第12話 姉のノエミ
私の値段は、金貨18枚だった。
ひと月前、その人は絹の手袋をして店に来た。香水の匂いがした。にこにこしていた。借金の証文を商会から買い取った者です、と名乗った。
手袋の指が私の腕をつかんだ。
力こぶを押された。顎を持たれて、口を開けさせられた。歯を1本ずつ見られた。背中をたたかれ、手のひらを返され、染料のしみた爪を調べられた。
「手に職がある。体も丈夫だ。鉱山町の染め場が欲しがるだろう。18枚」
それから妹が呼ばれた。
ピアは9歳だ。何をされるのか分からずに、言われるまま口を開けた。歯を見られているあいだ、ずっと私のほうを見ていた。
「小さいね。育つまで飯がかかる。12枚」
その人は手袋をはずして、手下に渡した。
「ただ、小さいほうには別口の客がいてね。姉さんとは行き先が違うよ」
笑ったまま、そう言った。
18枚と、12枚。
合わせて30枚。父さんの残した借金と、1枚も違わなかった。
別々に売られる。
その日から、私は夜に眠れなくなった。
*
うちは染物屋だ。
母さんが藍を建て、父さんが売りに歩いた。店は小さかったけれど、母さんの藍は評判がよかった。深くて、洗っても落ちない。空を煮つめたような色だと言われていた。
母さんが倒れたのは、私が11歳の冬だった。
長い病気だった。薬は高かった。父さんは店を担保に入れ、それでも足りなくて、私たちの年季まで担保にして金を借りた。3年看病して、母さんは死んだ。その2年後に父さんも死んだ。荷を背負って隣町へ行く途中、峠で足をすべらせたのだそうだ。
残ったのは、藍の甕が4つと、妹と、金貨30枚の証文だった。
父さんを恨んだ夜が、なかったとは言わない。
どうして私たちを書いたの。どうして、ピアまで。
けれども、母さんが咳をするたびに父さんがどんな顔をしていたか、私は覚えている。私が父さんでも、きっと同じ紙に名前を書いた。
だから、恨みきれなかった。恨みきれないのが、いちばんつらかった。
朝から晩まで染めた。ピアは布を干し、糸を巻き、水を運んだ。9歳の子がする量ではなかった。爪のあいだに藍が入って、もう落ちなくなっていた。
それでも、利子にも届かなかった。
ひと月のあいだ、私は毎晩、ピアの寝顔を見ていた。
別口の客、とあの人は言った。
それが何を意味するのか、16歳の私にも分かった。分かってしまうことが、吐きそうなほど嫌だった。
私はいい。
鉱山町でも、染め場でも、どこでも行く。18枚の私が何年働かされようと構わない。
ピアだけは。
*
期日の前の夜、戸棚の奥の銅貨を数えた。
41枚。
それを小さな袋に入れて、ピアの上着の内側に縫いつけた。針を持つ手が震えて、何度も指を刺した。
隣町に母さんの姉がいる。会ったことは2度しかない。子ども1人なら置いてくれるかもしれない。置いてくれなくても、ここにいるよりはいい。
夜明け前にピアを起こして、裏口から出した。
「先に伯母さんの所へ行ってて。あとから行くから」
「姉ちゃんは」
「店を片づけてから」
嘘だった。
ピアは何も言わずに私を見て、それから暗い路地を歩いていった。小さな背中が角を曲がるまで、私は戸口に立っていた。
これでいい。
1人足りなければ、私が2人ぶん働くと言えばいい。どんなことでもすると言えばいい。
半刻もしないうちに、裏口の前に小さな影がしゃがんでいた。
ピアだった。
膝を抱えている。上着の内側の袋を引きちぎって握っていた。
「1人で行けって言うなら、行かない」
怒った顔だった。泣くのをこらえて、唇が震えていた。
「姉ちゃん、嘘ついた。あとから来ないでしょ」
叱れなかった。
抱きしめることもできなかった。そんなことをしたら、私のほうが崩れてしまう。崩れたら、朝に戸口に立てなくなる。
表の戸が軽くたたかれた。
*
「おはよう、お嬢さん方。期日だよ」
戸を開けた。
ひと月前と同じ人が同じ顔で笑っていた。後ろに幌つきの荷馬車が止まっている。荷台に犬が2頭いた。
「お金は、ありません」
「知っているとも。だから迎えに来た」
「私が行きます。2人ぶん働きます。妹は置いていってください」
「証文には2人とある」
その人は紙をひらひらと振った。
「それにね。小さいほうは小さいほうで、欲しがる客がいるんだ」
後ろで、ピアが私の前掛けを握った。
足が冷たくなった。戸口の柱をつかんでいなければ、立っていられなかった。
その時だった。
「待ってくれ」
知らない人が道の向こうから出てきた。
若い男の人だ。17歳か18歳くらいに見えた。痩せていて、顔色が悪くて、麻のシャツの裾が何かにかじられたようにほつれている。
「どなたかな」
「名乗るほどの者ではない」
「では、お引き取りを」
引き取らなかった。
「その借金、俺が払う」
耳を疑った。
知らない人だ。1度も会ったことがない。客でもない。
「おいくらお持ちで」
「……マイナス244枚」
その人は少しも恥ずかしそうにせずに言った。銅貨で、と付け足した。
人買いは楽しそうに笑った。気持ちで買える物は、この世に1つもないんですよ、と。
そのとおりだった。このひと月で、私はそれをよく知っていた。気の毒がってくれる近所の人は何人もいた。誰も、1枚も出せなかった。当たり前だ。皆、自分の暮らしで手いっぱいなのだから。
その人は次にこう言った。
「なら、俺を代わりに連れていけ」
絹の手袋がその人の腕をつかんだ。
力こぶを押した。顎を持って、口を開けさせた。歯を1本ずつ見た。背中をたたいて、手のひらを返した。
ひと月前に、私とピアがされたことだった。
見ていられなかった。
あれがどれほど嫌なものか、私は知っている。自分が人ではなく品物になっていく感じ。秤にのせられた肉になったような、あの感じ。あのあと私は井戸の水で腕を何度も洗った。
その人は、自分からそこに立ったのだ。
頼まれもしないのに。
「鍬は持てるかね」
「……持てない」
「荷は」
「袋1つなら」
人買いは手袋をはずして、手下に渡した。
「銅貨3枚。餌代のほうが高くつく」
その人は襟首をつかまれて、道の脇に放られた。石畳に肩を打って、しばらく起き上がれずにいた。
目が合った。
すまない、という顔をしていた。
どうしてあなたが謝るのですか。
そう言いたかった。けれども手下が私の腕を取って、言葉は出なかった。手首に縄がかかる。ピアの細い手首にも。
荷台に乗せられた。
店が遠ざかっていく。藍の甕が4つ。母さんの甕が。
道の脇で、あの人がようやく体を起こすのが見えた。空中の何かを殴りつけるように、腕を振っていた。
*
荷馬車は1日走った。
幌の隙間から、知らない景色が流れていく。川を渡った。森に入った。
国境まで2日だと、手下たちが話していた。
向こうへ行った子は帰ってこない。下町の子どもなら、誰でも知っている話だ。
ピアは私の膝に頭をのせて、ずっと黙っていた。泣かなかった。朝からずっと、唇を噛んでいた。血がにじんでいた。
日が暮れて、荷馬車が止まった。
森の中だった。焚き火がたかれた。私たちは縄のまま車輪につながれた。
火を見ながら、私は指を動かしていた。
ピアの手首の縄だ。
私は染物屋の娘で、5歳の時から糸を括ってきた。絞りの結び目なら、目をつぶっていても解ける。あの男たちの結び方は力まかせで雑だった。
少しずつ。少しずつ。
縄が落ちた。
ピアの耳に口を寄せた。
「走って。火が見えなくなるまで。振り向いたら駄目」
ピアは首を振った。
そうだろうと思った。朝も戻ってきた子だ。
もう1度、ささやいた。
「姉ちゃんもすぐ行く。先に行って、道を見つけておいて」
今日2度目の嘘だった。
ピアは私の目を見た。嘘だと分かっている目だった。それでも私はその背中を押した。お願い。お願いだから。
ピアは走った。
森の暗いほうへ、小さな足で。
私は立ち上がって、反対のほうへ鍋を蹴った。大きな音がした。もう1つ蹴った。手下たちが私のほうを向く。
こっちを見て。
あの子のほうを見ないで。
「おやおや」
人買いが立ち上がった。にこにこしていた。
手に、鞭を持っていた。
「商品に傷はつけたくないんだがね。逃げ癖というのは、最初に直しておくものなんだ」
手下が犬の綱を解いた。
2頭が吠えながら、ピアの消えたほうへ走っていく。
やめて。
声にならなかった。
犬は速い。9歳の足で逃げきれるはずがない。私のしたことは、あの子を犬に追わせただけだった。
鞭が上がった。
私は目を閉じた。
ごめんね、ピア。
姉ちゃんは、何ひとつできなかった。
*
鞭は、落ちてこなかった。
ずいぶん長い時間がたったような気がした。火のはぜる音まで止まったように感じた。
目を開けた。
焚き火の向こうに黒い人が立っていた。
背中の後ろに小さな太陽のような光がある。そのせいで姿は影になっていた。黒いマントが風のない森の中で広がっている。頭から目元までを覆う仮面に、片側だけ角があった。
そして、黒い炎が燃えていた。
焚き火の赤い明かりの手前で、その方の体から、炎の形をした黒が立ちのぼっている。火の光がそこだけ吸いこまれて、向こう側が見えなかった。
私は染物屋の娘だ。色のことなら、少しは分かる。
あれは、見たことのない黒だった。
藍を何十回重ねても、あの黒にはならない。墨でも、煤でも、あそこまでは沈まない。夜の森の闇より、まだ深かった。
次の瞬間、その姿が消えた。
まばたきを3つするあいだに、戻ってきた。
片手にピアをぶら下げていた。
襟首をつまんで、子猫のように。ピアは泥だらけで、目を丸くしていた。けがはない。
その後ろから、犬が2頭ついてきた。
尻尾を振っている。
黒い方はピアを私の横にそっと下ろした。
私はピアを抱きこんで、自分の背中をその方に向けた。何者なのか分からない。分からないものから、妹を隠すことしか考えられなかった。
その方は私たちを見もしなかった。
人買いのほうを向いて、言った。
「その縄を解け。貴様の指でだ」
人買いは腰を抜かしていた。震える手で懐から紙を出した。
「こ、これは正当な取引だ! 証文がある! 法に触れることは何も」
そうだ、と私は思った。
あの紙がある。父さんの字で、私たちの名前が書いてある。どんなに強い方でも、あの紙は消せない。
黒い方はしばらく黙っていた。
何かを読んでいるように、顔が少し上を向いていた。
それから、おっしゃった。
「その紙、数字が泣いているぞ」
人買いの顔から、笑いが消えた。
ひと月前から1度も消えなかったあの笑いが、初めて消えた。
*
人買いは鞭を捨てて、荷馬車の座席の下から革袋を引きずり出した。3つあった。
「か、金ならある! これで見逃してくれ!」
金貨がこぼれた。
焚き火の光の中で、数えきれないほど光っていた。50枚はあったと思う。私とピアの値段を合わせても、まだ20枚余る。
金貨はその方の手を通り抜けた。
地面に落ちて、澄んだ音を立てた。マントに押しこまれても落ちた。3つの袋が全部あけられて、その方の足元に金色の山ができた。
その方は、1つも拾おうとなさらなかった。
足元の金貨を見もしなかった。金色の山のすぐ上で、黒い炎だけが静かに揺れていた。あれほどの金の光も、あの黒には少しも映らなかった。
そして、こうおっしゃった。
「貴様らに値など付けさせぬ」
胸の真ん中を何かが通り抜けた。
「金貨などで我を測るな」
値など、付けさせぬ。
私は18枚だった。
ひと月前に歯を見られたあの日から、ずっと18枚だった。布を染めていても、ピアの髪を結っていても、夜に目を閉じても。私というものの上に、いつも値札が下がっていた。ピアの上には12枚の札が。
値が付いたものは売られる。それだけのことだと、自分に言い聞かせてきた。そう思わなければ、朝に戸口に立てなかった。
この方は、付けさせないのだ。
金貨を山と積まれても。足元に50枚が転がっていても。値を付けることを、誰にも許さない。
貴様らに、とおっしゃった。
あの絹の手袋に。歯を見て、爪を見て、18枚と12枚に分けた指に。
お前たちに、人の値など付けさせない、と。
そういう言葉が、この世にあったのか。
値を付けられたら終わりなのではなかった。付けさせない、と言ってよかったのか。言ってくれる方が、いたのか。
人買いは金貨の山の上に倒れた。
*
証文が地面に落ちていた。
その方はつま先でそれを蹴り上げて、空中でつかんだ。
指のあいだで、紙が粉になった。
父さんの字が。私たちの名前が。5年間、私とピアの上にのしかかっていたものが、灰よりも細かくなって、夜の風に散っていった。後ろで、荷馬車の幌が半分吹き飛んだ。
「……脆い紙だ」
脆い、と。
私たちの5年を縛っていたものを、この方は脆いとおっしゃる。
仮面がこちらを向いた。
私はまだ、ピアを抱いて背中を丸めていた。縄はその方の指が触れただけで切れていた。それでも動けなかった。動いていいのかどうか、分からなかった。誰かに「行っていい」と言われなければ動けない体に、ひと月でなってしまっていた。
その方はおっしゃった。
「もう売り物ではない。好きに生きよ」
売り物では、ない。
その一言で、ひと月ぶら下がっていた札が落ちた。
18枚ではなかった。
私は、ノエミだった。染物屋の娘で、ピアの姉で、母さんの藍を継いだ者だ。それ以外の何でもなかった。初めから、それ以外の何でもなかったのだ。
指先から、その方の姿が薄れていく。
待ってください。
お名前を。せめて、お礼を。
「……夜道に気をつけよ」
それが最後だった。
黒い炎が焚き火の明かりにほどけて、マントの裾が散って、いなくなった。
犬が2頭、その方のいた場所を嗅いでいた。名残惜しそうに、いつまでも。
「姉ちゃん」
腕の中で、ピアが言った。
「嘘ついた。すぐ行くって」
「……うん」
「2回ついた」
「うん。ごめん」
「もう、つかないで」
「つかない」
ピアは私の首にしがみついて、声を上げて泣いた。朝からずっと噛んでいた唇を、やっと開いて。
私も泣いた。
崩れてよかった。もう、崩れても誰にも連れていかれない。
*
茂みから、赤毛の女の子がロバを引いて出てきた。
送るよ、とだけ言った。ピアと私をロバに乗せて、自分は横を歩いた。なぜそこにいたのかは聞かなかった。聞かなくても、あの方のお連れなのだろうと思った。
あの人買いは次の朝に捕まった。
衛兵の詰所の前に、証文の束が山のように積んであったのだそうだ。誰が置いたのかは分からない。何十人ぶんもあって、どれも年季の欄が書き換えてあった。
うちの証文もそうだったらしい。
衛兵が教えてくれた。商会に残っていた控えでは、年季は5年だったと。
5年。
父さんが書いたのは、5年だった。
帰ってこられる年数だ。染め場で5年働けば、21歳で戻れる。ピアは14歳で戻れる。父さんは、私たちが帰ってこられる数字を書いていたのだ。
それを、あの手袋の指が書き換えた。
私は詰所の前で、しゃがみこんで泣いた。
恨みきれなくてつらかった夜が、やっと終わった。
道の脇に放られたあの人のことも、ときどき考える。
あれきり姿を見ていない。肩を打っていた。けがをしていなければいいと思う。
あの人にも、言いたいことがある。
銅貨3枚ではありません、と。
知らない姉妹のために、自分からあの手袋の前に立つ人に、値段など付けられるものですか。
いつかあの人が店の前を通ったら、呼び止めて言おう。それから手ぬぐいを1枚持たせよう。うちの藍で染めたものを。お代はいらない。
*
店は、続けている。
藍の甕は4つとも無事だった。ピアは布を干し、糸を巻き、水を運ぶ。前と同じ仕事だけれど、鼻歌が出るようになった。夜、うなされて起きることはまだある。そのたびに手を握る。もう嘘はつかない。
私は、黒を染めている。
あの夜に見た黒だ。
焚き火の前で燃えていた、あの炎の黒。夜の闇より深くて、金貨の光さえ映さなかった色。
藍を重ねる。1度、2度、10度、20度。乾かして、また浸す。染めるたびに色は沈んでいくけれど、あの黒には届かない。どうしても、青みが残る。
母さんなら、どう染めただろう。
空を煮つめたような藍を出した人だ。闇を煮つめたような黒も、いつか出せたかもしれない。
私には、まだ出せない。
出せないから、毎日染める。
店の看板を新しくした。
白い布の真ん中に炎の形を染め抜いてある。今の私に出せる、いちばん深い黒で。
道を行く人は変わった印だねと言う。何の印かと聞かれる。
私は答える。
「値の付かないものの印です」
ピアが横から口を出す。
「犬にやさしい人の印!」
どちらも本当だと思う。
今朝も30度目の藍に布を沈めた。
甕の底は暗くて、何も見えない。それでも手を入れると、冷たい水の中で、布がゆっくり色を吸っていくのが分かる。
あの方は、値を付けさせなかった。
それなら私も、この黒に値は付けない。
売り物ではない布を、私は生まれて初めて染めている。




