第11話 金貨が手をすり抜ける
東の村から戻ると、借金は銅貨184枚になっていた。
内訳は聞かなかった。聞くと増える気がしたからである。
「今日の情報は60枚ね」
「聞くだけで増えた」
「兄さんに合った話だよ。借金の話」
橋の下で、ペルネッタは帳面をめくった。いつもの軽い口ぶりだったが、目は笑っていなかった。
「下町に染物屋があってさ。親が死んで、姉妹2人でやってる。その親が金貨30枚借りてたんだって」
「金貨30枚」
「銅貨にすると3000枚」
俺の16倍である。上には上がいる。
「返せないから、明日の朝、迎えが来る。姉妹2人とも年季奉公に出されるって」
「年季奉公?」
「年季奉公っていうのは、決まった年数だけ働いて借金を返すやつ。年季が明けたら帰ってこられる。普通はね」
普通はね、の所で声が低くなった。
「誰が連れていくんだ」
「人買い。証文を商会から買い取ったやつがいてさ。国境の向こうへ連れていく」
ペルネッタは帳面を閉じた。
「向こうへ行った子は、帰ってこないよ。年季が明けたって話を、あたしは1回も聞いたことない」
親の借金のかたに売られる姉妹。
主人公だ。しかも2人いる。
ただ、今回は「主人公だ」と思った自分に、少しだけ嫌な気がした。この子の声が、いつもと違ったからである。
「行く」
「うん。でもさ」
この「でもさ」が出る時は、だいたい俺の急所を突いてくる。
「証文は本物だよ。親が借りて、返さないで死んだ。年季奉公は違法じゃない。あいつは殴っていい相手じゃないの。少なくとも、表向きは」
病気は殴れなかった。今度は、殴っていい理由がない。
「金で解決するしかないな」
「兄さんが?」
「俺が」
「マイナス244枚の兄さんが?」
もう60枚足されていた。
「いっそ兄さんを売ったら?」
「俺はいくらになる」
ペルネッタは俺を頭のてっぺんから足の先まで眺めた。目つきが真剣である。真剣に値踏みされている。
「銅貨3枚」
「干し肉と同じじゃないか」
「干し肉は食べられるから」
*
その夜、俺は染物屋の向かいで下見をした。
今回こそ、到着を成功させなければならない。
東の村での失敗は、ピンチが始まった時に高い所にいたことだ。あれで固まった。ならば高い所には登らずに待ち、いざという時にだけ登ればいい。
ただし、いざという時に登っていたら間に合わない。俺は樽に登るのに4回かかる男である。
どうすればいいのか。
こういう時は上司に聞くのが早い。俺は夜空に向かって小声で言った。
「女神様。質問があります」
板が浮かんだ。
――――――――――――――――――
【よくあるご質問】
問:早く着いても固まらない方法はありますか
答:ありません
問:高い所がない場合はどうなりますか
答:登場が遅れます
問:判定に納得がいきません
答:ご注文どおりです
問:黒い炎は何かの役に立ちますか
答:立ちません
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用意されていた。
しかも「よくある」と書いてある。質問しているのは世界で俺1人のはずだ。俺がよく聞くから、まとめておいたということらしい。
いちばん下に、小さく1行あった。
――――――――――――――――――
問:鼻がかゆい時は
答:我慢してください
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それは聞いていない。聞いていないが、聞こうとは思っていた。先回りされている。
夜空に向かって小声で文句を言っていると、夜回りの衛兵に肩をたたかれた。
「誰と話してる」
「上司です」
「どこの」
伯爵邸でも同じことを聞かれた。あれからずいぶんたつのに、いまだにうまい答えがない。
衛兵は俺の腕の細さをしばらく眺めて、何も言わずに行ってしまった。害はないと判定されたらしい。こちらの判定は早い。
結局、何も解決しなかった。
店の2階の窓に、明かりが1つついていた。
誰かが起きている。ときどき影が動いた。何かを数えているような、何かを縫っているような、小さな動きだった。
明かりは、夜明け前まで消えなかった。
*
翌朝、迎えは幌つきの荷馬車で来た。
降りてきたのは、身なりのいい男だった。40歳前後だろうか。絹の手袋をして、髪をなでつけ、香水の匂いをさせている。にこにこしていた。手下を2人連れていて、荷台には犬が2頭つながれていた。
男は戸を、指の背で軽くたたいた。
「おはよう、お嬢さん方。期日だよ」
戸が開いた。
出てきたのは16〜17歳くらいの娘だった。栗色の髪を後ろで1つに結び、指先が藍色に染まっている。目の下が暗い。昨夜の明かりは、この人だったのだ。
娘は戸口をふさぐように立った。
「お金は、ありません」
「知っているとも。だから迎えに来た」
「私が行きます。2人ぶん働きます。妹は置いていってください」
「証文には2人とある」
男は懐から紙を出して、ひらひらと振った。
「それにね。小さいほうは小さいほうで、欲しがる客がいるんだ」
笑ったまま言った。
娘の後ろで、小さな手が前掛けを握るのが見えた。9〜10歳くらいの女の子である。
来た。
ピンチだ。これ以上のピンチがあるか。
俺は物陰で板を待った。
――――――――――――――――――
【判定結果】
対象者の状況:窮地には該当しません
理由:契約に基づく正当な履行です
判定:まだいけます
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「どこが正当なんですか!」
小声で怒鳴った。
「今の聞きましたか。欲しがる客がいるって言ったんですよ。9歳の子に」
板が増えた。
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【補足】
契約内容の当否は、別の部署の管轄です
照会をかけました。回答までしばらくお待ちください
――――――――――――――――――
天界にも縦割りがあるらしい。
しばらくとはどれくらいだ。あの子たちは今、連れていかれるのだ。
スキルは出ない。出ないなら、素で行くしかなかった。
俺は物陰から出て、戸口の前に立った。体力3である。樽もない。逆光もない。
「待ってくれ」
男が振り向いた。にこにこしたままである。
「どなたかな」
「名乗るほどの者ではない」
「では、お引き取りを」
丁寧に断られた。
「その借金、俺が払う」
言ってしまった。
男は初めて、俺の全身を見た。ペルネッタと同じ目つきである。ただし、あの子の目にあった遠慮が、この男にはなかった。
「おいくらお持ちで」
「……マイナス244枚」
「マイナス」
「銅貨で」
「ははあ」
男は楽しそうに笑った。
「借金のある方が、人の借金を払うと。お気持ちは結構ですがね。気持ちで買える物は、この世に1つもないんですよ」
最後の手を出した。
「なら、俺を代わりに連れていけ」
男は絹の手袋をはめ直して、自分で俺の腕をつかんだ。
力こぶを押された。顎をつかまれて、口を開けさせられた。歯を1本ずつ見られた。背中をたたかれ、手のひらを返され、爪の色を調べられた。
馬の買いつけと同じ手順である。
笑えなかった。
手袋ごしの指が冷たい。値踏みされるというのは、こういうことなのか。俺の中身には何の用もなく、歯と腕と背中だけを見られている。
あの姉妹も、これをやられたのだ。
「鍬は持てるかね」
「……持てない」
「荷は」
「袋1つなら」
男は手袋をはずして、手下に渡した。汚れた物にさわったあとのように。
「銅貨3枚。餌代のほうが高くつく」
ペルネッタの査定と1枚も違わなかった。
手下に襟首をつかまれて、道の脇に放られた。体力が2になった。
栗色の髪の娘が、俺を見ていた。
何か言いたそうな顔だった。俺のほうにも言いたいことはあった。すまない。3枚にしかならなかった。
姉妹は荷台に乗せられた。手首に縄がかけられる。姉は妹の肩を抱いて、何か言い聞かせていた。妹は泣かなかった。泣かないように、唇を噛んでいた。
荷馬車が動き出した。
――――――――――――――――――
【判定結果】
判定:まだいけます
補足:照会中です
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板を殴った。手は板を通り抜けて、空を切っただけだった。
*
「国境までは荷馬車で2日。今夜は街道ぞいの森で野営するはず。あいつの決まった場所があるの」
ペルネッタはロバを引いてきた。
「借りた。1日20枚」
「俺につけるのか」
「他に誰につけるの」
借金は264枚になった。今はどうでもよかった。
2人でロバに乗った。ロバは遅かった。体力3の俺が歩くよりは速かったが、それだけである。
「兄さん、静かだね」
「歯を見られた」
「うん。見てた」
「あの子たちも、やられたんだろうな」
「やられたよ。ひと月前に」
ペルネッタは前を向いたまま言った。
「あたしも、やられたことあるから分かる」
それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。ロバの蹄の音だけが続いた。
途中、街道が川を渡る浅瀬で、荷馬車に追いついた。
車輪が石にはまって止まっている。手下の1人が川に入って押していた。足をすべらせて、頭から水に落ちた。
――――――――――――――――――
【登場可能です】
対象者:人買いの手下
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「そっちか!」
叫んでしまった。ペルネッタが俺の口を手でふさいだ。
そっちなのか。姉妹ではなく、縄をかけた側なのか。
だが、溺れている人間を選り好みするのはお助けキャラではない。高い所だ。岩がある。俺はロバから飛び降りて、岩に取りついた。1回落ちた。
手下が立ち上がった。
川は膝までしかなかった。
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【取り消します】
対象者は自力で立ちました
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岩にしがみついたまま、俺は荷馬車が浅瀬を渡っていくのを見送った。
「兄さん、今の何」
「判定の基準が分からない」
「あたしは兄さんが分からない」
*
森の野営地に着いたのは、日が暮れてからだった。
木立の奥に焚き火が見える。荷馬車が止まり、馬がはずされている。犬が2頭、火のそばに伏せていた。
俺とペルネッタは、茂みの中に腹ばいになった。
耳元で羽音がした。蚊である。首を刺された。
かいた。
かける。固まっていないので、かけるのだ。東の村の6時間を思えば、刺されてすぐかけるというのは贅沢な話だった。
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【お知らせ】
蚊による被害:1か所
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今回は数えてもらって構わない。
「兄さん、何にやにやしてんの」
「かけるんだ」
「何が」
今回は木に登らない。登って待てば固まる。地面で待って、板が出てから登る。高い所は、荷台に積んである水樽だ。
樽である。
転生初日に論外と判定した樽が、どこまでもついてくる。
姉妹は、荷馬車の車輪につながれていた。
姉は妹を膝に抱いて、じっと火を見ている。指が動いていた。妹の手首の縄を、少しずつ、少しずつ、ほどいている。染物屋の指だ。結び目のことなら、あの男たちよりよく知っているのだろう。
縄が落ちた。
姉は妹の耳に口を寄せて、何かささやいた。妹が首を振る。姉がもう1度ささやく。
それから姉は、妹の背中を押した。
妹は走った。森の暗いほうへ、小さな足で。
姉は走らなかった。
立ち上がると、反対の方向へ、わざと大きな音を立てて鍋を蹴った。
囮だ。
自分は逃げる気がない。妹が逃げる時間を、自分の体で稼ぐつもりなのだ。
「おやおや」
人買いの男が立ち上がった。まだにこにこしている。
手に、鞭を持っていた。
「商品に傷はつけたくないんだがね。逃げ癖というのは、最初に直しておくものなんだ」
手下が犬の綱を解いた。2頭が吠えながら、妹の消えたほうへ走っていく。
鞭が上がった。
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【登場可能です】
対象者:2名
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来た。
俺は茂みから飛び出して、荷台によじ登った。水樽に手をかける。すべった。もう1度。足がかからない。鞭が上がっている。犬が走っている。間に合わない。
3回目で、樽の上に立った。
鞭は、まだ上がったままだった。
犬の声も、さっきと同じ遠さである。
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【お知らせ】
登場までの猶予は、こちらで調整しております
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「調整できるんじゃないですか!」
樽の上で叫んだ。
できるのか。時間を待ってもらえるのか。それなら東の村で6時間固めなくてもよかったはずだ。あとで言う。絶対に言う。
飛んだ。
*
仮面が顔を覆い、マントが広がった。背中で光の玉がともる。
まず犬だ。
3歩で森の奥にいた。妹は木の根につまずいて倒れていて、犬が2頭、その上に飛びかかろうとしている。
俺は犬の首の後ろをつまんだ。両手に1頭ずつである。
犬は好きだ。前世では近所の柴犬に毎朝あいさつをしていた。傷つけたくない。
よしよし。いい子だから、やめような。
「従え」
2頭とも、その場で腹を見せた。
通じた。
山羊には通じなかった。猪にも通じなかった。犬には通じた。さすが犬である。俺は感動して、腹をなでたかった。腕は組まれた。
妹は泥だらけの顔で、俺を見上げていた。
もう大丈夫だよ。お姉ちゃんの所に戻ろう。
「来い。姉が待っている」
襟首をつまんで持ち上げた。また子猫の持ち方である。抱き上げるという機能が、この体にはない。
焚き火の前に戻ると、鞭はまだ上がったままだった。
人買いの男は、口を開けて俺を見ていた。
その目が、俺の足元から肩のあたりをなぞっている。
見下ろして、気づいた。
黒い炎が、見えている。
夜なのに、である。焚き火だ。赤い火の明かりを背にすると、俺の体から立ちのぼる黒が、炎の形の切り抜きになって浮かび上がっていた。火の光がそこだけ吸いこまれて、向こう側が見えない。
迷宮でも谷の村でも樫の木でも、夜はまったく見えなかった。見えなくても燃えているんです、と強がったあの炎が、今夜は見えている。
そうか。
後ろに明るい物を置けばよかったのだ。
これからは焚き火を持ち歩こう。自前の炎を見せるために、別の炎を焚く。何かがおかしい気もするが、見えるのなら構わない。
光の玉と仮面と黒い炎と、片手にぶら下げた子どもと、後ろからついてくる犬2頭。男が腰を抜かすには十分だったらしい。
「ま、魔族……」
もう慣れた。
妹を姉の横に下ろした。姉は妹を抱きこんで、俺と男のあいだに自分の背中を入れた。まだ守ろうとしている。
その子たちの縄を、ほどいてもらえますか。
「その縄を解け。貴様の指でだ」
絹の手袋のことを、口のほうも覚えていたらしい。
男は腰を抜かしたまま、懐から紙を出した。
「こ、これは正当な取引だ! 証文がある! 法に触れることは何も」
そうなんだ。
そこなんだよ。それで朝から困っている。俺は魔王と同じ強さで、紙1枚に手が出せない。
その時、板が浮かんだ。
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【別の部署より回答】
当該証文の年季の欄に、書き換えの跡を確認しました
本件は正当な履行に該当しません
回答が遅くなりましたことを、お詫び申し上げます
――――――――――――――――――
今か。
今なのか。朝に聞いたことが、夜に返ってきた。天界の別の部署は、返事に丸1日かかる。
だが、返ってきた。
年季を書き換えましたね、と言おうとした。
「その紙、数字が泣いているぞ」
詩的になった。
男の顔から、初めて笑いが消えた。
*
そこからは早かった。
男は鞭を捨て、荷馬車に駆け寄って、座席の下から革袋を引きずり出した。1つではない。3つ出てきた。
「か、金ならある! これで見逃してくれ!」
袋の口から、金色があふれた。
金貨である。
俺は金貨というものを、この世界に来て初めて見た。焚き火を受けて光っている。1枚が銅貨100枚。あの袋3つで、少なくとも50枚はある。
銅貨5000枚。
俺の借金は264枚である。
19回返せる。
もらってはいけない、と頭は言った。人を売って作った金だ。
手は出ていた。
体のほうが正直だった。
男が袋を逆さにして、俺の手のひらに金貨をあけた。
金貨は、手のひらを通り抜けた。
ちゃりん、と地面に落ちた。1枚目も、2枚目も、10枚目も。俺の手に触れた瞬間に、そこに何もないかのように落ちていく。
――――――――――――――――――
【お知らせ】
報酬の受領はできません
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知っている。
注文書に書いた。お礼は一切受け取らない仕組みにしてください、受け取ったら値打ちが下がります、と言った。
ただ「受け取らない」というのは、俺が格好よく断るという意味だと思っていた。差し出された袋を、片手でそっと押し返す。あれがやりたかったのだ。
物理的に受け取れない、とは思わなかった。
男は半泣きで、金貨を俺のマントの内側に押しこんだ。
マントにポケットはなかった。金貨は布を通り抜け、俺の足の甲を通り抜けて、土の上で跳ねた。
2つ目の袋。3つ目の袋。全部、俺の体を上から下まで素通りした。
銅貨5000枚ぶんの金貨が、足元に山になっている。
拾えない。
かがむのは威厳を損なう。
それに。
俺は、後ろの姉妹のことを考えた。
この金は、あの子たちのような誰かを売って作った金だ。何枚だの何枚だのと歯を見て決めて、国境の向こうへ運んで。
ほしいのは本当である。借金は19回返したい。
でも、これは違う。
お金はいらない。本当に、いらない。
「貴様らに値など付けさせぬ」
出た声は、いつもより低かった。
「金貨などで我を測るな」
珍しく、訂正したくならなかった。
朝、銅貨3枚と査定された男が言うことではないのかもしれない。それでも今だけは、口のほうが俺より正しい気がした。
男は白目をむいて、金貨の山の上に倒れた。手下2人は、とっくに森の中へ逃げていた。
*
証文が、地面に落ちていた。
拾おうとしたら、体がかがんでくれなかった。仕方がないので、つま先で引っかけて蹴り上げ、空中でつかんだ。威厳というのは融通がきかない。
破ろう。
書き換えのある証文だ。別の部署のお墨つきもある。
そっと、2つに裂くつもりだった。
紙は粉になった。
ついでに、後ろの荷馬車の幌が半分飛んだ。指先の風圧である。加減はご自身で、と言われてから、俺はまだ1度も加減に成功していない。
「……脆い紙だ」
紙のせいにするな。
姉は、妹を抱いたまま俺を見上げていた。
縄を解くはずの男は、金貨の上でのびている。仕方がないので、姉の手首の縄を指でつまんだ。糸くずのように切れた。それでも姉は動かなかった。動いていいのかどうか、まだ分からないという顔をしていた。
よかったね、と言いたかった。
もう大丈夫だよ。どこにも行かなくていいんだよ。
「もう売り物ではない。好きに生きよ」
直す所は、あまりなかった。
指先が透けはじめる。
――――――――――――――――――
【解決を確認しました】
【退場します】
――――――――――――――――――
待て。
ここは夜の森だ。街まで半日ある。令嬢の時と同じである。助けた相手を、また山の中に置いていくのか。
茂みのほうを見た。ペルネッタが顔を出して、ロバを指さし、自分を指さし、姉妹を指さした。
任せろ、という意味だと思う。
あとで請求が来る、という意味でもあると思う。
「……夜道に気をつけよ」
それだけ言って、俺は森から消えた。
犬が2頭、俺のいた場所を名残惜しそうに嗅いでいた。
*
落ちた先は、暗かった。
石の床である。空気が冷たい。窓がない。手探りで壁に触れると、木の棚があって、布の袋が並んでいた。
袋を持ち上げた。
ずしりと重い。中で硬いものが鳴った。
金だ。
どの袋も金だった。棚の上から下まで、全部である。
そして棚の端に、紙の束があった。
紐でくくって、何十も積んである。いちばん上の1枚を、隙間からの月明かりで読んだ。
証文だった。
名前が書いてある。年齢が書いてある。金額が書いてある。7歳。11歳。14歳。どれも年季の欄に、同じ手の書き換えがあった。
あの男の隠し蔵だ。
追跡不能な場所へ、と俺は注文した。今夜だけは、女神様がわざとここを選んだのではないかと思った。
今の俺は平時である。
手は金をすり抜けない。持てる。この袋を1つ持って出れば、借金が19回返せる。
俺は金の袋を棚に戻した。
紙の束を、全部抱えた。
重かった。体力3には重すぎた。3回に分けて運んだ。裏口の錠は内側からなら開いた。
これは盗みではない。落とし物を届けるだけだ。落とし主は、この紙に名前を書かれた人たちである。
落とし物を届けるのなら、俺は前世で何百回もやっている。
衛兵の詰所の前に紙の束を積んで、戸を3回たたいて、走って逃げた。
名前を聞かれる前に角を曲がる。これも何百回もやってきた。体力3でもできる、俺のたった1つの得意技である。
走りながら採点をした。
高い所。樽。2点。
逆光。支給品。10点。
黒い炎。夜に初めて見えた。加点5点。焚き火のおかげである。
到着。猶予を調整してもらった。採点保留。これについては上司と話がある。
戦闘。犬をなでそこねた。3点。
台詞。9点。今まででいちばん高い。
退場。10点。
報酬。金貨50枚以上。受領0枚。
蔵のほうから、番犬の吠える声が追ってきた。
この世界では、農家は鍬を、漁師は櫂を持って走ってくる。番犬は何も持たずに走ってくるので、いちばん速い。
*
翌日の夕方、橋の下でペルネッタが鍋を火にかけていた。
豆と根菜の煮こみである。湯気が立っている。
「食べなよ。今日はおごり」
「……何枚だ」
「おごりって言ったでしょ」
匙を持つ手が止まった。この子の口から「おごり」という言葉が出たのは初めてである。
「姉妹は家まで送った。ロバに2人乗せて、あたしは歩いた」
「すまん」
「あの人買い、朝には捕まったよ。詰所の前に証文が山ほど積んであったんだって。誰が置いたのか分かんないってさ」
「そうか」
「兄さん、ズボンの裾、犬にかじられてるけど」
「そうか」
ペルネッタは少し笑って、それ以上は言わなかった。
俺は煮こみを口に入れた。熱い。うまい。
「金貨、手を通り抜けたね」
「見てたのか」
「茂みから。50枚はあったよ」
「数えないでくれ」
「拾わなかったね」
「拾えなかったんだ。かがめなくて」
「そのあとの蔵でも?」
匙が止まった。
「……あれは、俺のじゃない」
「ふうん」
ペルネッタは匙をくわえたまま、帳面を開いた。
「兄さんさ。発動してる時は、お金もらえない」
「ああ」
「発動してない時は、体力3で鍬も持てなくて、銅貨3枚」
「……ああ」
「目の前に金があっても持って帰らない」
「ああ」
「この264枚、どうやって返すの」
考えたことがなかった。
お助けキャラの暮らしというものを、俺は1度も考えなかった。登場していない間のことは描かれないので、と笑って手を振った。日常生活のことは、と女神様は聞いてくれたのに。
稼ぐ手段がない。
完璧な仕組みである。完璧に、何も入ってこない。
「……一生、返せないな」
「だろうね」
ペルネッタは帳面を閉じた。
ぱたん、と軽い音がした。
「いいよ。つけとくだけだから」
「取り立てないのか」
「取り立てたら、兄さん、払えなくていなくなるでしょ」
彼女は鍋をかき回しながら、こちらを見ずに言った。
「いなくなられたら、回収できないじゃん」
理屈は通っていた。
毎回通っているのだが、今日のは少しだけ、通り方が違う気がした。
孤高の覇者は、借金264枚のまま、おごりの煮こみを2杯食べた。




