第5話「煙」
最初は、匂いだった。
焦げたような、乾いた匂い。
喉の奥に引っかかる。
ユウトは立ち止まる。
空を見る。
白いはずの空が、どこか濁っている。
遠くに、薄い線が立っている。
煙だ。
時間が経つにつれて、それは太くなる。
ゆっくりと、しかし確実に、広がっていく。
風はない。
それでも煙は動く。
空そのものが流れているように。
「大規模火災の可能性があります」
少女が言う。
「風向きから判断して、この地点にも影響が及びます」
ユウトは答えない。
息を吸う。
少しだけ、咳き込む。
後ろで、小さな足音。
猫は変わらず歩いている。
尾の火が、わずかに強くなっているように見えた。
歩き出す。
だが、数歩で足を止める。
視界が、変わる。
煙が、低く降りてきている。
建物の輪郭が曖昧になる。
色が失われる。
音も、鈍くなる。
世界が、くぐもる。
遠くで、子どもの声がした。
泣いている。
短く、途切れながら。
ユウトはそちらを見る。
建物の影。
半分崩れた壁のそば。
小さな影がうずくまっている。
周囲に、大人はいない。
少女が言う。
「視界不良が進行しています」
「呼吸器への影響も——」
言い終わる前に、ユウトは動いていた。
服の裾を引き裂く。
手元が震える。
うまく裂けない。
それでも、力を込める。
布を二つに分ける。
近くに残っていた水。
ほとんど空だが、少しだけ残っている。
それを布に染み込ませる。
一枚を自分に。
もう一枚を、その子どもに。
近づく。
子どもは顔を上げる。
目が赤い。
涙と煙で、視界が滲んでいる。
言葉は出ない。
ただ、布を差し出す。
口元に当てる仕草をする。
子どもは、少し遅れて真似をする。
呼吸が、少しだけ落ち着く。
ユウトは手を取る。
立たせる。
軽い。
驚くほど軽い。
「移動を推奨します」
少女の声。
ユウトはうなずく。
歩き出す。
煙の中を。
視界は悪い。
数メートル先が、もう曖昧だ。
それでも、前に進む。
後ろから、猫の足音。
迷いがない。
ときどき、少し前に出る。
道を知っているかのように。
ユウトは、その後を追う。
子どもの手を引いたまま。
しばらくして——
少しだけ、空気が変わる。
煙が薄くなる。
色が戻る。
輪郭が戻る。
ユウトは立ち止まる。
子どもも止まる。
布を外す。
大きく息を吸う。
むせる。
それでも、さっきよりはましだ。
子どもは何も言わない。
ただ、ユウトの手を握ったまま離さない。
少女がこちらを見る。
「その行為は、合理的ではありません」
いつもの言葉。
少しの間。
ユウトは、子どもの手を見る。
それから、答える。
「……だろうな」
猫が、すぐそばで座る。
尾の火が、静かに揺れている。
煙はまだ遠くで続いている。
空は濁っている。
世界は、変わっていない。
それでも——
ユウトは、その手を離さなかった。




