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ディストピア9:摂氏52度の空は、なぜ青かったのか  作者: 沁みた大根


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第7話「咳」

朝だった。


光はある。

だが、空気は重い。


昨日の煙は消えている。

それでも、喉に何かが残っているような感覚があった。


ユウトは歩いていた。


子どもは少し後ろを歩く。

距離がある。


昨日までは、手を握っていた。


今日は、違う。


理由は言葉にしなくても分かる。


前方に、人影が見える。


建物の入口。

扉の前に、ひとり立っている。


近づく。


その人は、ゆっくりとこちらを見る。


目が合う。


一歩、後ずさる。


わずかな距離。


それだけで、十分だった。


「感染症の可能性があります」


少女が言う。


「接触は推奨されません」


ユウトは足を止める。


その人は何も言わない。


ただ、立っている。


風はない。


音も少ない。


静止した空間。


そのとき——


咳が出た。


短く、乾いた音。


その人の口元が歪む。


次の瞬間、


扉が開いた。


中から、誰かが顔を出す。


一瞬だけ外を見る。


状況を理解する。


そして——


扉を閉めた。


速かった。


迷いがなかった。


音が響く。


重い音。


その人は動かない。


ただ、扉を見ている。


ノックはしない。


もう分かっているからだ。


ユウトは見ていた。


何も言えない。


何もできない。


少女が静かに言う。


「隔離行動は合理的です」


正しい。


間違っていない。


その人は、ゆっくりと座り込む。


壁にもたれる。


呼吸が浅い。


咳が、また出る。


今度は長い。


体が揺れる。


ユウトはポケットを探る。


何もない。


水は、もうない。


視線が落ちる。


地面。


乾いた土。


何もない。


猫が、ゆっくりと近づく。


ためらいがない。


その人のすぐそばまで行く。


座る。


距離が近い。


近すぎる。


少女が言う。


「リスクが高い行動です」


猫は動かない。


ただ、そこにいる。


その人の呼吸が少しだけ落ち着く。


理由は分からない。


ただ、少しだけ。


ユウトは立っている。


動けない。


行けば、危険。


行かなければ——


それも分かっている。


ユウトは、ゆっくりと歩き出す。


その人の方へではない。


少し離れた場所へ。


地面に、小さな容器を置く。


中身は空だ。


それでも置く。


それから、数歩下がる。


距離を保つ。


完全に離れない。


その中間。


その人は、それを見る。


しばらく動かない。


やがて、手を伸ばす。


容器を引き寄せる。


中を覗く。


何もない。


それでも、持つ。


指が震えている。


ユウトは、それ以上近づかない。


猫が、ゆっくりと立ち上がる。


一歩、離れる。


その人はひとりになる。


完全ではないが、ほとんど。


少女が言う。


「その行為は、生存確率に寄与しません」


ユウトは答えない。


ただ、その場に少しだけ立つ。


それから、背を向ける。


歩き出す。


子どもが後ろからついてくる。


距離は、まだある。


それでも、離れすぎてはいない。


空は変わらない。


世界も変わらない。


咳の音だけが、少しずつ遠くなる。


それでも——


完全には消えなかった。

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