第16話 門番の騎士アデライド
持ち場を離れた騎士。
それが、私の名だった。
アデライド・ヴェルナー、という名は別にある。近衛に上がった時、領主様から直々に呼んでいただいた名だ。けれども2年前のあの日から、その名で私を呼ぶ者はいなくなった。
あの日、私は若君の護衛についていた。
領主様のご嫡子で、12歳だった。馬がお好きで、遠乗りのたびに私を供に選ばれた。アデライドは誰よりも背が高いから、どこにいてもすぐ見つかる、と笑っておられた。
狩りの帰りの、森の道でのことだ。
矢が飛んできた。
賊は20人を超えていた。護衛は隊長と私を入れて6人。隊長は若君を馬車に押しこんで、私に言った。
「アデライド。お前の馬がいちばん速い。城へ走れ。援軍を呼べ」
「隊長、私はここで」
「命令だ。行け」
行った。
馬の腹を蹴って、森を抜け、城門まで駆けた。あれほど速く走ったことは、あとにも先にもない。
援軍を連れて戻った時、森の道は静かだった。
隊長は馬車の扉の前で死んでいた。他の4人も。若君は生きておられた。生きてはおられたが、右の足の、膝から下を失っておられた。
もう、馬には乗れない。
私に命令した人は死んだ。命令を聞いた者も皆死んだ。
残ったのは、若君の護衛が戦っている最中に、1人だけ馬で逃げた騎士だった。
弁明はした。隊長の命令だったと。
誰が信じる。
証人は1人もいない。そして若君は、あの時気を失っておられた。
裁きは北の古い関門への配置換えだった。
首を落とされなかったのは、領主様のお情けだと言われた。私もそう思った。お情けで、誰も通らない門に捨てていただいたのだと。
*
関門に来た時、詰所には4人いた。
皆、何かをしくじって飛ばされた者だった。酒で身を崩した者。賭けで借金を作った者。上官を殴った者。
そして、ヨルグという年寄りの門番が1人。
この門に40年いる人だった。
他の3人は半年のうちにいなくなった。転属を願い出た者もいれば、ある朝ただ消えていた者もいる。咎める者はいなかった。ここはそういう場所だった。
ヨルグ爺さんだけが残った。
爺さんは毎朝、門の蝶番に油をさした。
誰も通らない門の蝶番にだ。
「なぜ、そんなことを」
最初の冬に私は聞いた。
「門ってのはな、開くためにあるんだ」
爺さんは油差しを持ったまま、歯のない口で笑った。
「いつ誰が来てもいいようにしとく。それが門番だ。来るか来ねえかは、わしらの決めることじゃねえ」
爺さんは去年の冬に死んだ。
朝、油差しを握ったまま、門の前に座っていた。眠っているように見えた。
裏の斜面に埋めた。墓標は私が彫った。
それから、蝶番の油は私がさしている。
壁の上の通路を端から端まで掃く。鎧の留め金を磨く。槍の穂先を研ぐ。朝と夕に北の山を見る。
誰も来ない。
誰も見ていない。
それでも、ここを離れることだけはしなかった。
2度と、持ち場を離れない。
それだけが私に残された騎士の務めだった。命令があろうとなかろうと。たとえ世界中の誰もが、この門のことを忘れていても。
詰所には窓が5つある。明かりがつくのは、もう1つだけだ。
*
その日の昼すぎ、壁の上から何かが降ってきた。
私の5歩前に、黒いものが立った。
考えるより先に槍が出ていた。穂先を喉に当てる。2年間、誰も相手にしていなくても、体はまだ近衛だった。
黒い仮面。頭から目元までを覆って、片側にだけ角がある。黒いマントが風もないのに広がっていた。そして体じゅうから、黒い炎が上がっている。昼の光がそこだけ沈んで、返ってこない。
「魔族か」
その者は動かなかった。
喉に穂先が触れているのに、身を引きもしない。
「日が沈めば群れが来る。備えよ」
低い声だった。
「……魔族が、なぜそれを私に教える」
「敵ではない。それ以上は聞くな」
信じる理由はなかった。
私は槍を向けたまま立っていた。相手は腕を組んだまま立っていた。
1時間たった。
2時間たった。
その者は1歩も動かなかった。
腰を下ろしもしない。壁にもたれもしない。喉に刃を当てられたまま、北の山のほうを向いて、岩のように立っていた。
斬ろうと思えば斬れた。
その者は、それを承知で立っているように見えた。斬りたければ斬れ、と。それでも自分はここを動かぬ、と。
私のほうが先に疲れた。
槍を下ろした。5歩離れて、同じように北を向いた。
並んで立つ形になった。
おかしなことだが、私はその時、2年ぶりに隣に誰かがいるということを思い出していた。近衛の頃はいつも隣に誰かがいた。門に来てからは、ヨルグ爺さんが。爺さんが死んでからは、誰も。
西の空が赤くなりはじめていた。
「空が燃えるな」
その者が言った。
戦の前の空だ、という意味に聞こえた。私もそう思っていた。あの森の日も夕焼けが赤かった。
しばらくして、また声がした。
「貴様1人か」
問いつめる調子ではなかった。確かめているだけの声だった。
「見てのとおりだ。この門には、もう私しかいない」
その者は答えなかった。
ただ、仮面が少しずつ動いた。
詰所を見ていた。5つの窓を。それから門の蝶番を。壁の上の、掃いたばかりの通路を。私の鎧の留め金を。
見られている、と思った。
2年間、誰も見なかったものを。
油をさした蝶番を見る者はいなかった。掃いた通路を歩く者はいなかった。年に1度、補給の荷車が来るだけで、御者は門を見上げもしない。
誰も見ていないからこそ、やってきたのだ。見られるためではなかった。そのはずだった。
「……よく守ってきたな」
息が、止まった。
槍を握る手に力が入った。入れなければ震えてしまうからだ。
北の山を見ていた。そちらを向けば、顔を見られずに済む。
よく、守ってきた。
捨てられた門を。誰も通らない門を。持ち場を離れた騎士が、罰として立たされているだけの場所を。
この者は、守ってきた、と言った。
目の奥が熱かった。
泣くものか、と思った。魔族かもしれぬ相手の前で。まだ何も起きていないのに。
日が沈んだ。
*
山すそから、黒い列が下りてきた。
鎧だ。兜の奥に目がない。足並みが揃っている。200は超えていた。
野の魔物ではなかった。軍だ。
誰も来ないはずの門に軍が来た。
仮面の方が門の前に出た。踏みだした1歩で、地面が割れた。
そこからは、私の知っている戦ではなかった。
黒い鎧をつまみ上げる。1体ずつ。山の向こうへ放る。斬らない。砕かない。門にはかすり傷1つつけなかった。
10体が消えたところで、その方が急に顔を上げた。
宙の1点をにらんでいた。
そこには何もない。夜の空があるだけだ。
「……今か」
誰かと話しておられた。
「戦の最中だ。後にせよ」
間があった。
見えない誰かが何かを返したらしい。その方は苦いものを飲んだように黙った。
それから、私を振り返った。
黒い鎧の列はもう槍の届く所まで来ていた。
「ここは貴様に預ける」
耳を疑った。
「我が戻るまで、倒れることは許さぬ」
その方は、消えた。
南の空へ、ひと跳びで。
私は門の前に、1人で立っていた。
190体の前に。
預ける、と。
今、預けると言われたのか。
2年前、私は命令で持ち場を離れた。戻った時にはすべてが終わっていた。誰も信じてくれなかった。あれから、私に何かを預けた者は1人もいない。
この門は預けられたのではなかった。
捨てられたのだ。私ごと。
それを、あの方は。
どこかで誰かが助けを求めている。あの方はそれを聞いた。行かねばならぬ。けれどもこの門を空けるわけにはいかぬ。
だから、私に預けた。
お前なら持ちこたえる、と。
戻るまで倒れるな、と。
それは信じた相手にしか言えない言葉だ。
槍を構えた。
足が地面に根を張ったように感じた。
来い。
ここは、預かった門だ。
*
何体斬ったのか、覚えていない。
槍が折れた。剣を抜いた。兜が飛んだ。額が割れて、血が目に入った。
下がらなかった。
門の真ん中から、1歩も下がらなかった。
あの森の日のことを、斬りながら思い出していた。
隊長は私に行けと言った。
私の馬がいちばん速いからだと。
2年間、あれは体のいい厄介払いだったのではないかと、何度も考えた。若い女の騎士を、死ぬ場所から遠ざけただけではないかと。隊長は、私を戦力だと思っていなかったのではないかと。
違う。
今なら分かる。
あれも、預けたのだ。
若君の命を。援軍を連れて戻るという、たった1つの望みを。隊長はそれをいちばん速い馬に預けた。私なら戻ってくると信じて。
そして隊長は戻るまで倒れなかった。
扉の前で、最後まで立っていた。
私が今、ここに立っているように。
黒い鎧が30体転がっていた。
南の空から、あの方が戻ってきた。
「待たせた」
戻ってきた。
戻る、と言って、本当に戻ってきた。
うなずくのが精いっぱいだった。歯を食いしばっていなければ、声を上げて泣いてしまいそうだった。
その方はまた黒い鎧を放りはじめた。20体。40体。
そしてまた、宙をにらんだ。
「後にできぬのか」
見えない誰かができぬと答えたのだろう。
その方は私を見た。
言いにくそうだった。仮面で顔は見えないのに、それが分かった。
「もう1度だ。持ちこたえよ」
はい、と答えていた。
声になっていたかどうかは分からない。
その方が南の空へ消えるのを、私は今度は見送らなかった。前を向いていた。預かった者は、預けた者の背中を目で追ったりしない。
*
夜明けまでが、長かった。
剣が半分に折れた。左の腕が上がらなくなった。胸当てがへこんで、息を吸うたびに痛んだ。右の足は、どこかで牙か刃をもらったらしく、引きずるしかなかった。
それでも、立っていた。
倒れることは許さぬ、と言われたからだ。
ふしぎな言葉だった。
2年間、私は自分に同じことを言い聞かせてきた。持ち場を離れるな。倒れるな。それは罰だった。自分で自分に科した、終わりのない罰だった。
同じ言葉が、あの方の口から出ると、まるで違った。
許さぬ、というのは、待っている、ということだ。
お前が倒れずにいることを、私は当てにしている。だから戻る。お前が立っている場所へ、必ず戻る。
そういう意味の、許さぬ、だった。
空の端が白んだ頃、あの方は戻ってきた。
足元の黒い鎧は60体を超えていた。
残りの100体が、朝までに山の向こうへ消えた。
日が昇る。
谷には、黒い鎧は1体も残っていなかった。
門は、無傷だった。蝶番の油が朝日に光っている。
私は折れた剣を地面に突いて、それにすがって立っていた。膝は笑っている。それでも、ついてはいなかった。
仮面がこちらを向いた。
「見事だ」
その一言で、2年ぶんの何かが、胸の底からこみ上げてきた。
「この門は、貴様のものだ」
私の、門。
捨て場ではなく。罰でもなく。
私が守り、私が預かり、私が朝まで立ちとおした、私の門。
唇が震えた。言葉にならなかった。
あの方の指先が朝の光に透けはじめていた。
行ってしまう。
「待て! 名を……名を聞かせてくれ!」
近衛の作法も何もなかった。ただ叫んでいた。
あの方は名乗らなかった。
「……さらばだ、門の騎士」
門の騎士、と。
持ち場を離れた騎士、ではなく。
黒い炎が朝日にほどけて、マントの裾が散って、いなくなった。
私はそこで初めて、膝をついた。
もう倒れてもよかった。あの方は戻ってきた。預かったものは、守りとおした。
2年ぶりに、声を上げて泣いた。
*
3日後、領主館から調査の一隊が来た。
黒い鎧は野の魔物ではない、と隊長格の男が言った。北から軍が来たのだ。この門がなければ、今ごろはグレンツの城壁の下にいただろうと。
捨てられた門ではなかった。
誰も通らないのは、ここが抜かれなかったからだ。ヨルグ爺さんの40年も、私の2年も、ただ立っていただけではなかった。
一隊と一緒に手紙が1通届いた。
封蝋に若君の印があった。
字は少し大人びていた。
あの日のことを、少しずつ思い出している、と書いてあった。馬車の中で、隊長の声を聞いた気がする。アデライドの馬がいちばん速い、と。行け、と。
確かではないのです、とも書いてあった。けれども僕は、アデライドが逃げるような人ではないことを、誰よりもよく知っています。背が高いから、どこにいてもすぐ見つかる人です。逃げたら、いちばん先に見つかってしまう。
手紙の最後に、こうあった。
義足ができました。馬にも、もう1度乗ってみるつもりです。
私は手紙を胸当ての内側にしまった。
詰所に兵が10人入った。
窓の明かりが5つともついた。
私は新しい門番長に油差しを渡した。蝶番には毎朝さすこと。通路は端から掃くこと。北の山は朝と夕に見ること。
「門は、開くためにある。いつ誰が来てもいいように」
若い門番長は妙な顔で油差しを受け取った。
持ち場を、離れる。
2年間、それだけはしないと決めてきた。
けれども今度は逃げるのではない。預けるのだ。信じられる者たちに。
預けることができるようになったのは、預けられたからだと思う。
私には行かねばならない所があった。
あの方に報告をしなければならない。
預かった門は、無事にお返しいたします、と。
預かったものは、返すまでが務めだ。隊長は戻った私に何も言えなかった。私は、言いに行く。
それから、もう1つ。
これは騎士の務めではないので、うまく言葉にならない。
2時間、喉に槍を当てられたまま動かなかった方だ。
誰も見なかった蝶番を見てくださった方だ。
一夜のうちに、3つの場所で誰かを助けておられたと聞いた。私を置いて向かった先にも、あの方を待つ者がいたのだ。そしてそのたびに、私の所へ戻ってきてくださった。
あの方の隣にもう1度立ちたい。
今度は、槍を向けずに。
赤毛の娘が、あの朝、門の前を通った。仮面の方を見なかったかと聞いたら、妙に気の毒そうな顔で私を見ていた。あの娘は何か知っているのかもしれない。
南へ下りる道を私は歩きはじめた。
背が高いから、どこにいてもすぐ見つかると、若君は言われた。
それなら、見つけるほうもきっと得意だ。




