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ディストピア9:摂氏52度の空は、なぜ青かったのか  作者: 沁みた大根


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第5話「煙」

最初は、匂いだった。


焦げたような、乾いた匂い。

喉の奥に引っかかる。


ユウトは立ち止まる。


空を見る。


白いはずの空が、どこか濁っている。


遠くに、薄い線が立っている。

煙だ。


時間が経つにつれて、それは太くなる。

ゆっくりと、しかし確実に、広がっていく。


風はない。


それでも煙は動く。

空そのものが流れているように。


「大規模火災の可能性があります」


少女が言う。


「風向きから判断して、この地点にも影響が及びます」


ユウトは答えない。


息を吸う。


少しだけ、咳き込む。


後ろで、小さな足音。


猫は変わらず歩いている。


尾の火が、わずかに強くなっているように見えた。


歩き出す。


だが、数歩で足を止める。


視界が、変わる。


煙が、低く降りてきている。


建物の輪郭が曖昧になる。

色が失われる。


音も、鈍くなる。


世界が、くぐもる。


遠くで、子どもの声がした。


泣いている。


短く、途切れながら。


ユウトはそちらを見る。


建物の影。

半分崩れた壁のそば。


小さな影がうずくまっている。


周囲に、大人はいない。


少女が言う。


「視界不良が進行しています」


「呼吸器への影響も——」


言い終わる前に、ユウトは動いていた。


服の裾を引き裂く。


手元が震える。

うまく裂けない。


それでも、力を込める。


布を二つに分ける。


近くに残っていた水。


ほとんど空だが、少しだけ残っている。


それを布に染み込ませる。


一枚を自分に。

もう一枚を、その子どもに。


近づく。


子どもは顔を上げる。


目が赤い。

涙と煙で、視界が滲んでいる。


言葉は出ない。


ただ、布を差し出す。


口元に当てる仕草をする。


子どもは、少し遅れて真似をする。


呼吸が、少しだけ落ち着く。


ユウトは手を取る。


立たせる。


軽い。


驚くほど軽い。


「移動を推奨します」


少女の声。


ユウトはうなずく。


歩き出す。


煙の中を。


視界は悪い。


数メートル先が、もう曖昧だ。


それでも、前に進む。


後ろから、猫の足音。


迷いがない。


ときどき、少し前に出る。


道を知っているかのように。


ユウトは、その後を追う。


子どもの手を引いたまま。


しばらくして——


少しだけ、空気が変わる。


煙が薄くなる。


色が戻る。


輪郭が戻る。


ユウトは立ち止まる。


子どもも止まる。


布を外す。


大きく息を吸う。


むせる。


それでも、さっきよりはましだ。


子どもは何も言わない。


ただ、ユウトの手を握ったまま離さない。


少女がこちらを見る。


「その行為は、合理的ではありません」


いつもの言葉。


少しの間。


ユウトは、子どもの手を見る。


それから、答える。


「……だろうな」


猫が、すぐそばで座る。


尾の火が、静かに揺れている。


煙はまだ遠くで続いている。


空は濁っている。


世界は、変わっていない。


それでも——


ユウトは、その手を離さなかった。

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