第23話 情報屋ペルネッタ
あたしは、ただでは何もしない。
情報は1件いくら。荷物の回収は1回いくら。干し肉は1切れいくら。粥は1杯いくら。全部、帳面につける。
それがあたしの決まりだ。
6歳の時、母さんに市場へ連れていかれた。
人の多い日だった。母さんはあたしを果物屋の樽の横に立たせて、言った。
「ここで待ってて。すぐ戻るから」
待った。
日が暮れるまで待った。店がしまって、市場に誰もいなくなっても待った。動いたら、戻ってきた母さんがあたしを見つけられないと思ったからだ。
夜は樽の陰で寝た。
次の日も待った。その次の日も。
3日目に果物屋のおじさんが言った。
「嬢ちゃん。おっ母さんは、もう来ないよ」
知ってた。
2日目の朝には分かっていた。分かっていて、もう1日だけ待ったのだ。
そのあと、知らない男に手を引かれた。飯を食わせてやると言われた。連れていかれた先で、口を開けさせられて、歯を見られた。腕を押された。背中をたたかれた。
銅貨40枚、と男は言った。
それがあたしの、最初の値段だった。
逃げた。台所にあった胡椒の壺をつかんで、男の顔にぶちまけて。それからずっと、胡椒は袋に入れて持ち歩いている。
*
橋の下にはばあさんが住んでいた。
グレンツでいちばん古い情報屋だった。名前は知らない。皆が「帳面のばあさん」と呼んでいた。
ばあさんはあたしを見て言った。
「置いてやってもいいよ。ただし、飯は1杯2枚。寝床は1晩1枚。つけとくからね」
「金、ない」
「だからつけとくんだよ。働いて返しな」
ばあさんは帳面のつけ方を教えてくれた。
「いいかい。人は信用するんじゃないよ。口で言うことは、明日には変わる。すぐ戻るなんて言葉は、いちばん当てにならない」
あたしはうなずいた。
「当てになるのは、貸しと借りだけだ。貸しのある相手は、返すまで縁が切れない。借りのある相手にも、返すまではつながってる。帳面に書いてあるかぎり、そいつはお前の世界からいなくならないんだ」
ばあさんは2年前の冬に死んだ。
帳面を残していった。最後の頁にあたしの名前があった。
ペルネッタ 貸し 銅貨312枚。
その下に震えた字で書き足してあった。
取り立て不要。ただし、消すな。
意味が分かったのは、ずっとあとだ。
それから、あたしは1人でやってきた。
誰も信用しない。ただでは何もしない。助けは来ない。来ると思って待つのは、6歳の3日間でやめた。
ずっと、それでうまくいっていた。
あのばかが、樽に登るまでは。
*
あの日、あたしは路地で男2人に詰められていた。
売った情報が外れたと言うのだ。外れてはいない。あいつらが行くのが3日遅かっただけだ。
襟首をつかまれた。
怖くはなかった。上着の内側に胡椒の袋が4つある。1つ目で目をつぶし、2つ目でもう1人をやって、あとは走る。何度もやってきたことだ。
袋に手をかけた時、路地の入り口で、大きな音がした。
誰かが樽から落ちていた。
痩せた若い男だ。麻のシャツに茶色のズボン。どこにでもいそうな格好で、どこにもいなそうな真剣さで、樽によじ登ろうとしていた。
落ちた。
また登った。落ちた。
男たちも、あたしも、見ていた。見るしかなかった。
「続けててください。すぐ行きますから」
そいつはそう言った。
4回目で樽の上に立った。腕を組んだ。顎を引いた。何かを待っているようだった。何も起きなかった。
それから、何もない空中に向かって怒鳴りはじめた。
頭がおかしいのだと思った。
「その子から、手を離せ」
そう言って、樽から降りようとして、肩から落ちた。
「すみません、今のなしで」
あたしは、胡椒の袋を握ったまま、動けなかった。
そいつは殴られた。
1発で転がった。紙くずみたいに。あたしでも勝てそうなくらい、弱かった。
立った。
また殴られた。立った。
3発目で壁まで飛んだ。それでも戻ってきて、あたしと男たちのあいだに立った。
「どけ。お前に用はねえんだ」
「どかない」
「何でだよ」
「登場したからだ」
意味が分からなかった。
殴られながら、声が裏返ったからもう1回やらせてくれ、と頼んでいた。自分の血が男の袖についたら、すみませんと謝っていた。
ばかだ。
本物の、底なしのばかだ。
逃げればいいのに。知らない子どものために、何で。金にもならないのに。あたしは頼んでもいないのに。
男の1人が気味悪そうに言った。
「……何で立つんだ、こいつ」
そいつは鼻血を出したまま答えた。
「立たないと、後ろが見えるだろ」
後ろ。
後ろにいるのは、あたしだ。
そいつの背中は、薄かった。肩は震えていた。あたしを隠せるほどの幅もなかった。
それでも、そこに立っていた。
6歳の時から、あたしの前に立った人間は、1人もいない。
母さんはあたしを樽の横に置いていった。人買いはあたしの歯を見た。ばあさんは、あたしを置いてくれたけれど、前には立たなかった。自分で立て、と教えた。
前に、誰かの背中がある。
それが、どういうことなのか。あたしは8年ぶんの時間をかけて、忘れていた。
胡椒を投げた。
そいつの手首をつかんで、走った。
*
橋の下で、あたしは聞いた。
何で入ってきたの。あたしのこと知らないよね。金にもならないよ。
「困ってるように見えた」
「それだけ?」
「それだけだ」
嘘をついている顔ではなかった。
あたしは人の嘘を売り買いして暮らしている。嘘の顔は見れば分かる。
そいつには裏がなかった。
裏がない人間がいちばん信用できない。ばあさんならそう言う。当てになるのは貸しと借りだけだ。
だから、値段をつけた。
1件につき銅貨5枚。
そいつは値切りもせずに払った。
その日の夜、北の迷宮から戻ってきた。柱が折れて、主が死んでいた。着いてからが違う、と言っていたのは本当だった。
次の日に20分かけて全部聞いた。
女神様。注文書。誰かが危ない時だけ、魔王と同じ強さになる。
信じない、とあたしは言った。
信じたくなかったのだ。
それが本当なら、初めて会ったあの日のことが、説明できなくなる。
あの路地で、そいつに力はなかった。
仮面も、炎も、何も出なかった。出ないと分かってからも、立っていた。
力があるから助けるのなら、分かる。強い者が弱い者を助けるのは、強いからできることだ。貸しを作るのと同じだ。
あいつは、違う。
体力3のまま、殴られながら、立つ。
あいつに助けられた人たちは、皆、仮面と炎を見ている。指で岩を止め、山を割るところを見ている。
あたしだけが、知っている。
あのばかは何も持っていなくても来る。
*
それから、ずっと帳面につけている。
情報料。回収手数料。回復薬。干し肉。看病代。ロバ代。
564枚になった。
あいつは一生返せない。発動している時は銅貨1枚も受け取れないし、発動していない時は鍬も持てない。あたしがそう言ったら、あいつは今さら気づいた顔をしていた。
取り立てる気は、ない。
でも、消す気もない。
帳面に書いてあるかぎり、そいつはお前の世界からいなくならない。
ばあさんの言ったことだ。
あいつは助けた相手の前から必ず消える。礼も聞かずに。名前も言わずに。指先からほどけて、どこかへ飛んでいく。
あたしの前からは、消えない。
564枚の借りがあるからだ。
そういうことに、してある。
値段を上げるのも同じ理由だ。5枚が50枚になり、80枚になった。あいつは毎回「上がってないか」と言って、毎回払う。つけで。
ただにしたら、終わってしまう気がするのだ。
ただでやるというのは、信用するということだ。信用した相手は、ある日「すぐ戻る」と言って、戻ってこない。
貸しがあるうちは、大丈夫。
あたしは14歳にもなって、まだ6歳の樽の横に立っている。
*
もう1つ、あいつに言っていないことがある。
あいつが助けた人たちのことだ。
迷宮の荷物持ちは、あいつの袋を両手で抱えて、あたしが知り合いだと分かるまで離さなかった。泣いたあとの顔で、荷物は落としませんでした、と言った。
あいつは当てつけだと思っている。
崖の令嬢は、あいつの置いていった盆を抱えて修道院に入り、ひと月で塀を越えた。今は街の宿にいて、毎日、伯爵家の使用人の顔を1人ずつ確かめている。
あいつは訴えられると思っている。
谷の聖女は丘の上まで薬草を持ってきた。下町の少年の弟を診てほしいと頼んだら、次の日には歩いて来た。帰りぎわに、あの方はちゃんと召し上がっていますか、と聞いた。
東の村のじいさんは、戸口に石の腰かけを置いて、濃い茶を用意して待っている。
染物屋の姉は看板に黒い炎を染めた。
関門の騎士は門を人に預けて南へ下りてきた。背が高いから、遠くからでもすぐ分かる。
下町の少年は素顔で路地を歩いている。
賞金稼ぎは何も言わずに酒をついだ。あれは、気づいている。
勇者は仲間の墓を作りに北の峠へ向かった。そのあとは城へ行くつもりらしい。
皆、あいつを探している。
文句を言うためじゃない。
あたしは全部知っている。知っていて、言わなかった。あいつが「怒ってたか」と聞くたびに、そうかなあ、とだけ答えてきた。
20分かかるから、と自分には言い訳をした。
本当は、違う。
あいつがそれを知ったら。
自分の袋を持ちたがる者が、茶を淹れて待つ者が、隣に立ちたがる者が、これだけいると知ったら。
あたしは、要らなくなる。
情報を売って、荷物を回収して、粥を煮るだけの、橋の下の子どもは。
あいつは564枚を誰かに肩代わりしてもらって、帳面から名前が消える。
それが、怖かった。
情報屋が、いちばん大事な情報を握りつぶしていた。客のためではなく、自分のために。
ばあさんが生きていたら、帳面でたたかれている。
*
昨日の夜、客が来た。
あいつは鍋に呼ばれて、いなかった。
灰色の外套を着た、背の高い女だった。顔は見えなかった。声は静かで、丁寧だった。足音がしなかった。
女はあたしの前に革袋を置いた。
口があいていた。金色が見えた。
「金貨200枚ある」
あたしは、生まれてからそんな額を見たことがない。
銅貨で2万枚。橋の下を出て、家が買える。店が持てる。一生、粥の値段を数えなくていい。
「黒い炎の仮面のことを、教えてもらいたい」
「どんなことを」
声は震えなかったと思う。値段の話をしている時、あたしの声は震えない。
「あの者が、普段どこにいるか。誰と親しいか」
「それだけで200枚?」
「もう1つ」
女は少し身をかがめた。
「あの者が、力を使えない時を知りたい」
背中が冷たくなった。
「王は、気づいておられる。あの者は、いつも誰かの危機に現れる。誰の危機でもない時に、あの者を見た者はいない。なぜか」
女の声はやさしかった。
「誰も危なくない時、あの者はどこで、何をしているのか。それを知っている者に、王は200枚を払う。足りなければ、言いなさい」
あたしは、知っている。
誰も危なくない時、あいつは橋の下で固いパンをかじっている。体力3で。鍬も持てずに。スライムにも負ける体で。
そして、自分が危ない時には、絶対に力が出ない。
あいつが自分でそう決めたからだ。
お助けキャラが自分を助けてどうするんですか、と笑って。
あたしはあいつを殺せる情報を持っている。
世界で、たった1人。
「知らない」
言った。
「あたしは下町のことしか扱ってない。魔族だか仮面だかは、新聞に聞いて」
「そうか」
女は袋を取らなかった。
「では、置いていこう。気が変わったら使いなさい。赤毛の娘が連れだと、もう聞いている」
知られていた。
「お前に聞くのは、やめにする。お前を見ていれば、いずれ分かることだ」
女は足音もなく出ていった。
金貨の袋が橋の下に残った。
あたしは朝まで、それに触らなかった。
朝になって、川に蹴りこんだ。
200枚が沈んでいくのを、最後まで見ていた。帳面のばあさんが見たら、気を失うと思う。
ただでは何もしないあたしが、2万枚を捨てた。
*
あいつには、話した。
ただで。
情報料を取らずに何かを教えたのは、生まれて初めてだ。口から「ただ」という言葉が出た時、自分の声ではないようだった。
あいつは青い顔をした。
「お前が危ない。ここを離れたほうがいい」
そっちか、と思った。
「あたしじゃなくて、兄さんでしょ。狙われてるのは」
「俺はいい。お前がピンチになれば、俺は出る。魔王と同じ強さで」
「兄さんがピンチになったら?」
「俺のことはいいんだ」
「よくないよ」
「お助けキャラが自分を」
「それ、もう聞いた」
あいつは口を閉じた。
分かっていないのだ。
自分が殴られても立つくせに、自分が殴られることを、勘定に入れていない。帳面の、自分の欄がない。貸しも借りも、自分のぶんだけ書いていない。
あたしはそれがずっと腹立たしかった。
今夜、ようやく分かった。
腹が立っていたのではない。
怖かったのだ。
あいつは今夜も橋の下で寝ている。
寝言を言っている。遅かったか、とか、見ていられんな、とか。口上の練習だ。夢の中では、言いたいとおりに言えているらしい。
あたしは火のそばで、帳面を開いた。
いちばん後ろの頁だ。
そこに名前が並んでいる。あいつを探している人たちと、今どこにいるのか。あたしが握りつぶしてきた、いちばん大事な情報だ。
ハルヴァ。街の運び屋の寄り合い所。
セラフィーナ。川ぞいの宿『白鷺亭』。
ミュゼ。西の谷の教会。
ガンドルフ。東の廃村。
ノエミとピア。下町の染物屋。
アデライド。街の南の宿場。
トビア。下町の長屋の2階。
ラザール。北へ向かった。足どりは追える。
ルチル。北の峠へ。その先の道も追える。
あいつは、自分を助けない。
自分のピンチでは何も起きない。そう注文した。変えるつもりもないと、女神様にも言ったそうだ。
だったら。
誰かがあいつの前に立つしかない。
あの路地で、あいつがあたしの前に立ったみたいに。
あたしでは、足りない。胡椒の袋が4つあるだけの、14歳の子どもだ。
足りないなら、集める。
あたしは情報屋だ。誰がどこにいて、何を探しているかを知っている。それをつなぐのがあたしの仕事だ。
紙を出した。
手紙を書く。9通。
あなたの探している人は、ここにいます。その人は今、危ない。来てください。
書きながら、手が止まった。
これを出したら、皆が来る。
あいつは、自分がどれほど待たれていたかを知る。袋を持ちたがる者も、茶を淹れる者も、隣に立ちたがる者も。
橋の下の情報屋は要らなくなる。
564枚の帳面は、誰かが払って、閉じられる。
それでも、いい。
いなくなられるよりは、いい。
あいつが誰かの隣で、あたしのいない場所で、ばかみたいに笑っているなら。そのほうが、ずっといい。
ばあさんの字を思い出した。
取り立て不要。ただし、消すな。
ばあさんも怖かったのだと思う。あたしが、いなくなるのが。
それでも最後に、取り立て不要、と書いた。
あたしは、9通の手紙の最後に、同じことを書いた。
お代は、いりません。
帳面の、いちばん新しい頁を開いた。
ジン 貸し 銅貨564枚。
その下に書き足した。字が震えた。
取り立て不要。ただし、消すな。
消さない。
あたしの世界から、いなくならないでほしい。
それだけは、ただでは譲れない。
遠い所へのぶんは、夜のうちに運び屋の寄り合い所へ託した。
夜が明ける前に、あたしはロバを借りに行った。
借り賃は、自分の財布から出した。




