第18話 仮面の少年トビア
弟は、冬を越せないかもしれない。
お医者さんがそう言ったのは、秋の初めだった。母さんに向かって、戸口の外で、小さな声で。僕は壁のこちら側で、それを聞いていた。
ミロは7歳だ。
生まれた時から胸が弱い。少し走ると咳が出て、咳が出ると熱が出て、熱が出ると3日は起きられない。去年の冬からはほとんど寝台の上にいる。
うちは下町の、長屋の2階だ。父さんはいない。母さんは洗濯女で、夜も川ばたの洗い場に出ている。
だから夜は僕とミロの2人きりになる。
ミロは咳がひどくて、なかなか眠れない。
僕は話をする。
読み書きは、母さんの仕事先の奥さんに教わった。道に落ちている新聞を拾ってきて、ミロの枕元で読む。相場の話や、領主様のお達しは飛ばす。おもしろそうな所だけを探す。
ある晩、こういう記事を見つけた。
北の崖道に黒い炎の魔族が現れた。
「まぞく!」
ミロが目を丸くした。
それから何日かして、続きが出た。谷の村で、熱病の人たちが助かった。黒い炎の者が、1晩で井戸を掘り、山から薬草を運んだらしい。
「まぞくなのに、助けたの?」
「魔族じゃないのかもしれないね」
東の村で、猪の群れを追い払った。下町の染物屋の姉妹が人買いから戻ってきた。食堂の鍋を救った。木の上の猫を降ろした。
記事が出るたびに、僕は読んだ。
ミロは笑った。
鍋に「死ぬがいい」と言った、という所で、咳が出るほど笑った。猫に引っかかれた、という所でも笑った。
ミロが声を出して笑うのを、僕は何か月も聞いていなかった。
*
「兄ちゃん。黒い人は、下町にも来る?」
ある晩、ミロが聞いた。
「来たじゃないか。染物屋さんの時に」
「この辺には? うちの前には?」
ミロの寝台は窓ぎわにある。そこからは、向かいの古着屋の屋根が見える。ミロが見られる外の景色は、それだけだ。
「……来るよ」
言ってしまった。
「きっと来る。あの屋根の上あたりに」
「ほんと?」
「ほんと」
嘘だった。
新聞に載るのは、命のかかった大きな出来事ばかりだ。下町の、長屋の向かいの屋根に、あの方が来る理由がない。
ミロはその晩から窓の外を見るようになった。
咳の合間に屋根を見る。眠る前に、屋根を見る。夜中に目をさまして、まず屋根を見る。
3日たった。5日たった。
何も来なかった。
「今日も、来ないね」
ミロは笑って言った。がっかりした顔を見せまいとして、笑っていた。7歳の子が僕に気をつかっていた。
僕は、嘘つきだった。
ミロの胸を治すことはできない。薬を買う金もない。できるのは新聞を読むことだけで、それも人の書いた話を読んでいるだけだ。
そのうえ、嘘までついた。
その夜、僕は母さんの古い前掛けを出してきた。
黒い布だ。もう色があせて、使っていない。
*
仮面は薪を削って作った。
小刀で3晩かかった。墨を塗って、片側に角をつけた。新聞に書いてあったとおりに。
黒い布は首に結んだ。残りを細く裂いて、袖と裾に縫いつけた。動くと揺れて、遠くからなら炎に見えるかもしれない。
羽根は赤毛の情報屋さんから買った。
橋の下にいる、僕と同じくらいの年の女の子だ。鳩の羽根が銅貨2枚。高いと思ったけれど、買った。去ったあとに何か残したかった。ミロが、夢ではなかったと思えるように。
「これ、何に使うの」
情報屋さんは聞いた。
僕は答えなかった。代わりに、ずっと気になっていたことを聞いた。
「本物は、どんな人ですか」
この人は何でも知っていると、下町では言われていた。
情報屋さんは少し考えてから言った。
「ばかだよ」
「ばか」
「うん。ばかだけど、来るよ」
来る。
その言葉が胸に刺さった。
あの方は、来る。呼ばれもしないのに、どこへでも。そして僕は、弟に「来る」と言っておいて、何も来させることができない。
「……僕も、行けるようになりたい」
声に出ていた。
情報屋さんは、僕の手の中の羽根を見て、それから僕の顔を見て、何も言わなかった。
*
最初の夜、梯子を古着屋の裏に立てかけた。
屋根に登った。足が震えた。月が出るのを待って、ミロの窓のほうを向いて立った。
窓の中で、小さな影が起き上がるのが見えた。
両手を窓枠にかけていた。
それだけで、十分だった。
*
立っているだけのつもりだった。
けれども2日目の夜、屋根の下の路地で、おばあさんが転んだ。荷物が散らばった。
屋根の上から、ミロの窓が見える。ミロもこちらを見ている。
黒い方が、転んだ人を放っておくはずがなかった。
降りた。荷を拾った。家まで運んだ。おばあさんは僕の仮面を見て、目をしばたたかせて、ありがとうね、と言った。
3日目は迷子だった。4日目はひったくりを追いかけた。
怖かった。
毎回、膝が震えた。相手が刃物を持っていたらどうしよう。屋根から落ちたらどうしよう。
それでも、ミロが見ていた。
朝になると、ミロは目を輝かせて言った。
「兄ちゃん、ゆうべも来たよ! 小さいのが!」
「そうか。よかったな」
「兄ちゃんは見なかったの?」
「寝てたんだ」
「もったいない!」
ミロはよく笑うようになった。粥を残さなくなった。咳は相変わらずだったけれど、顔色が少しよくなった気がした。
新聞にも載った。『小さいほう』と書かれた。
嬉しくはなかった。
僕はまねをしているだけだ。
本物は井戸を掘り、山を運び、人買いを倒す。僕にできるのは、荷物を拾うことと、羽根を落とすことだけだ。
そして本物なら、ミロの胸だって治せるのかもしれない。熱病の村を救った方なのだから。
僕は、治せない。
黒い布をかぶっても、仮面をつけても、中にいるのはトビアだ。弟の咳を止めることもできない、13歳の、ただのトビアだ。
*
5日目の夜、屋根の上に知らない人が登ってきた。
梯子の下で、2回落ちる音がした。3回目で、屋根のふちに手がかかった。
痩せた男の人だった。17歳か18歳くらいに見えた。
「君」
「だ、誰ですか」
「名乗るほどの者ではない。同業者だ」
何の同業者なのか分からなかった。
その人は、僕のさっきの登場を「満点だ」と言った。それから、ものすごい早口で話しはじめた。
逆光は、月より夕日のほうが強い。夕方に出るなら西を背にしろ。口上の前に、半拍ためるといい。「そこまでだ」の前に息を吸う。それだけで重みが変わる。
変な人だった。
でも、ばかにしてはいなかった。
僕の作った仮面も、裂いた布も、鳩の羽根も、その人は笑わなかった。本気で見て、本気で直す所を探していた。
17歳なのに32年研究している、と言った。意味は分からない。
僕は聞いた。本物を見たことがあるんですか。本物は、どんな人なんですか。
その人は口を開けて、閉じて、しばらく困っていた。
「……口が悪い」
「新聞にもそう書いてありました」
「登場は下手だ。樽に4回かかる」
「樽?」
「君のほうが、ずっとうまい」
嘘をついている顔ではなかった。
そんなはずはない、と思った。
「でも、本物は強いんでしょう。僕は、まねをしてるだけです」
言ったら、喉が詰まった。
「どうして、まねを」
答えられなかった。
弟に嘘をついたからです、とは言えなかった。本物になれないからです、とも。
隣の屋根へ跳んで、逃げた。
*
次の夜、長屋から火が出た。
うちの長屋ではない。3軒先だ。
僕は屋根の上にいた。黒い布をかぶって、仮面をつけて。西の空がまだ少し明るかったから、言われたとおり、そちらを背にして立っていた。
下で、人が叫んでいた。
「中に子どもが!」
「2階だ! 階段が燃えてる!」
大人たちが桶を回していた。誰も中には入れなかった。
僕はミロの窓を見た。
ミロがこちらを見ていた。
窓枠に両手をかけて。燃える長屋と、屋根の上の僕を、かわるがわる見ていた。
黒い方は、来る。
ばかだけど、来る。
僕がここで動かなければ、ミロの見てきたものは、全部嘘になる。屋根に立っていたのは、荷物を拾うだけの、火の前では何もできない偽者だったことになる。
いや。
そうじゃない。
嘘になるのが怖かったのは、本当だ。でも、足が動いたのは、そのせいだけではなかった。
中に子どもがいる。
ミロより小さい子が。
梯子を降りた。走った。大人の腕をくぐって、戸口に飛びこんだ。
熱かった。
煙で目が開かなかった。布を口に当てて、泣き声のするほうへ這った。階段の下に、3歳くらいの子がうずくまっていた。隣の家の、ヨナだ。
抱えた。
戻ろうとして、戸口が見えないことに気づいた。
どっちから来たのか、分からない。
頭の上で、木の裂ける音がした。
燃えた梁が傾いていた。
ああ。
僕は、本物じゃない。
井戸も掘れない。山も運べない。火の中に入れば、ただ焼けるだけの子どもだ。
ヨナを腕の中に押しこんで、自分の背中を上にした。黒い布はもう半分燃えていた。
ごめん、ミロ。
兄ちゃんは、嘘つきのままだ。
*
外で、声がした。
「死ぬがいい」
低い声だった。それから、地面の底が鳴った。雨のような音がして、火の色が変わった。
柱の折れる音が2回した。
梁が落ちてきた。
落ちてこなかった。
目を開けた。
指が、あった。
1本の指が燃える梁を受けていた。
黒いマントが煙の中で広がっている。頭から目元までを覆う仮面に、片側だけ角がある。そして、僕の縫いつけた布とはまるで違う、本物の黒い炎が、その方の体から立ちのぼっていた。
赤い火の前で、そこだけ光が沈んでいた。
来た。
ばかだけど、来る。
情報屋さんの言ったとおりだった。
仮面が僕を見下ろした。
「……生きているな」
うなずいた。声は出なかった。
その方は僕の顔をじっと見ていた。割れた木の仮面を。焦げた布を。墨のはげた角を。
恥ずかしかった。
本物の前で、こんな物をつけている。薪を削って、母さんの前掛けを裂いて。子どものごっこ遊びだ。
その方はおっしゃった。
「その仮面は、貴様にはまだ重い」
胸の真ん中に落ちてきた。
「外せ。素顔で守れ」
重い、と。
笑われなかった。
偽者だとも、まねだとも言われなかった。似合わないとも、やめろとも。
重い、とおっしゃった。
そのとおりだった。重かったのだ。この仮面はずっと重かった。
つけているあいだ、僕は黒い方でいなければならなかった。強くて、怖がらなくて、何でもできる誰かで。そうでなければ、ミロに見せる値打ちがないと思っていた。
トビアのままでは何もできないと思っていた。
それを、この方は。
まだ、とおっしゃった。
まだ重い。
いつかは持てる、という意味だ。
そして、素顔で守れ、と。
仮面がなくても守れる、ということだ。トビアのままで。今、ヨナを抱えているこの腕のままで。
涙が割れた仮面の内側を流れた。
その方はもう一言だけ付け足した。
「口上は悪くなかった。羽根は鳩だな」
息が止まった。
知っておられた。
僕が屋根の上で何を言ってきたか。去ったあとに、何を落としてきたか。それが鳩の羽根で、墨で塗っただけの物だということまで。
見ていてくださったのだ。
下町の、長屋の向かいの屋根を。新聞にも大きくは載らない、荷物を拾うだけの5日間を。
悪くなかった、と。
*
襟首をつままれて、外に出た。
ヨナも一緒だった。夜の空気が冷たくて、咳が出た。
人がたくさんいた。皆が叫んでいた。僕がつかまっている、と思ったらしい。桶や草履が飛んできて、あの方に届く前に、霧や粉になって散った。
違います、と言いたかった。
この方が本物です。僕が、偽者なんです。
声が出なかった。煙で喉がやられていた。
「我こそが真だ」
あの方はそうおっしゃった。
そのとおりです、と僕は思った。
食堂の女将さんが出てきて、皆を静めてくれた。地面に下ろされた。ヨナのお母さんが走ってきて、ヨナを抱きしめた。
僕は割れた仮面を両手で押さえていた。
あの方の指先が透けはじめていた。
「さらばだ、小さき者」
黒い炎が夜の中にほどけていく。
「……よくやった」
最後に、そうおっしゃった。
小さき者、と呼ばれた。小さいほう、ではなく。偽者、でもなく。
よくやった、と。
消えたあとには、羽根は落ちていなかった。本物は、何も残さなかった。
*
皆が僕を見ていた。
黒い布は半分焼けて、裂いた布の炎は焦げて縮れていた。割れた仮面から、たぶん顔が半分見えていた。
外せ、と言われた。
手が震えた。
これをはずしたら、ミロの黒い人はいなくなる。窓から見ていた5日間が、兄ちゃんの嘘だったと分かってしまう。
それでも、はずした。
紐をほどいて、仮面を下ろした。
「……僕です。トビアです」
声がかすれた。
「長屋の2階の、トビアです。黒い方じゃ、ありません。まねをしていました。ごめんなさい」
頭を下げた。
誰も何も言わなかった。
それから、古着屋のおじさんが吹き出した。
「知ってたよ」
「え?」
「うちの屋根だぞ。梯子を立てかけてりゃ分かるさ」
「その布、あんたの母ちゃんの前掛けだろ」
洗い場のおばさんが言った。
「あたしが荷を運んでもらった時もね」
2日目のおばあさんが、人垣の中から顔を出した。
「声で分かったよ。トビアちゃんだって。でも、黒い方って呼んだほうが嬉しそうだったからねえ」
皆、知っていた。
下町じゅうが知っていて、黙って、黒い方と呼んでくれていた。
僕は仮面を持ったまま、長屋を見上げた。
2階の窓にミロがいた。
窓枠に両手をかけて、こちらを見ていた。
走った。階段を上がった。戸を開けた。
「ミロ、ごめん。兄ちゃん、嘘を」
「知ってたよ」
ミロはけろりとして言った。
「え?」
「だって、兄ちゃんの声だもん。『そこまでだ』って。毎晩お話ししてくれる声と、おんなじだった」
言葉が出なかった。
「最初の日から、知ってた。兄ちゃんが屋根で足ぶるぶるさせてるの、ここから見えてたし」
「……じゃあ、なんで」
「なんでって」
ミロは首をかしげた。
「黒い人が来るより、兄ちゃんが黒い人のほうが、いいに決まってるでしょ」
咳をひとつして、ミロは笑った。
「ぼくの兄ちゃんが、屋根の上にいるんだよ。毎晩。ぼくが見えるように。新聞の人より、ずっとすごいよ」
僕は寝台の横に膝をついて、弟の布団に顔をうずめた。
ミロが笑っていたのは、黒い方の話がおもしろかったからではなかった。
兄ちゃんが、読んでくれるからだった。
兄ちゃんが、屋根に立ってくれるからだった。
初めから、トビアのままでよかったのだ。
小さな手が、僕の焦げた頭をぽんぽんとたたいた。
「兄ちゃん、こげくさい」
*
割れた仮面は棚の上に置いてある。
もうつけない。
夕方になると、僕は路地に出る。顔を出したまま。おばあさんの荷を持ち、迷子の手を引き、洗い場まで母さんの籠を運ぶ。屋根には登らない。口上も言わない。
ミロは窓から手を振る。
3日前、赤毛の情報屋さんが、女の子を1人連れてきた。
白い法衣を着た、ミロより少し大きいくらいの子だった。谷の村から来た、聖女の見習いだという。
「治せるとは、言えません。わたしの光は、蛍くらいしかないので」
その子はミロの手を両手で握った。指のあいだに小さな光が灯った。
「でも、胸の咳に効く草のことなら、たくさん調べました。それから、手を握ることなら、得意です。離しません」
ミロはその晩、久しぶりに朝まで眠った。
お代のことを聞いたら、情報屋さんは帳面を開いて、何か書きこんだ。
「口の悪いほうに、つけとく」
どういう意味なのかは分からなかった。
屋根に登ってきた、あのおじさんのことも、ときどき考える。
本物は樽に4回かかる、と言っていた。あの方を見たあとでは、とても信じられない。
けれども、口が悪いというのは本当だった。
どうしてあんなに詳しかったのだろう。32年研究すると、そんなことまで分かるのだろうか。
いつかまた会えたら、お礼を言いたい。
半拍ためるといい、と教わった。
あれは、口上のためだけではなかったのだと思う。
何かをする前に、ひとつ息を吸う。そうすると、膝の震えが少しおさまる。今の僕は、荷物を持ち上げる前に、いつも半拍ためている。
仮面は、まだ重い。
いつか持てるようになるまで、僕は素顔で、この路地を守る。




