第10話 老兵ガンドルフの最後の畑
わしは、間に合わん男だった。
兵隊を40年やった。13歳で槍を持たされ、30歳で剣を許され、気がつけば隊の誰よりも古株になっていた。生き残るのだけはうまかった。それ以外は、何ひとつ間に合ったためしがない。
倅が生まれた日、わしは北の砦にいた。
知らせが届いたのは3か月後で、帰れたのは倅が歩きはじめてからだった。女房は戸口で赤ん坊を抱いて、わしの顔を見るなり言った。
「遅いよ」
怒ってはいなかった。笑っていた。
わしは答えた。
「待たせたな」
それが決まり文句になった。
遠征から帰るたびに、女房は「遅いよ」と言い、わしは「待たせたな」と言った。倅が背丈を追いこしてからも、それは変わらなかった。
畑は女房のものだった。
男2人が戦に出ているあいだ、あれは1人で土を起こし、種をまき、草を抜いた。帰るといつも、畑のどこかが耕しかけになっていた。
「まだ終わっとらんのか」
「畑ってのはね、耕し終わるってことがないんだよ」
女房は鍬を杖にして、腰を伸ばしながら笑った。
「だから早く帰っておいで。手が足りないんだから」
*
倅には、わしが剣を教えた。
筋がよかった。18歳で同じ隊に入り、20歳でわしの横に並んだ。親子で並んで戦う者は珍しいと、皆にからかわれた。
西の国境の戦でのことだ。
あの日、わしは右の陣にいて、倅は左の陣にいた。昼すぎに左が崩れたと聞いた。わしは持ち場を捨てて走った。捨ててはならん持ち場を捨てて、泥の中を半里走った。
間に合わなかった。
倅は槍を3本受けて倒れていた。まだ温かかった。目は開いていたが、もう何も見ていなかった。握ったままの剣の構えは、わしが教えたとおりだった。
あと少し早ければ。
陣が崩れたと聞いてすぐに走っていれば。いや、初めから左に置いてくれと頼んでいれば。
わしが教えた剣で、倅はわしより先に死んだ。
戦が終わって村に帰ったのは、それから2か月後だ。倅の剣だけを持って帰った。
戸口に女房はいなかった。
隣の婆さんが出てきて、3日前だったと言った。知らせを聞いてから寝ついて、そのまま起きなかったと。最後まで畑のことを気にしていたと。
3日。
たった3日だ。
40年かけて、わしは最後の最後まで間に合わなかった。
畑は、半分だけ耕してあった。
*
樫の木の下に石を3つ置いた。
女房のぶん。倅のぶん。
3つ目は、わしのぶんだ。
どうせ先は長くない。弔ってくれる者もおらん。それなら自分で置いておけば手間がない。
村からは人が減っていった。戦で男手を取られた家は、1軒また1軒と町へ出ていった。隣の婆さんも孫に引きとられた。
わしは残った。
畑を耕した。女房がやりかけた所から始めて、端まで行って、また初めに戻る。耕し終わるということがない。あれの言ったとおりだった。
毎年この時期になると、山から牙猪が下りてくる。
若い頃は何でもなかった。5頭や10頭なら、1人で追い返せた。年ごとに数が増え、年ごとにわしの息は短くなった。
今年は50頭だと、猟師が知らせに来た。
「逃げなされ、ガンドルフさん。あんた1人でどうにかなる数じゃない」
逃げん、と答えた。
逃げてどこへ行くのだ。ここには女房がおる。倅がおる。わしの石もある。
それに、とわしは思った。
ちょうどいい。
畑の前で、剣を持って死ねる。女房の畑を守って、倅に教えた構えのままで。間に合わなかった男の終わり方としては、上等すぎるくらいだ。
今度こそ、遅れずに済む。
*
あの小僧が来たのは、その日の昼だった。
あぜ道に立って、すみません、と言った。
ひょろりとした若いのだ。17歳か18歳か。顔色が悪く、病み上がりのように見えた。旅の者にしては荷も持っておらん。
「道に迷ったか、小僧」
「いえ。この辺で、いちばん高い所はどこでしょうか」
妙なことを聞く。
畑が見渡せて3m以上あると助かります、と小僧は続けた。わしは樫の木を顎でさした。すると今度は、日はどちらに沈むかと聞く。月はどちらから昇るかと聞く。
測量でもないのに地形と光を気にする者を、わしは1種類しか知らん。
斥候だ。
戦の前に地を見る者は、ああいう目をする。どこに立てば敵が見えるか。日を背にできるのはどちらか。
だが、この小僧にそんな気配はなかった。隙だらけで、足音も殺せておらん。
「小僧。お前、何者だ」
「名乗るほどの者ではありません」
胸を張って言うことではなかろうに、小僧はなぜか嬉しそうだった。
茶を出した。
出がらしの麦茶だ。客など何年も来ておらんので、欠けた湯呑みしかなかった。小僧はそれを両手で持って、うまいです、と言った。
世辞はいらんと言ったが、嘘をついている顔ではなかった。
牙猪のことを知っていた。逃げないのか、と聞く。
逃げん、と答えた。
なぜ、と聞く。
答えなかった。樫の下の石を見た。小僧はそれきり聞かなかった。聞いてはならんことが分かる若いのだ、と思った。
何か手伝えることは、と言うので、鍬を持たせてみた。
持ち上がらん。
両手で柄を握って、顔を真っ赤にして、それでも刃が土から離れん。倅が5歳の時でも、もう少しましだった。
わしは鍬を取り上げた。
「帰れ、小僧。茶の礼はいらん」
小僧は頭を下げて、村はずれのほうへ歩いていった。
変なやつだ、と思った。
だが悪い気はしなかった。この畑で誰かと茶を飲んだのは、女房が死んでから初めてだった。
*
日が沈む頃、山が鳴った。
わしは畑の真ん中に立った。倅の剣を抜いた。片足を引いて、切っ先を低く構える。40年やってきた構えだ。
灰色の波が下りてくる。
1頭目は楽だった。2頭目も、3頭目も。体が覚えていた。かわして、首の後ろを斬る。倒れた体を盾にして次を受ける。
畑は踏ません。
それだけを考えていた。
東の山から月が昇った。
その時、妙なものを見た。
樫の木の上に星が1つ引っかかっていた。
枝のあいだに小さな光がある。月ではない。月より低くて、月より近い。葉の陰で、じっと動かずに光っている。
女房か、と思った。
ばかなことを。わしは首を振って、剣を握り直した。それでも、斬るたびに目のすみにあの光が入った。
見ておるのか。
それなら、みっともない戦いはできん。
2時間。3時間。
膝をついた。左腕を牙がかすめた。すぐに立ったが、息が戻らなくなっていた。若い頃なら何でもない傷だ。58歳の体には、こたえた。
4時間目には、樫の木の下まで押しこまれていた。
背中に石がある。3つとも、すぐ後ろだ。
ここまでだな、と思った。
ここより後ろには、下がれん。
頭の上で、ふくろうが鳴いた。あの光はまだそこにあった。手を伸ばせば届きそうなほど近くで、わしを見下ろしていた。
もう少しだ。
もう少しで、そっちへ行く。
今度は遅れん。
*
6時間目に、剣が折れた。
倅の剣だった。
刃の半分が月の光の中を回って、畑の土に刺さった。女房の畑に、倅の剣が刺さった。
わしは振り返って、石を見た。
すまんな、と思った。
それから前を向いて、残った半分を構えた。群れの中から、牙が4本ある主が出てくる。
来い。
その時、頭の上の星が落ちてきた。
樫の木からだった。
黒い影がわしと主のあいだに降り立った。土煙も上がらなかった。畑の手前の、土を踏まぬぎりぎりの所だ。
マントが風もないのに大きく広がる。背中の向こうにあの光があって、姿は影になっていた。頭から目元までを覆う仮面に、片側だけ角がある。足元では、月の光の届かぬ黒いものが、炎の形で揺れていた。
突っこんできた主の牙を、その御方は左手1本で止めた。
そして、わしに背を向けたまま言った。
「待たせたな」
息が止まった。
「よく、持ちこたえた」
折れた剣が手の中で震えた。
その言葉は。
その言葉は、わしのものだ。
戸口で女房に言い続けた言葉だ。倅の亡骸の前で、言えなかった言葉だ。空の戸口の前で、言う相手のいなかった言葉だ。
40年、わしはそれを言う側だった。遅れて着いて、すまんと思いながら、待たせたな、と。
言われたのは、初めてだった。
待っておったのか、わしは。
ここで死ぬと決めて、今度こそ遅れんと決めて。それでも心のどこかで、誰かが来るのを待っておったのか。
よく持ちこたえた、と。
倅に言ってやりたかった。槍を3本受けても構えを崩さなかったあれに、わしはそう言ってやりたかったのだ。
*
そこから先は、戦ではなかった。
その御方は主に向かって一言だけ言った。
「この地を踏むな」
それから、主を抱え上げた。
両手で、そっとだ。荷車より大きな猪を、生まれたての子でも抱くように。そして山の向こうへ、放った。
斬らなかった。
2頭目も、3頭目も同じだった。1頭ずつ抱えては、山の向こうへ放る。畑の土を1歩も踏まずに。
殺さんのだ、とわしは気づいた。
そして、荒らさんのだ。
ここで力を振るえば、畑も石も吹き飛ぶ。それが分かっておられる。だから1頭ずつ、手で運んでおられる。
あれほどの力を持つ方が、年寄りの畑ひとつのために。
「……数が多いな」
そうつぶやかれた時、わしは不覚にも笑いそうになった。
残りの猪は自分から山へ逃げていった。
静かになった。
畑は無事だった。あぜ道も。樫の木も。石も、3つとも。
仮面がこちらを向いた。
「……あんたは」
声が出なかった。やっと出たのは、言うつもりのなかったことだった。
「わしは、ここで死ぬつもりだった」
仮面の御方はしばらく黙っていた。
その沈黙で、分かった。
この方は知っておられる。
樫の上のあの光はこの方だったのだ。6時間、あそこにおられたのだ。
なぜ、もっと早く下りてこられなかったのか。
そう思わなかったと言えば嘘になる。だが、すぐに分かった。
あれは、わしの戦だった。
女房の畑を、倅の剣で守る。それはわしが決めた、わしの最後の戦だ。誰かに横から取られてよいものではなかった。
この方は、待っておられたのだ。
兵が自分の戦を戦い終えるまで、手を出さずに。剣が折れるその時まで、ただ上から見届けて。
それは、武人が武人にする礼だ。
40年兵隊をやって、そんな礼を受けたことは1度もなかった。
御方は言われた。
「死ぬには早い。貴様の畑は、まだ耕し終えておらぬ」
手から、折れた剣が落ちた。
畑ってのはね、耕し終わるってことがないんだよ。
だから早く帰っておいで。
女房の声がすぐ耳元でした。
そうか。
そうだったな。
耕し終わらんのだ、この畑は。終わらんものを置いて、わしは楽なほうへ行こうとしておった。今度こそ間に合うなどと言って。
あれはきっと、戸口で言うだろう。
早すぎるよ、と。
*
御方はもう一言だけ残された。
「……茶の礼だ」
茶。
意味が分からなかった。わしはこの方に茶など出しておらん。出したのは昼間の、あの妙な小僧に。
御方の指先が月の光に透けはじめていた。
「さらばだ、老兵」
手を伸ばした。届かなかった。
マントの裾が月の光の中に散って、仮面が薄れて、いなくなった。光のあった所には、蛾が何匹か、行き場をなくして舞っていた。
わしは畑の前に座りこんだ。
夜が明けるまで、そこにいた。
明るくなってから、ようやく頭が回りはじめた。
高い所はどこか、とあの小僧は聞いた。日はどちらに沈むか。月はどちらから昇るか。
下見です、と言った。
斥候だと、わしは思ったのだ。あの時たしかに。
あれは、あの御方の従者だ。
主が降り立つ場所を、前もって確かめに来たのだ。だから高い所を聞いた。だから月の出を聞いた。御方は月を背にして、あの樫から下りてこられた。
そして、茶の礼だと。
従者に出した、出がらしの麦茶1杯。
欠けた湯呑みの、薄い茶だ。
それに、あの方は命で報いてくださった。
わしは声を上げて泣いた。女房の時も倅の時も出なかった声が、58歳にもなって出た。
*
朝のうちに、畑に刺さった刃を抜いた。
倅の剣は、柄と一緒に布でくるんで、倅の石の前に埋めた。よく持ちこたえた、と声に出して言った。5年遅れたが、やっと言えた。
それから、3つ目の石を持ち上げた。
重かった。置いた時より重く感じた。年を取ったのか、石のほうが居座る気でおったのか。
家の戸口まで運んで、軒の下に据えた。
腰かけにちょうどいい。
客が来た時に、座らせる所がなかったのだ。
腕に布を巻いて、鍬を取った。昨夜の続きから耕す。土は固かったが、刃はまっすぐに入った。
ひと畝起こしたところで、村の入り口まで歩いた。まだ朝のうちだった。
赤毛の娘が1人、荷を抱えて立っていた。
「小僧を見なかったか。ひょろりとした、顔色の悪いのだ」
娘は妙な顔をした。
わしは話した。あの小僧は、あの御方の従者に違いないこと。主のために下見をしておったこと。薄い茶1杯に、命で返していただいたこと。
話しているうちに、また目から水が出た。年寄りは締まりがなくていかん。
「会ったら、伝えてくれんか」
「何を」
「主によろしく、と。次は濃いのを淹れる」
娘はなぜか口を押さえて、肩を震わせていた。もらい泣きをしてくれたのだろう。優しい娘だ。
帰り道、わしは考えた。
あの小僧は鍬も持てなんだ。
あれでは従者は務まらん。あれほどの御方に仕える者が、鍬の1本も振れんでどうする。主の荷を持つにも、主の馬を引くにも、まず腰と腕だ。
誰かが鍛えてやらねばならん。
剣なら、教えられる。
倅に教えた剣だ。わしより先に死なせてしまった剣だ。もう2度と誰にも教えまいと思っていた。
だが、あの小僧なら。
あの御方のそばにおる者なら、わしより先に死ぬことはあるまい。
畑の前まで戻ると、樫の木が風に鳴っていた。石は2つになっていた。
鍬を握った。
耕し終わることのない畑を、わしはまた端から耕しはじめた。
今度は、待つ側だ。
次にあの小僧が来たら、濃い茶を出して、戸口の石に座らせて、まず鍬の握り方から教えてやる。
遅いぞ、と言ってやるのだ。




