちに、北の修道院へ行け。馬車はもう用意させてある。2度とこの街に戻るな」
礼をした。
10年間でいちばん深く、いちばん美しい礼をしたと思う。それがわたくしに残された、最後の正しさだった。
扉までの絨毯は長かった。
人々が左右に割れていく。誰もわたくしと目を合わせない。背筋を伸ばして、顔を上げて、1歩ずつ歩いた。泣かなかった。泣き方をもう覚えていなかった。
扉の前には誰もいなかった。
侍従も衛兵も離れた所に立っている。あの重い扉を、わたくしは自分で押して出ていかなければならない。皆の見ている前で、みっともなく体重をかけて。
最後の最後まで、そういう仕打ちなのだと思った。
その時、横から誰かが走ってきた。
給仕だった。
若い男だ。片手に鶏の丸焼きがのった盆を持っている。もう片方の手で取っ手をつかんで引いたが、扉はびくともしなかった。彼は顔を真っ赤にして、肩で押した。
人ひとりぶんの隙間がようやくあいた。
「お足元に、お気をつけて」
息が切れていた。
わたくしは彼の顔を見た。見覚えのない顔だ。それから盆の上の鶏を見た。なぜ鶏を持ったまま走ってきたのかは、聞けなかった。
意味が分からない。
分からないけれども、あの広間にいた数百人のうち、わたくしのために動いた人間は彼だけだった。
お礼を言おうとした。声が出ない。出せば泣いてしまうと分かったので、うなずくことしかできなかった。
扉の向こうは暗い廊下だった。
*
馬車は夜通し走った。
御者の顔に見覚えがないことには、乗る時に気づいていた。伯爵家の馬車なら、御者の顔はたいてい知っている。
この馬車は、修道院には着かないのかもしれない。
そう思った。思って、それきりだった。
窓の外を黒い木々が流れていく。
わたくしは膝の上で手を重ねて、自分に何が残っているのかを数えてみた。
婚約は、ない。家には戻れない。友人と呼べる人は初めからいなかった。10年かけて覚えた作法も帳簿も法も、修道院では使い道がない。
正しくあれば、いつか分かってもらえる。
あの言葉は嘘だった。見ている人など、どこにもいなかった。
それなら、わたくしの10年は何だったのだろう。
笑わなかった10年。泣かなかった10年。誰のことも悪く言わなかった10年。それらは全部、誰の目にも映らないまま、今夜で終わる。
初めから何もなかったのと同じだ。
馬車が止まったのは、空が白みはじめた頃だった。
扉が外から開いた。腕をつかまれて、冷たい地面に引きずり下ろされた。切り立った崖の下の、細い道だった。黒い服の男が5人、剣を抜いている。
ああ、やはり。
恐ろしくはなかった。
男の1人が剣を持ち上げる。わたくしは膝をついたまま、その刃を見ていた。朝の薄い光が鋼の上をすべっていく。
きれいだと思った。
これで終われるのだ。もう背筋を伸ばさなくていい。正しくあろうとしなくていい。誰かが見ていてくれると、信じるふりをしなくていい。
その時、剣の上に影が落ちた。
*
男たちが空を見上げた。
つられて、わたくしも顔を上げた。
崖の上に誰かが立っていた。
ちょうどその人の背から、太陽が昇るところだった。朝の最初の光がまっすぐに差して、その姿を黒く切り抜いている。長いマントが風をはらんで、大きくひるがえった。
その人は、飛んだ。
大人の背丈の10倍はある崖だった。それを、階段を1段下りるように飛び降りた。
地面が揺れた。
土煙が晴れると、道が丸くへこんでいた。その真ん中にその人が立っていた。
炎だ、と最初に思った。
黒い炎がその人の全身を包んでいる。朝の光がそこだけ吸いこまれて、底が見えない。頭から目元までを覆う仮面は、左右で形が違っていて、片側にだけ角があった。
「ま、魔族だ!」
男の1人が剣を落とした。御者が悲鳴を上げ、馬に飛び乗って逃げていく。
わたくしも、そう思った。
魔族だ。物語の中にしかいないはずのものが、わたくしの最期を見物に来たのだ。
「騒ぐな、羽虫ども」
低い声だった。
怒ってはいなかった。うるさい虫を払う時の声だった。
「退け。3つ数える」
その人は本当に数えはじめた。
「1」
「2」
男たちが叫びながら斬りかかる。5本の剣が同時に振り下ろされた。
その人は剣を抜かなかった。腕も上げなかった。
ただ、ふっと息を吐いた。
「3」
5人の男が、枯れ葉のように道の端まで転がっていった。崖下の茂みに突っこんで、動かなくなる。
「……命拾いしたな」
殺さなかったのだ、とわたくしは気づいた。
あれほどの力があるのに。指1本で5人とも消せたはずなのに。この人は、わざわざ数を数えて、退く時間を与えて、最後は息だけで済ませた。
仮面がこちらを向いた。
*
立てなかった。
膝をついたまま、わたくしはその人を見上げていた。黒い炎が音もなく揺れている。腕を組んで立つ姿は山のように動かない。
「……あなたも、わたくしを殺しに来たの」
答えはなかった。
「なら、早くなさい」
笑おうとした。10年ぶりのことで、うまくいかなかった。
「もう構わないのよ。帰る場所もないの。信じてくれる人もいない。修道院で一生を終えるのも、ここで終えるのも、たいして変わらないでしょう」
本心だった。
誰かに聞いてほしかったのだと思う。相手が魔族でもよかった。10年間誰にも言えなかったことを、最後に1度だけ口にしたかった。
その人は長いあいだ黙っていた。
それから言った。
「死ぬことは許さぬ」
何を言われたのか分からなかった。
許さぬ。
その言葉なら、よく知っている。わたくしの10年は、許されないことばかりでできていた。笑うことは許されない。泣くことは許されない。弱音は、口答えは、わがままは。
けれども、死ぬなと言われたのは初めてだった。
「貴様の命は、貴様が決めてよいほど安くはない」
息が止まった。
わたくしは決めていた。馬車の中で、数えて、決めたのだ。何も残っていない、初めから何もなかったのと同じだ、と。
この人は、それを許さないと言っている。
お前ごときが勝手に値を決めるな、と。お前の命はお前が思っているより重いのだから、と。
なぜ。
あなたは、わたくしの何を知っているというの。
その問いに答えるように、仮面の奥から声がした。
「あの場の愚か者どもの目は節穴だ。我は見ていた」
世界が、止まった。
見ていた。
この人は、見ていたと言った。
あの広間を。皆がうなずき合うなかで、わたくしが何も言い返さずに礼をしたところを。顔を上げて、あの長い絨毯を歩いたところを。
そして、愚か者どもの目は節穴だ、と。
信じてくれている。
わたくしが何もしていないことを、この人は知っている。証拠もなしに。弁明も聞かずに。ただ見ていたというだけで。
見ている人は、きっとどこかにいる。
10年間信じて、昨夜捨てた言葉が、胸の奥で息を吹き返した。
いたのだ。
本当に、いたのだ。
頬が熱かった。触れてみて、濡れているのに驚いた。泣き方など忘れたと思っていたのに、体のほうはちゃんと覚えていた。
「あなた……あの場に、いらしたの」
立ち上がった。足が震えていたけれども、立てた。
どなたなのですか。なぜわたくしを。お名前を。
手を伸ばした。
その人の指先が朝の光に透けていた。
黒い炎が細くなっていく。輪郭が煙のようにほどけていく。
「待って」
袖をつかもうとした。指は何もない所を握った。
「……達者でな」
それが最後だった。
マントの裾が風に散って、仮面が薄れて、消えた。へこんだ道の真ん中に朝日だけが差していた。
*
しばらく、そこに立っていた。
鳥が鳴きはじめている。茂みの中で、男たちがうめいている。馬車には馬だけが残って、のんきに草を食べていた。
わたくしは崖を見上げた。
あの方が立っていた場所だ。
登った。
どうしてそんなことをしたのか分からない。夜会の靴で、ドレスの裾を破きながら、岩に手をかけて這い上がった。爪が割れた。伯爵夫人になる女は決してしない、みっともない姿だったと思う。
崖の上には誰もいなかった。
ただ、草の上に何かが光っていた。
銀の盆だった。
拾い上げて、裏を返す。伯爵家の紋章が刻まれている。夜会で給仕たちが持っていた物と同じだ。
あの方は、伯爵家の中にいる。
そう思った。あの屋敷のどこかに身をひそめて、すべてを見ている方がいるのだ。だからあの場のことをご存じだった。
盆を胸に抱いた。
冷たい銀が少しずつ温まっていく。
ふと、扉を開けてくれたあの給仕のことを思い出した。彼も同じ盆を持っていた。鶏をのせて、真っ赤な顔で扉を押していた。
あの人にも、お礼を言えなかった。
昨夜のわたくしには、2人の味方がいたことになる。扉を開けてくれた人と、命を拾ってくれた方と。
何も残っていないなどと、どうして思ったのだろう。
*
修道院に着いたのは、その日の夕方だった。
通りかかった商人の荷車に乗せてもらった。院長様はわたくしの破れたドレスを見て眉をひそめたが、何も聞かずに部屋を与えてくださった。
石の壁と、細い窓と、固い寝台。
わたくしは寝台に腰かけて、盆を膝に置いた。
磨かれた銀に顔が映っている。
髪はほどけて、頬には泥がついていた。目のまわりは赤く腫れている。氷のような女はどこにもいなかった。
その顔が、笑っていた。
自分でも気づかないうちに、口元がゆるんでいた。10年ぶりの笑い方は、やはり少しぎこちなかった。
死ぬことは許さぬ、とあの方はおっしゃった。
それなら、生きなければならない。
そして生きているからには、申し上げなければならないことがある。
お礼を。
それから、文句を。
あんな山の中に、女を1人で置いていくものではありません。達者でな、ではないのです。せめて名前くらい、名乗っていってくださいませ。
わたくしは盆を磨いた。袖で、丁寧に、何度も。
窓の外に最初の星が出ていた。
あの方は、待っていても来てはくださらないだろう。名も告げずに消えてしまう方なのだから。
それなら、こちらから探しに行くしかない。
2度とこの街に戻るな、とレオポルト様はおっしゃった。修道院から出るな、とは誰にも言われていない。
わたくしは窓から中庭を見下ろした。塀はそれほど高くなかった。崖を登ったあとでは、なおさら低く見える。
いつかあれを越えて、あの方に会いに行こう。
10年ぶりに、自分で決めたことだった。




