第5話 断罪の場で皿を運んでいた男
「荷物は落としませんでした、だって」
翌朝、橋の下でペルネッタが言った。
俺は固いパンをかじる手を止めた。パンは彼女のおごりである。孤高の覇者の朝食は、14〜15歳の女の子の情けでできている。
「何の話だ」
「昨日の子からの伝言。あんたに伝えてくれって」
荷物は、落としませんでした。
俺はその言葉を3回ほど頭の中で転がして、青ざめた。
「……やっぱり気にしてるじゃないか」
「何を」
「俺はあの子に、お前なんかにその荷物が持てるかって言ったんだ。だから『ちゃんと持てました』って言い返してきたんだろう。当てつけだ。完全に怒ってる」
「そうかなあ」
「そうに決まってる。次に会ったら土下座する」
言ってから、俺は考えこんだ。
「待てよ。お助けキャラの土下座というのは前例がないな。膝は片方だけつくべきか。いや、それだと騎士の礼になる。両膝をついて、ただし背筋は伸ばしたまま」
「兄さん」
「額はつけない。目だけ伏せる。これなら威厳を保ったまま謝れる」
「謝る気ある?」
ペルネッタはパンをちぎりながら、変な生き物を見る目で俺を眺めていた。
「あのさ。昨日のこと、ちゃんと説明して」
「長くなるぞ」
「いいよ。どうせ朝は暇だし」
転生のこと。女神様のこと。注文書のこと。
話しはじめて3分で、最初の横槍が入った。
「待って。強さを選べたのに、わざわざ魔王と同じにしたの?」
「した」
「倍にしなよ」
「女神様と同じことを言うな。倍にしたら俺が魔王を倒してしまうだろう」
「倒しなよ」
「それも女神様が言った」
10分のところで2つ目が入った。
「自分が危ない時は使えないの? 何で?」
「お助けキャラが自分を助けてどうする」
「死ぬよ?」
「……死ぬな」
「ばかなの?」
15分のところで3つ目である。
「その黒い炎って何に使うの」
「使わない」
「使わないの」
「出ているだけだ」
「何で頼んだの」
「格好いいからだ」
ペルネッタは残りのパンを全部口に入れて、しばらく黙ってかんでいた。
結局20分かかった。
「信じない」
「だろうな」
「信じないけど、柱は折れてたし主は死んでた。で、兄さんは体力3」
「3だ」
「……ばかみたいな力だね」
「格好いいだろう」
「ばかみたい、って言ったんだよ。頼み方が」
彼女は立ち上がって、上着のほこりを払った。
「決めた。兄さんが消えたあとに残した荷物、これからもあたしが回収してあげる。1回につき銅貨5枚」
「商売にするのか」
「するよ。あと情報も売る。今日のぶん、聞く?」
俺は財布の中身を全部出した。銅貨5枚。これで一文なしである。
ペルネッタは枚数を確かめてから、声を落とした。
「今夜、伯爵様のお屋敷で夜会がある。そこで婚約破棄が起きるって噂」
「婚約破棄」
「伯爵家の跡取りが、子爵家のお嬢様を皆の前で捨てるんだって。新しい相手がもういるらしいよ。お嬢様のほうは何も知らされてない」
俺はパンを落とした。
大勢の前で身に覚えのない罪を着せられ、すべてを失う令嬢。
それは主人公の始まり方だ。昨日に続いて2日連続である。この世界は主人公の産地なのかもしれない。
「行く」
「どうやって入るの。招待状ないでしょ」
「……ないな」
「厨房が給仕の手を探してる。日当は銅貨20枚。紹介料は5枚、後払いでいいよ」
この子は本当に、将来大物になると思う。
*
伯爵邸の厨房で、俺は料理長に3回怒鳴られた。
1回目は、名前を聞かれた時である。
「新入り。名前は」
「名乗るほどの者ではありません」
「名簿に書くんだ! 名乗れ!」
名簿には「ジン(名乗るほどの者ではない)」と書かれた。括弧の中まで書かなくていいと思う。
2回目は、最初の皿を運んだ時だ。
スープである。俺は盆を持ったまま、大広間の扉の陰で立ち止まった。
熱いうちに出すのは素人だ。
客が待ちくたびれ、今夜のスープはもう来ないのかと諦めかけた、まさにその瞬間に現れる。それがいちばん効果的な登場である。俺は扉の隙間から客の顔色をうかがい、頃合いを待った。
スープは冷めた。
「なぜ持っていかん!」
「ギリギリを待っていました」
「何のだ!」
3回目は、皿を5枚割った時である。
肉料理の皿を運ぶのに、俺は広間の階段を使った。上の踊り場から下りていけば、シャンデリアの光が背中に入る。逆光だ。片手で皿を高く掲げ、1段ずつゆっくり下りる。
3段目で足を踏み外した。
皿は5枚重ねていた。
「普通に運べ! なぜ階段の上から来る!」
「高い所から現れたほうが」
「皿がか!」
皿5枚ぶんの銅貨10枚は、日当から引かれることになった。
残り10枚。ペルネッタへの紹介料を払うと5枚。働く前から半分以下になっている。
料理長は最後に、鶏の丸焼きがのった銀の盆を俺の胸に押しつけた。
「お前はもう運ぶな。これを持って壁ぎわに立ってろ。動くな。しゃべるな。階段に近づくな」
壁ぎわに立った。
大広間は、絵に描いたような夜会だった。シャンデリアが輝いている。着飾った人々が笑っている。楽団が優雅な曲を奏でている。
それは突然始まった。
「セラフィーナ・エルメンライヒ! お前との婚約を、今この場で破棄する!」
音楽が止まった。
来た。
本物だ。本物の婚約破棄である。前世で何十回も読んだあの場面が、目の前で始まっている。
広間の中央に、金髪の若い男が立っている。伯爵家の跡取りだろう。その腕には、小柄な令嬢がしがみついていた。
指をさされているのは、もう1人の令嬢だ。
18〜19歳くらいだろうか。黒に近い濃い青の髪を高く結い上げて、背筋をまっすぐ伸ばしている。きつい目元のせいで冷たく見える顔立ちだが、今その顔からは血の気が引いていた。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
次は「とぼけるな」だ、と俺は思った。
「とぼけるな」
当たった。
「お前がミレイユを階段から突き落としたことは、皆が知っている。茶に毒を混ぜたこともだ」
階段と毒である。定番が2つとも来た。証拠はどうせ出てこない。こういう時は出ないのだ。
「存じません」
「まだ言うか!」
跡取りの声が広間に響く。しがみついた令嬢が、わざとらしく肩を震わせた。あの震え方も見たことがある。教科書どおりである。
俺は盆を持ったまま、まわりを見た。
誰も動かない。
招待客たちは扇の陰でささやき合うだけで、1人も前に出ようとしない。濃い青の髪の令嬢は、広間の奥に立つ中年の夫婦のほうを見た。両親だろう。
2人は、目をそらした。
令嬢の肩が、ほんの少しだけ下がった。
そこで、笑えなくなった。
読んでいた時は、ここで「さあ逆転だ」と思えた。次の頁をめくれば誰かが助けに来ると知っていたからだ。
目の前の人には、次の頁がない。
来た。これは来ただろう。どう見てもピンチである。俺は盆を持ったまま、高い所を探した。階段の踊り場がある。近づくなと言われたが、非常時だ。鶏はどうしよう。持っていくしかない。
1歩踏み出したところで、目の前に板が浮かんだ。
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【判定結果】
対象者の状況:窮地には該当しません
理由:生命の危険がありません
判定:まだいけます
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まだいけません。
全然いけていない。見ろ、あの顔を。婚約者に捨てられ、罪を着せられ、親にまで見放されたのだ。これがピンチでないなら何がピンチなのか。
板がもう1枚出た。
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【補足】
社交上の不利益は、窮地の判定対象に含まれません
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「含めてくださいよ」
小声で言った。隣に立っていた給仕が、ぎょっとして俺を見た。
「社交界で死ぬのだって死ぬうちでしょう。あなたは神様だから、人づきあいで困ったことがないんですよ」
板が増えた。
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【補足】
困ったことはあります
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あるらしい。
あるなら分かってほしい。
「おい新入り、誰と話してる」
「上司です」
「どこの」
答えようがなかった。
「セラフィーナ。お前は今夜のうちに、北の修道院へ行け。馬車はもう用意させてある。2度とこの街に戻るな」
令嬢は何も言い返さなかった。
ただ1度だけ深く礼をして、踵を返した。扉までの長い絨毯を、顔を上げたまま1人で歩いていく。客たちが波のように左右へよけていった。
扉の前には誰もいなかった。
侍従も、衛兵も、わざと離れている。重い両開きの扉を、彼女は自分の手で押さなければならない。
俺は鶏を持って走っていた。
動くな、しゃべるな、と言われたのは覚えている。足のほうが覚えていなかった。
盆を左手に移し、右手で扉の取っ手を引く。重い。びくともしない。体力3には重すぎる。肩で押した。顔に血がのぼる。鶏が盆の上ですべる。ようやく人ひとりぶんの隙間があいた。
「お足元に、お気をつけて」
息が切れていた。給仕の台詞としては合っていたと思う。
令嬢は立ち止まり、俺の顔を見た。それから俺の手の鶏を見た。
何も言わずに、小さくうなずいて出ていった。
直後に侍従長に襟首をつかまれ、厨房まで引きずられて4回目を怒鳴られた。鶏は最後まで落とさなかったので、そこは評価してほしい。
*
「北の修道院までは馬車で丸1日。途中に、切り立った崖の下を通る細い道がある」
裏口で待っていたペルネッタが、地面に枝で地図を描いた。
「気になることがあってさ。お嬢様の馬車、御者が伯爵家の人間じゃなかった。見たことない顔」
「どういうことだ」
「あのお嬢様がいなくなって得する人がいるってこと。修道院に着いて手紙でも書かれたら困る人がね」
口封じか。
俺は鶏の盆を握りしめた。
「ところで兄さん、何でまだそれ持ってるの」
「返しそびれた」
「鶏ごと?」
「厨房に戻ったら、5回目を怒鳴られると思って」
ペルネッタは鶏を見て、俺を見て、何も言わずに地図に戻った。
「馬車は街道を大回りする。徒歩なら山を突っ切れば、夜明け前に崖道の上に出られるよ」
「山を突っ切る」
「体力3で」
「……行く」
「鶏は」
「持っていく。夜食だ」
ペルネッタは枝を捨てて、ため息をついた。
「あのさ。さっき扉を開けたの、見てたよ」
「怒られた」
「だろうね。あれ、スキルと関係ないでしょ」
「ない」
「じゃあ何でやったの」
「扉が重そうだった」
彼女はしばらく俺を見ていた。それから懐から小瓶を1本出して、俺の手に押しつけた。
「回復薬。つけにしとく」
この子がつけを認めたのは、たぶん史上初である。
*
山越えのことは、結果だけ書いておく。
転がり落ちた回数、3回。
川に落ちた回数、2回。
回復薬を飲みきった地点、全行程の半分。
鶏を食べた回数、0回。1回目に川へ落ちた時に流れていった。あれは俺の日当より高い鶏だったと思う。
崖の上に這い上がったのは、東の空が白みはじめた頃だった。
体力1。膝が笑っている。銀の盆だけはなぜか手放していなかった。鶏のいない盆を抱えて、俺は夜明けの崖に立った。
崖の下を、細い道が通っている。高さは20mほどあるだろう。
その道に、馬車が止まっていた。
まわりを黒い服の男たちが囲んでいる。5人。全員が剣を抜いている。御者台の男が、馬車の扉を外から開けた。
中から令嬢が引きずり出された。
夜会のドレスのままだ。濃い青の髪はほどけている。地面に膝をついた彼女の前で、男の1人が剣を持ち上げた。
令嬢は逃げなかった。
顔を上げて、まっすぐ剣を見ていた。
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【登場可能です】
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今回は待たされなかった。着いたのがギリギリだったからである。
俺は盆を草の上に置いて、立ち上がった。
その瞬間、背後の山の端から太陽が昇った。
本物の太陽だ。おとといのような支給品の光の玉ではない。朝の最初の光が俺の背中に差して、長い影が崖の下まで伸びていく。
高い所。逆光。
全部ある。
本物が、全部ある。
目の前がにじんだ。32年と2日、ずっと待っていた景色が今ここにあった。前世では歩道橋がせいぜいだったのだ。それが今は崖である。20mの崖の上に、朝日を背負って立っているのである。
ありがとうございます、女神様。ありがとうございます、太陽。
泣いている場合ではない。
俺は飛んだ。
飛んでから、20mというのは体力1が飛んでいい高さではないと気づいた。発動が0.5秒遅れていたら、令嬢より先に俺が死んでいた。
*
着地で道がへこんだ。
仮面はもう顔についている。背中でマントが朝の風をはらんでいる。視界は葉書1枚。それでも今日は朝なので、おとといよりはずっとよく見えた。
よく見えたので、気づいた。
俺の体が、燃えている。
黒い。足元から肩まで、黒い炎がめらめらと立ちのぼっている。熱くも何ともない。けれども朝の光の中で、その黒は恐ろしいほどはっきり見えた。光を吸いこむような、底のない色をしている。
闇より深い黒だ。
女神様は本当に、闇より深い黒を作ってくれたのだ。色見本には1種類しかないと言っていたのに。括弧の中に雑な字で書いていたのに。
格好いい。
これは格好いいぞ。おとといは見えなくて損をした。俺は自分の腕を眺め、足を眺め、できれば全身を鏡で見たいと思いながら顔を上げた。
「ひっ」
黒服の1人が剣を落とした。
「ま、魔族だ!」
「魔族が出た!」
違う。
御者が悲鳴を上げて馬に飛び乗り、馬車を置いて逃げていく。残った男たちは腰が引けたまま、剣の先をこちらに向けていた。
ここで初めて、俺は自分の姿を客観的に考えた。
角のある黒い仮面。全身から噴き出す黒い炎。崖の上から降ってきて、道をへこませた男。
完全に悪役である。
あの白い部屋では、格好いいとしか思わなかった。助けられる側からどう見えるかを、俺は1秒も考えていなかった。20分も熱弁しておいて、その1秒がなかった。
落ち着いてください、怪しい者じゃありません。そう言おうとした。
「騒ぐな、羽虫ども」
怪しい者そのものだった。
いや違うんです。話し合いましょう。剣をしまってもらえれば、こちらも何もしませんから。
「退け。3つ数える」
話し合う気のない台詞が出た。しかも勝手に数えはじめている。
「1」
待て。数えるな。俺は数えるとは言っていない。
「2」
早い。間が短い。せめてゆっくり数えてくれ。口を閉じようとしたが、顎は俺の言うことを聞かなかった。
黒服たちは退かなかった。破れかぶれになったのか、5人まとめて斬りかかってくる。
殺したくない。おとといの牛は魔物だったが、今日は人間だ。押したら壁まで飛ぶ。飛んだら死ぬ。加減はご自身でお願いいたします、と板にも言われた。
息だ。息を吹くだけにしよう。誕生日の蝋燭を消すくらいの息だ。
ふっ、と軽く吹いた。
「3」
5人は道の端まで転がって、崖下の茂みに頭から突っこんだ。足だけが5人ぶん、茂みの上に並んで突き出ている。ぴくぴく動いているので生きてはいるらしい。
蝋燭を消す息で、大人が5人飛ぶ。魔王は誕生日をどう祝っているのだろう。
よかった、と言おうとした。
「……命拾いしたな」
今回は珍しく、だいたい合っていた。
*
振り向くと、令嬢は地面に膝をついたままだった。
俺を見上げている。顔は真っ白だ。それでも目はそらさなかった。
「……あなたも、わたくしを殺しに来たの」
違います、と首を振ろうとしたが、体は腕を組んで仁王立ちしたままだった。違うと言いたい時に首も振れない体というのは、設計に問題があると思う。設計したのは俺だ。
「なら、早くなさい」
彼女は笑った。
笑い方を忘れた人が、無理に口の端を上げたような顔だった。
「もう構わないのよ。帰る場所もないの。信じてくれる人もいない。修道院で一生を終えるのも、ここで終えるのも、たいして変わらないでしょう」
胸のあたりが冷たくなった。
この人は剣を見ても逃げなかった。勇気があるからではない。逃げる理由がなかったのだ。
駄目だ、と思った。
前世で川に飛びこんだ時と同じだった。考えるより先に口が開いていた。
死なないでください。もったいないですよ。
「死ぬことは許さぬ」
自分の声に、自分で驚いた。
「貴様の命は、貴様が決めてよいほど安くはない」
偉そうである。
人の命について、俺は何の権利があって許すだの許さぬだの言っているのか。日当から皿代を引かれている男が言うことではない。ただ、言いたかったことからは、それほど遠くなかった。
令嬢の目が大きくなっている。
もう1つ、どうしても言っておきたいことがあった。
昨日の夜会、俺もあそこにいました。あなたは何もしていないと思います。
「あの場の愚か者どもの目は節穴だ。我は見ていた」
伯爵家の皆さんを愚か者呼ばわりしてしまった。
日当を払ってくれる相手なのに。
それに「我は見ていた」である。壁ぎわで鶏を持って見ていただけの男が、ずいぶん意味ありげに言ったものだ。陰からすべてを見通していたように聞こえる。実際には階段に近づくなと言われていた。
「あなた……あの場に、いらしたの」
令嬢がよろめきながら立ち上がる。手が伸びてくる。
答えようとした。けれども、指先がもう透けはじめていた。
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【解決を確認しました】
【退場します】
――――――――――――――――――
待ってくれ。まだこの人を修道院まで送っていない。馬車も御者もいないのに、こんな山の中に置いていくのか。これは解決なのか。女神様の解決の基準はどうなっているんだ。
「……達者でな」
それは置いていく側の台詞である。
右手から輪郭がほどけていく。黒い炎が朝日の中で細く揺らいで、マントの裾から空に散っていく。
令嬢の指が、消えかけた俺の袖をつかもうとして、空をつかんだ。
その時になって思い出した。
銀の盆だ。
崖の上に置いてきた。伯爵家の紋章が入った、あの盆を。
*
落ちた先は、石の床だった。
風が強い。見回すと、すぐ横に大きな鐘が下がっている。下を見ると、グレンツの街の屋根が小さく並んでいた。
教会の鐘楼の上である。
初日に下見をした、あの鐘楼だ。逆光は朝しか取れないと判定した場所に、朝、転送されている。皮肉がきいている。
追跡不能な場所、という条件は今回も守られていた。問題は、俺自身も下りられないことだ。梯子の戸には外から鍵がかかっている。
することがないので、採点をした。
高い所。崖、20m。10点。
逆光。本物の朝日。10点。むしろ20点やりたい。
到着。ギリギリ。10点。
戦闘。息。10点。
台詞。5点。今回は半分くらい合っていた。
退場。10点。
忘れ物。盆。
生涯最高の出来である。前世の812回を全部足しても、今朝の1回にかなわない。
俺は鐘楼の手すりにもたれて、余韻にひたった。
正午の鐘が鳴った。
真横で、である。
ペルネッタが見つけてくれたのは、その少しあとだった。
「何でそんな所にいるの」
「え?」
「何でそんな所にいるの!」
「聞こえない! 鐘が!」
梯子を下りても、耳の奥でまだ鐘が鳴っていた。彼女は指を折りながら、大きな声で報告を始めた。
「お嬢様は無事。通りかかった商人の荷車に拾われて、修道院に着いたって。茂みに刺さってた5人は衛兵が引き取った」
「よかった」
「それと、あの崖道に黒い炎の魔族が出たって、街じゅうの噂になってる」
「魔族じゃない」
「知ってるよ。あと料理長が怒ってる。銀の盆を返せって。銅貨40枚だって」
日当は20枚。皿で10枚引かれ、紹介料で5枚引かれ、残りは5枚。
そこから40枚を引く。
「……俺は1晩働いて、山を越えて、35枚の借金を作ったのか」
「回復薬のつけが10枚あるから45枚ね」
「鶏は」
「請求に入ってなかった。忘れてるんじゃない」
「黙っておこう」
「孤高の覇者がそれ言う?」
俺は教会の石段に座りこんだ。
登場は、生涯で最高だった。
ただ1つ気がかりなのは、あの令嬢の最後の顔だ。
消える直前、彼女は俺の袖をつかもうとしていた。あれはたぶん、文句を言おうとしたのだと思う。山の中に置き去りにされるのだから当然である。
しかも現場には、伯爵家の紋章入りの盆が残っている。
あれを見つけたら、彼女はどう思うだろう。
自分を捨てた家の手先が、わざわざ追ってきたと思うのではないか。
「ペルネッタ。盆の回収を頼めるか」
「もうないよ」
「ない?」
「あのへんの猟師に聞いた。崖の上には何もなかったって。誰かが持ってったんじゃない」
誰が、と聞く前に、彼女は肩をすくめた。
「お嬢様が荷車に乗る時、ドレスの下に平たい物を抱えてたって、商人が言ってたけどね」
「……証拠として押さえられたのか」
「そうかなあ」
「訴えられる。伯爵家の手先として訴えられる。土下座の相手が2人になった」
ペルネッタは何か言いかけて、やめた。
言っても20分かかると思ったのだろう。




