第7話「咳」
朝だった。
光はある。
だが、空気は重い。
昨日の煙は消えている。
それでも、喉に何かが残っているような感覚があった。
ユウトは歩いていた。
子どもは少し後ろを歩く。
距離がある。
昨日までは、手を握っていた。
今日は、違う。
理由は言葉にしなくても分かる。
前方に、人影が見える。
建物の入口。
扉の前に、ひとり立っている。
近づく。
その人は、ゆっくりとこちらを見る。
目が合う。
一歩、後ずさる。
わずかな距離。
それだけで、十分だった。
「感染症の可能性があります」
少女が言う。
「接触は推奨されません」
ユウトは足を止める。
その人は何も言わない。
ただ、立っている。
風はない。
音も少ない。
静止した空間。
そのとき——
咳が出た。
短く、乾いた音。
その人の口元が歪む。
次の瞬間、
扉が開いた。
中から、誰かが顔を出す。
一瞬だけ外を見る。
状況を理解する。
そして——
扉を閉めた。
速かった。
迷いがなかった。
音が響く。
重い音。
その人は動かない。
ただ、扉を見ている。
ノックはしない。
もう分かっているからだ。
ユウトは見ていた。
何も言えない。
何もできない。
少女が静かに言う。
「隔離行動は合理的です」
正しい。
間違っていない。
その人は、ゆっくりと座り込む。
壁にもたれる。
呼吸が浅い。
咳が、また出る。
今度は長い。
体が揺れる。
ユウトはポケットを探る。
何もない。
水は、もうない。
視線が落ちる。
地面。
乾いた土。
何もない。
猫が、ゆっくりと近づく。
ためらいがない。
その人のすぐそばまで行く。
座る。
距離が近い。
近すぎる。
少女が言う。
「リスクが高い行動です」
猫は動かない。
ただ、そこにいる。
その人の呼吸が少しだけ落ち着く。
理由は分からない。
ただ、少しだけ。
ユウトは立っている。
動けない。
行けば、危険。
行かなければ——
それも分かっている。
ユウトは、ゆっくりと歩き出す。
その人の方へではない。
少し離れた場所へ。
地面に、小さな容器を置く。
中身は空だ。
それでも置く。
それから、数歩下がる。
距離を保つ。
完全に離れない。
その中間。
その人は、それを見る。
しばらく動かない。
やがて、手を伸ばす。
容器を引き寄せる。
中を覗く。
何もない。
それでも、持つ。
指が震えている。
ユウトは、それ以上近づかない。
猫が、ゆっくりと立ち上がる。
一歩、離れる。
その人はひとりになる。
完全ではないが、ほとんど。
少女が言う。
「その行為は、生存確率に寄与しません」
ユウトは答えない。
ただ、その場に少しだけ立つ。
それから、背を向ける。
歩き出す。
子どもが後ろからついてくる。
距離は、まだある。
それでも、離れすぎてはいない。
空は変わらない。
世界も変わらない。
咳の音だけが、少しずつ遠くなる。
それでも——
完全には消えなかった。




