第4話 荷物持ちのハルヴァ
僕の名前を最後に呼んだのは、孤児院の院長先生だった。
12歳の春のことだ。玄関の前に鎧を着た男の人が立っていて、院長先生は僕の背中を押しながら言った。
「ハルヴァ。この方たちについていきなさい。お前は体が丈夫だから、きっと役に立つ」
それから3年、僕をハルヴァと呼ぶ人はいなかった。
冒険者パーティー『鉄の牙』での僕の呼び名は「荷物」だ。
荷物持ち、ですらない。荷物。おい荷物、遅れるな。荷物、水。荷物が口をきくな。
最初の頃は、呼ばれるたびに胸のどこかが引っかかっていた。半年もすると何も感じなくなった。呼ばれて返事をして、言われたものを出す。それだけのことだ。
背負う荷は、僕の体より大きい。
4人ぶんの食料と水。替えの武器。野営の道具。薬。倒した魔物から剥いだ素材。迷宮に潜る日数が延びるほど、中身は増えていく。
重かった。
重かったけれど、それを口に出したことはない。1度だけ、最初の月に言ったことがある。少し休ませてくださいと頼んだら、リーダーのドルガスさんは僕を見もしないで答えた。
「その程度も持てないなら、お前に何の値打ちがある」
そのとおりだと思った。
僕は剣が使えない。魔法も使えない。字も満足に読めない。持てること以外に、何もない。
だから持った。
肩の皮がむけても、膝が笑っても、持って歩いた。僕が荷物を落とさずにいるかぎり、僕はここにいていい。そういう約束なのだと思っていた。
3年間、1度も落とさなかった。
それだけが僕の自慢だった。誰にも言ったことはないし、誰も数えてはくれなかったけれど。
*
その日、北の迷宮の深い階で、僕たちは主の広間に踏みこんでしまった。
踏みこむつもりはなかったはずだ。ドルガスさんは手前の階で引き返すと言っていた。それなのに、落とし穴だらけの通路を避けて回り道をするうちに、気づけば天井の高い広間に出ていた。
光る苔の明かりの中で、黒い狼の群れが一斉にこちらを向いた。
その奥から、牛の頭をした巨人が立ち上がる。
「退くぞ!」
ドルガスさんが叫んだ。4人が通路へ走る。僕も走ろうとした。
足が遅れる。背中の荷が重い。いつものことだ。いつものことなのに、その日は狼が速すぎた。
通路の入り口で、ドルガスさんが振り返った。
目が合った。
手を貸してくれるのだと思った。3年間そんなことは1度もなかったのに、あの瞬間だけは、なぜかそう思ってしまった。
ドルガスさんは僕の胸を蹴った。
僕は荷物ごと、広間の床に転がった。
「そこで時間を稼げ」
足音が遠ざかっていく。4人ぶんの足音が、1度も止まらずに小さくなっていく。
ああ、そうか。
ふしぎと、驚きはなかった。
僕は荷物だ。荷物は、邪魔になったら置いていくものだ。
*
短剣を抜いた。
野営の時に肉を切るためのもので、戦うための剣ではない。それでも両手で握って、狼に向けた。
どうして構えたのか、自分でも分からない。助かるとは思っていなかった。誰かが戻ってくるとも思っていなかった。
ただ、背中の荷を下ろすことだけは考えなかった。
下ろせば軽くなる。走って逃げられたかもしれない。それでも下ろさなかった。この荷物を背負っていない僕は、本当に何でもなくなってしまうからだ。
狼が跳んだ。
短剣が牙に当たって、手から飛んでいく。
尻もちをついた。
牛の巨人が、ゆっくり歩いてくる。斧を引きずる音がする。あの斧は僕の背丈と同じくらいある。
もういい、と思った。
僕は初めて、自分の意思で荷物を下ろした。
下ろして、両腕で抱えた。
誰かに届けるためではない。届ける相手はもう逃げてしまった。それでも抱えていたかった。3年間、僕が持っていたのはこれだけだったから。
最後まで落とさなかった、と思って死にたかった。
荷物の上に顔を伏せる。
布からは、干し肉と油と、汗の匂いがした。僕の汗だ。3年ぶんの。
誰も来ない。
分かっていた。孤児院の玄関で背中を押された日から、ずっと分かっていたことだ。僕のために足を止める人は、この世界のどこにもいない。
斧が風を切る音がした。
*
斧は、来なかった。
代わりに轟音がして、床が揺れた。
顔を上げた。
広間の柱が1本、根元から折れて倒れていくところだった。大人が3人で腕を回しても届かないような石の柱が、焼き菓子のように砕けている。
その手前に、人が立っていた。
黒いマントが、風のない広間の中で大きくひるがえっている。
顔は見えなかった。その人の背中の向こうに、小さな太陽のような光が浮かんでいて、体の正面がすべて影になっていたからだ。影の中に仮面の輪郭だけが分かる。頭から目元までを覆う黒い仮面で、右と左で形が違っていた。片側にだけ、短い角がある。
そして、その人の足元だけ、光が届いていなかった。
うまく言えない。背中の光は広間じゅうを照らしているのに、その人のまわりにだけ、照らされない場所がある。闇が燃えている、と僕は思った。火の形をした闇が、音もなく揺れていた。
その人の左手は、斧の刃を止めていた。
握っているのではない。手のひらを添えているだけだ。それなのに牛の巨人が両腕で引いても、斧は少しも動かなかった。
「ほう……」
低い声だった。
広間の端まで届くような、静かな声だ。巨人の力を測って、それが取るに足らないものだと確かめた人の声だった。
仮面が、僕のほうを向いた。
「案ずるな、小僧」
息ができなかった。
小僧。僕のことだ。この人は、僕に向かって話している。荷物ではなく、僕に。
狼たちがうなり声を上げて輪をせばめた。
その人は振り向きもしなかった。
「失せろ、犬ども」
それだけだった。
10頭の狼が、1頭残らず尻尾を巻いて逃げていった。『鉄の牙』の4人が束になっても追い払えなかった群れが、たった一言で消えた。
残った巨人に、その人は右手を伸ばした。
殴るのではなかった。扉を押すような、何でもない手つきだった。
「死ぬがいい」
巨人は広間の向こうの壁まで飛んで、壁ごといなくなった。
岩の崩れる音が、長いあいだ続いた。
その人は自分の右手をしばらく眺めていた。それから、つまらなそうに言った。
「脆いな」
迷宮の主だった。
何十人もの冒険者を殺してきたはずの主が、その人にとっては脆いだけのものだった。
*
静かになった。
その人が、僕を見下ろしていた。
仮面の隙間の奥は暗くて、目は見えない。それでも見られているのは分かった。僕の顔ではなく、僕の腕の中を見ている。
荷物を。
怒られる、と思った。
こんな物を抱えて震えているから死にかけたのだ、と言われる。置いて逃げればよかったのに、と呆れられる。この3年、僕にかけられた言葉はすべてそういうものだった。
その人は言った。
「その荷、貴様ごときが1人で背負えるものか」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
貴様ごとき。
いつもの言葉だ、と最初は思った。お前なんかに、という意味の。お前は弱い、お前は足りない、という。
けれども違った。
その人は、僕が弱いとは言わなかった。
この荷は、1人で背負えるものではないと言ったのだ。
頭の中で、3年ぶんの何かが音を立てて崩れていく。
ドルガスさんは言った。その程度も持てないなら、お前に何の値打ちがある。
その程度。
4人ぶんの食料と水と武器と、3年ぶんの罵声を、僕はずっと「その程度」だと思って背負ってきた。重いと感じるのは僕が弱いからで、苦しいのは僕が足りないからだと思ってきた。
違ったのか。
重かったのは、荷物のほうだったのか。
迷宮の主を片手で止める人が、これは1人で背負うものではないと言っている。世界でいちばん強い人の目から見ても、これは重いのだ。
1人で、とその人は言った。
1人で背負えるものか、と。
それはつまり、誰かと一緒に持ってよかったということだ。持ってくれる誰かが、いてよかったということだ。
涙が出た。
止めようとしたのに止まらなかった。蹴られた時も、置いていかれた時も出なかったものが、今になってあふれてくる。3年間、いや、孤児院の玄関で背中を押されたあの日からずっと誰かにそう言ってほしかったのだと、言われて初めて気づいた。
もう1度聞きたかった。聞きまちがいではないと確かめたかった。
その人は腕を組んで、僕を見下ろしたまま言った。
「……二度は言わぬ」
はい、と僕は思った。
声にはならなかった。
1度で十分です。一生ぶん、いただきました。
*
「あ、あの……」
お礼を言わなければならない。名前を聞かなければならない。そう思って口を開いた時、その人が僕の前に膝を折ろうとした。
僕と同じ高さまで、下りてこようとしてくれたのだと思う。
その指先が、透けていた。
右手の先から、輪郭が闇にほどけていく。煙のように薄れて、手首が消え、肘が消えていく。足元も同じだった。あの闇の炎に呑まれるように、少しずつ迷宮の暗がりへ溶けていく。
行ってしまう。
「待ってください」
手を伸ばした。
指は、その人の胸を通り抜けた。何にも触れなかった。冷たくも温かくもなかった。
その人は最後に、短く言った。
「……さらばだ」
マントの裾がひとつ大きくひるがえって、端から闇に散っていく。背中の光が細くなる。仮面の輪郭が薄れて、消えた。
広間には、僕だけが残った。
倒れた柱と、壁の大穴と、光る苔。それから僕と、僕の荷物。
夢ではなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。立ち上がろうとして、広間の壁ぎわの岩の根元に、何かが落ちているのに気づいた。
肩かけの袋だ。
布の、小さな袋だった。僕たちの物ではない。さっきまでここにはなかった。
あの人の物だ。
そう分かったとたんに、体が動いていた。這うようにして岩まで行き、袋を拾い上げる。軽い。拍子抜けするほど軽かった。あれほどの人が持ち歩く物にしては、あまりにも軽い。
僕はそれを胸に抱えた。
それから自分の荷物を背負い直した。重さは少しも変わっていない。けれども、もう「その程度」とは思わなかった。
これは重い。
重い物を、僕は3年間持ってきた。
*
迷宮を出るまで、魔物には1度も会わなかった。主が死ぬと、しばらくは皆が息をひそめるのだと聞いたことがある。
入り口の外は夜になりかけていた。
『鉄の牙』の4人が、焚き火を囲んでいた。
僕を見て、全員が立ち上がった。幽霊を見たような顔をしている。
「……お前、なぜ生きている」
ドルガスさんの声がかすれていた。
「主は」
「死にました」
「誰がやった」
「分かりません。名前を聞く前に、行ってしまいました」
4人が顔を見合わせる。僕はその間に、背中の荷を下ろした。
地面に置いて、肩紐の形を整える。3年間そうしてきたように、中身が崩れないように丁寧に。
「お返しします」
「何だと」
「食料は2日ぶん残っています。薬は右の内袋です。3年間、1度も落としませんでした」
それだけ言って、頭を下げた。
ドルガスさんが何か怒鳴った。腕をつかまれそうになった。けれども後ろの3人が、青い顔でそれを止めていた。主を殺した誰かが、まだ近くにいるかもしれないと思ったのだろう。
僕は歩き出した。
背中が軽い。軽すぎて、うまく歩けなかった。3年ぶりに何も背負っていない体は、風に飛ばされそうなほど頼りない。
腕の中には、あの小さな袋だけがある。
これは落とさない、と思った。
誰に言われたわけでもない。値打ちを示すためでもない。僕が持ちたいから持つ。そんな荷物は、生まれて初めてだった。
*
岩山を下りたところで、女の子に呼び止められた。
赤毛を短く切った、僕と同じくらいの年の子だ。大きすぎる上着を着ている。
「ねえ。その袋、どこで拾ったの」
僕は袋を抱え直した。
「拾ったんじゃない。預かってるんだ」
「誰から」
「……分からない。でも、持ち主に返す」
「持ち主、あたしの知り合いなんだけど」
信じなかった。両腕に力をこめて、1歩下がった。
女の子は呆れたように息をついて、指を折りながら言った。
「中身は魔物よけの香が1つ。それと財布。銅貨が10枚。袋の底の左すみに、赤い糸で縫った跡がある。あたしが繕ったから」
確かめた。
全部、合っていた。
それでもしばらく、僕は手を離せなかった。これを渡してしまったら、あの人とつながる物が何もなくなる。そう思うと指が動かない。
女の子は急かさなかった。腕を組んで、黙って待っていた。
やがて僕は、袋を差し出した。
荷物は、届けるためにある。3年間で僕が覚えた、たった1つのことだ。
「伝えてほしいことがあります」
「何?」
「荷物は、落としませんでした、と」
女の子は袋を受け取って、ふしぎそうな顔で僕を見た。泣いたあとの僕の顔を、しばらく眺めていた。
「あんた、名前は」
喉が詰まった。
3年ぶりだった。誰かにそれを聞かれるのは。
「……ハルヴァ」
「ふうん。ハルヴァね。覚えとく」
女の子はそれだけ言って、袋を肩にかけ、街のほうへ歩いていった。
僕はその背中を見送ってから、空を見上げた。
星が出ている。
あの人は今、どこにいるのだろう。次は誰の前に現れるのだろう。
その時、あの人の袋を持って後ろに立っている人間がいたらいい、と思った。あれほど強い人が、あんな小さな袋を、岩の下に置き忘れていくのだ。きっと誰かが持って歩いたほうがいい。
1人で背負えるものか、とあの人は言った。
それなら、あの人だって同じはずだ。
持つことなら、僕にはできる。
3年間、1度も落とさなかったのだから。




