第20話 復讐者ラザール
黒い炎は、水では消えない。
それを知ったのは、10年前の秋だ。
俺は山あいの村の樵だった。20歳で、女房がいて、3歳になる娘がいた。女房はマルタといい、娘はニナといった。
その日、俺は朝から山に入っていた。
昼すぎに谷のほうから煙が上がった。
黒い煙ではない。
黒い、炎だった。
斧を捨てて走った。村に着いた時、家は30軒とも燃えていた。火は黒くて、音がしない。熱だけが、顔の皮をはがすように吹きつけてきた。
うちは村のいちばん奥にあった。
戸は開かない。蹴破った。中は黒い火でいっぱいだ。奥の寝間から、ニナの泣く声がした。マルタが名を呼んでいた。俺の名を。
桶の水をかぶって飛びこんだ。
水は何の役にも立たなかった。
左の頬と首が焼けた。それでも手を伸ばした。梁が落ちてきて、俺は外へ弾き出された。
声はそれきり聞こえなくなった。
村の真ん中に男が立っていた。
灰色の肌をした、背の高い男だ。体から黒い炎を上げていた。俺を見て、笑っていた。
殺されると思った。殺してくれと思った。
男は、俺の焼けた顔を眺めて、言った。
「1人くらいは残しておこう。そのほうが、おもしろい」
そして、いなくなった。
俺は、おもしろいから生かされた。
*
10年、その男を追った。
樵の斧を大剣に持ち替えた。賞金稼ぎになった。金のためではない。魔物を斬る腕を磨くのに、いちばん手っとり早かったからだ。
黒い炎の噂を聞けば、どこへでも行った。北の果てにも、南の港にも。
奴の出方を調べた。
高い所から現れる。必ず日を背にする。顔を見せず、偉そうな口をきき、殺す前に一言ある。月の夜は東の屋根。夕暮れ時を好む。
焼け跡をいくつも見た。
どの村にも1人だけ生き残りがいた。
そいつらの目を見れば分かった。俺と同じ目をしていた。おもしろいから残された者の目だ。
名前を呼ばれなくなった。
賞金稼ぎ、と呼ばれる。黒い炎を追う男、と呼ばれる。ラザールという名を知っている者は、もうこの世に俺しかいなかった。
酒の味が分からなくなった。
飲むことは飲む。夜を越すのに要るからだ。けれども舌は何も感じなかった。飯も同じだった。噛んで、飲みこむ。それだけだ。
笑ったことは1度もない。
笑い方を忘れたのではなかった。笑うという行いが、あの男の顔とつながってしまっていた。口の端が上がりかけるたびに、黒い炎の中の笑いを思い出す。
それで、やめた。
10年目の秋に手配書を見た。
黒い仮面。黒い炎。高所より出現。口が悪い。
仮面をつけている、という点だけが違った。
それ以外は、俺の調べ上げた奴そのものだった。
*
グレンツの『錆びた錨』で飲んでいると、隣に坊主が座った。
「隣、いいですか」
痩せた若いのだ。17歳だと言った。腕は細く、肩は薄く、魔物どころか鶏にも負けそうに見えた。
「黒い炎の仮面を追ってるって、聞きました。俺も追ってます」
賞金稼ぎか、と聞くと、研究をしていると言った。32年ほど。
頭のおかしい坊主だと思った。相手にしないつもりだった。
「あの。黒い炎の人って、どんなふうに現れるんですか」
答える義理はなかった。
それなのに、口が動いていた。
高い所から現れる。必ず日を背にする。偉そうな口をきく。殺す前に、必ず一言ある。
「分かってますね!」
坊主が立ち上がった。
目が輝いていた。
高い所と逆光は基本なんです、と坊主は言った。偉そうな一言は短いほどいい。去り際はどうですか。何か残していきますか。
俺は杯を持ったまま固まっていた。
10年だ。
10年、俺は奴の話を誰ともしなかった。
する相手がいなかったのではない。話せば、皆が目をそらした。気の毒そうな顔をするか、関わりたくないという顔をするか。どちらかだった。
この坊主は身を乗り出した。
俺が10年かけて調べたことの1つ1つに、うなずき、言葉を足し、もっと聞きたがった。
月の逆光は夕日より弱い。だから夕暮れを好む。西を背にする。
全部、分かっていた。
どこで調べたのかは知らない。おかしな坊主だ。鍋の前で見ただの、猫の木の下で見ただのと、わけの分からないことも言った。
それでも、俺は気づくと坊主の杯に酒をついでいた。
誰かに酒をついだのは、マルタが死んでから初めてだった。
「お前、変な坊主だな」
「よく言われます」
「奴のことを話す時、嬉しそうな顔をする」
腹が立つはずだった。
俺の女房と娘を焼いた相手の話を、嬉しそうにする奴がいる。大剣の柄に手がかかってもおかしくなかった。
かからなかった。
坊主の顔に悪意がひとかけらもなかったからだ。奴に憧れている、というのとも違った。もっと別の何かを、坊主は見ているようだった。
だから、話した。
10年前、村を焼かれた。女房と、娘を。黒い炎の中で、奴は笑ってた。
坊主は杯を置いた。
輝いていた目が静かになった。
気の毒そうな顔はしなかった。目もそらさなかった。ただ、聞いていた。
それから、妙なことを聞いた。
「その魔族は、仮面をしてましたか」
「……してない」
「じゃあ、仮面の人は別人なんじゃ」
仮面など、いくらでもかぶれる。俺はそう答えた。違うなら、斬ってから確かめる。
坊主は困った顔をした。
何か言いたそうにして、言わなかった。
代わりに、こう聞いた。
「復讐が終わったら、何をするんですか」
杯が、止まった。
終わったら。
そんなことを聞いた者は、今まで1人もいなかった。やめろと言う者はいた。無駄だと言う者も、手伝おうと言う者もいた。
終わったあとのことを聞いた者は、いなかった。
俺自身も考えたことがなかった。
10年という梯子を、俺は上しか見ずに登ってきた。いちばん上の段に何があるのか。登りきった先に足を置く場所があるのか。
「……考えたこともない」
「じゃあ、終わったら、またここで飲みましょう。次は俺が奢ります」
「金、あるのか」
「ないです。つけで」
鼻から、息が出た。
短い音がした。
笑ったのだ、と気づくまでに、少しかかった。
口の端が上がっていた。黒い炎の中の顔は浮かばなかった。浮かんだのは、金もないのに奢ると言いきった、目の前の間の抜けた顔だけだった。
*
坊主を日当10枚で雇った。
奴の出る場所が分かる、と言ったからだ。誰かが困ってる所に出ます、と。
役には立たなかった。
1日目は食堂の前で取り逃がした。坊主は厠に行っていた。戻ってきた時、なぜか頭から濡れていた。
「深い厠でして」
聞く気も失せた。
2日目は猫のいる木の下だった。坊主はまた厠だった。今度は鶏の羽根を頭につけて戻ってきた。
坊主がいなくなると、奴が出る。
気配を読まれているのだと思った。奴は俺のそばに誰がいるかを見ている。坊主が離れた隙を突いている。
ただ、解せないことがあった。
食堂の女将は、奴を「うちの鍋の人」と呼んでいた。毎日来て蓋を取っていく、と笑っていた。
木の下の子どもは、猫を抱いて、奴のいた枝を見上げていた。泣いてはいなかった。
焼け跡が、ない。
生き残りが1人だけ、ということもない。皆、生きている。皆、笑っている。
俺の追ってきた奴は鍋の蓋など取らない。
3日目の夕方、坊主が言った。
「街の東の採石場です。たぶん、出ます」
なぜ分かる、と聞くと、勘だと答えた。
走った。坊主はすぐに遅れた。構わずに走った。
*
夕日の中に奴はいた。
黒い仮面。黒いマント。体から立ちのぼる、黒い炎。
高い所から降りてきて、日を背にしていた。10年調べたとおりの現れ方だった。
ただ、左手で岩を受けていた。
家ほどもある岩だ。崖から落ちてきたのだろう。その下を石工たちが這って逃げていく。
「去れ。長くは持たぬぞ」
奴は石工たちにそう言った。
助けていた。
考えるな、と俺は自分に言った。考えたら、剣が鈍る。10年だ。
「10年だ」
大剣を抜いた。切っ先を奴の背中に向けた。
「10年、探した」
奴は振り向かなかった。
「貴様の刃が向かう先は、我ではない」
言い逃れだ、と思った。
斬った。
10年ぶんを全部のせた。マルタの声も、ニナの泣き声も、焼けた頬の痛みも、味のしない酒も。
止められた。
指2本で。
奴は右手の指で、俺の大剣をつまんでいた。左手は岩を支えたままだ。足元では、足をくじいた石工が、まだ這っていた。
「後にせよ。今は手がふさがっている」
その時、俺は気づいた。
熱くない。
剣を通して、奴の体のすぐそばまで来ている。黒い炎が俺の手の甲をなめている。
少しも熱くなかった。
あの日の炎は顔の皮をはがした。10歩離れていても、息ができなかった。
これは、違う。
色は同じだ。形も同じだ。けれども、これは何も焼かない。
仮面の人は別人なんじゃ、と坊主は言った。
空気が、熱くなった。
*
体のほうが先に思い出した。
頬の火傷がうずいた。喉が詰まった。10年前の秋の、あの熱だった。
採石場の入り口に男が立っていた。
灰色の肌。細い顔。足元の草が黒く焼けていく。
笑っていた。
「探したぞ。我が王と同じ匂いのする者よ」
男は仮面の者に向かってそう言った。俺のことは見てもいなかった。
「……お前だ」
自分の声ではないようだった。
灰色の男がこちらを見た。
少し考えて、思い出したように目を細めた。
「おや。あの村の生き残りか。まだ生きていたとは」
まだ、生きていたとは。
覚えてもいなかったのだ。
俺は10年、この顔だけを見て生きてきた。こいつは、俺のことなど、今の今まで忘れていた。おもしろいから残した玩具を、どこに置いたかも覚えていなかった。
斬りかかった。
届かない。
黒い炎の壁に弾かれて、石の上を転がった。外套に火がついた。消しても消しても、あの日と同じ熱が追ってくる。
灰色の男が手を上げた。
ここまでか、と思った。
10年かけて、たどり着いて、1太刀も届かずに終わる。
マルタ。ニナ。
すまない。
目の前に、黒いマントが降りた。
仮面の者が、俺と灰色の男のあいだに立っていた。
灰色の男の炎が、その背中に当たって散った。
熱が、消えた。
10年間、夢の中でも消えなかったあの熱が、黒いマント1枚の向こうで止まっていた。
*
そこから先は、俺の出る幕ではなかった。
仮面の者が拳を振ると、後ろの山が頂上まで割れた。
「……脆い山だ」
灰色の男の顔から、笑いが消えた。
10年前から、1度も消えなかったあの笑いが。
仮面の者は灰色の男の襟首をつまんだ。地面に押さえつけた。指1本で、それをやった。
終わる、と思った。
あの指にもう少し力が入れば。
俺の10年は、通りすがりの誰かの指先で終わる。
それでもいい、と思おうとした。奴が死ぬなら、誰の手でも同じだ。
同じでは、なかった。
喉の奥で、何かが叫んでいた。俺のだ。それは俺のだ。10年、それだけのために生きてきたんだ。
仮面の者が振り返った。
仮面の奥は見えない。それでも、俺を見ているのが分かった。
「貴様の獲物だ」
耳を疑った。
「好きにせよ」
押さえつけたまま、動かなかった。
指に力を入れなかった。
待っていた。
俺が立ち上がるのを。俺が、自分の足でそこまで歩くのを。
この者は知っているのだ。
これが誰のものであるかを。
指先ひとつで山を割れる者が、俺の10年を、俺の手に返そうとしている。奪わずに。横取りせずに。
立った。
大剣を引きずって、歩いた。10歩が、10年より長かった。
灰色の男は、押さえつけられたまま、仮面の者に向かって何か言っていた。王が見ているとか何とか。その時の俺には、どうでもよかった。
剣を、上げた。
マルタ。
ニナ。
下ろした。
灰色の体は、内側から崩れて、灰になった。風が吹いて、何も残らなかった。
*
静かだった。
俺は灰の散った地面を見下ろしていた。
何も、感じなかった。
泣くと思っていた。叫ぶと思っていた。10年、その瞬間を何千回も夢に見た。そのたびに俺は空に向かって吠えていた。
何も出てこなかった。
マルタは戻らない。ニナも戻らない。
当たり前のことだ。初めから分かっていた。分かっていて、見ないようにしてきた。梯子を登っているあいだは、上だけを見ていればよかったからだ。
登りきった。
いちばん上には、何もなかった。
足を置く段も、つかまる物も。下を見れば、10年ぶんの高さがあるだけだった。
落ちるのだ、と思った。
ここから先は落ちるだけだ。
「……終わったな」
仮面の者が言った。
顔を上げた。
その体が夕日の中で薄れはじめていた。
聞きたいことがあった。お前は誰だ。なぜ俺に討たせた。なぜ、同じ色の炎をまとっている。
仮面の者は何かを言いよどんだように見えた。
それから、言った。
「さらばだ。次は、我が奢る」
消えた。
黒い炎が夕日にほどけて、採石場には俺1人が残った。
次は、我が奢る。
意味が分からなかった。
*
夜、『錆びた錨』に戻った。
他に行く所がなかった。
いつもの席に座った。酒を頼んだ。杯が2つ来た。この3日、坊主のぶんも頼んでいたから、店の者が覚えていたのだろう。
1つを向かいに押しやった。
飲んだ。
苦かった。
麦の味がした。薄くて、少しぬるくて、安い酒の味だった。
10年ぶりに舌が味を感じていた。
杯を見つめた。
終わったら、何をするんですか。
考えたこともない、と俺は答えた。
今も分からない。
領主館には、明日届けを出す。黒い炎の魔族は討った。仮面の者は別人だ。手配は取り下げてもらう。それくらいのことはしなければならない。
その先は。
王は貴様を見ている、とあの灰色は言っていた。仮面の者に向かって。
北から来た黒い鎧の軍勢の話は、俺も聞いている。魔王が動いているのだ。あの者を探して。
あの者は俺の10年を返してくれた。
借りだ。
俺は10年、貸しを取り立てるためだけに生きてきた。借りを返すために剣を持ったことは、1度もない。
それも悪くないのかもしれなかった。
落ちるだけだと思った梯子の下に、もう1本、別の梯子が立てかけてあるような気がした。誰が立てかけたのかは分からない。
次は、我が奢る。
あの言葉がまだ引っかかっていた。
次、とは何だ。俺はあの者と、酒など飲んでいない。
次は奢ると言ったのは、1人だけだ。
店の戸がきしんだ。
坊主が立っていた。
戸口で、入ろうか入るまいか迷っているような顔をしていた。それから、覚悟を決めたように歩いてきて、向かいに座った。
「約束どおり、今日は俺が奢ります。つけですけど」
俺は坊主を見た。
細い腕。薄い肩。鶏にも負けそうな体。
仮面の人は別人なんじゃ、と言った顔。復讐が終わったら何をするんですか、と聞いた顔。奴の話をする時、嬉しそうにしていた顔。
誰かが困ってる所に出ます、と坊主は言った。
坊主がいなくなると、奴が出た。
髪から、水がたれていた。
「……お前、濡れてるぞ」
「深い厠でして」
俺は、10年ぶんの息を吐いて、坊主の杯に酒をついだ。
採石場の石切り穴には、たしか、水がたまっていた。




