第7話 知らない感情
ベルンシュタイン伯爵夫人が帰ったあと、応接室には妙な静けさが残った。
エレーナはソファに座ったまま、じわじわと顔が熱くなるのを感じていた。
……思い出してしまったのだ。
『新しい噂』。
あの意味深な視線。
どう考えても、“公爵と伯爵令嬢”の話だった。
「……違うのに」
ぽつりと呟く。
「何がだ」
向かいから即座に返事が来た。
ヴァルターがまだいた。
帰っていなかった。
エレーナは軽く肩を跳ねさせる。
「まだいらしたんですか」
「護衛を兼ねると言っただろう」
「公爵閣下が?」
「何度も聞くな」
ヴァルターは淡々と紅茶を飲んだ。
どうやら本当に帰る気がないらしい。
しかも自然にアシュフォード家の紅茶を飲んでいる。
ハンスも止めなかったので、もう誰もツッコまない方針なのかもしれない。
「……伯爵夫人の言葉、気にしているのか」
不意にそう言われて、エレーナは視線を上げた。
ヴァルターは紅茶のカップを置きながらこちらを見ている。
相変わらず表情は薄い。
でも、観察するような目だった。
「まあ、少しは」
「なぜ」
「なぜって……」
エレーナは言葉に詰まる。
貴族社会において、“噂”は軽くない。
特にヴァルターほどの立場なら尚更だ。
「閣下に迷惑がかかるかもしれませんし」
「別に困らん」
即答だった。
エレーナは瞬きをする。
「困らないんですか?」
「ああ」
「公爵ですよね?」
「そうだ」
「女性関係の噂とか」
「興味がない」
あまりにも迷いなく言われたせいで、エレーナは逆に黙ってしまった。
ヴァルターは腕を組む。
「噂で魔力は揺れない」
「基準が全部そこなんですか」
「重要だろう」
「それは、そうですけど……」
エレーナはなんとなく脱力した。
この人、本当に恋愛方面の機微が壊滅的なのでは。
そのときだった。
ヴァルターがふいに眉を寄せた。
「……また乱れている」
「え?」
「魔力だ」
エレーナは反射的に息を呑む。
すると指先がぱちりと光った。
「うわっ」
「動揺するな」
「無茶言わないでください!」
「さっきから感情の起伏が激しい」
「誰のせいだと……!」
言いかけた瞬間だった。
ヴァルターが立ち上がる。
次の瞬間、エレーナのすぐ目の前まで距離が詰まっていた。
「ひゃっ」
「だから力むな」
低い声。
近い。
近い近い近い。
エレーナの心臓が跳ねる。
ヴァルターはそんな彼女を気にした様子もなく、片手を伸ばした。
長い指が、エレーナの手首を軽く掴む。
「……っ」
触れられた瞬間、銀色の魔力が流れ込んできた。
冷たい。
けれど不思議と心地いい。
暴れていた熱が、ゆっくり落ち着いていく。
「呼吸」
「……はい」
「もっとゆっくりだ」
言われた通り息を整える。
すると、本当に少しずつ楽になってきた。
エレーナは小さく息を吐く。
「……毎回思うんですけど」
「なんだ」
「閣下の魔力、落ち着きますね」
ヴァルターが僅かに目を細めた。
「相性がいいからだ」
「それだけですか?」
「それ以外に何がある」
真顔だった。
エレーナはじっとその顔を見る。
本当にわかっていない顔だ。
この人、自分がどれだけ特別なことをしているのか理解していない。
魔力を落ち着かせるためとはいえ、こうして頻繁に触れるのは、貴族社会ではかなり距離が近いはずだ。
でもヴァルターには、そういう意識がまるでない。
「……閣下って」
「なんだ」
「女性に慣れてません?」
ぴたり、と空気が止まった。
ヴァルターが沈黙する。
数秒。
その沈黙が妙に長かった。
「……なぜそうなる」
「いや、その」
エレーナは少し迷う。
「距離が近いので」
「必要だからだ」
「それはわかりますけど」
「他意はない」
きっぱり言われた。
エレーナはなぜだか少しだけ胸がもやっとした。
……いや、別に変な意味ではなく。
たぶん。
「お前こそ」
「え?」
「前世ではどうだった」
「どう、とは」
「男だ」
今度はエレーナが固まる番だった。
「なっ……」
「恋人の一人くらいいたんじゃないのか」
「いませんでした!」
反射的に叫んでいた。
ヴァルターが少し目を見開く。
「そうなのか」
「そうなのかって」
「意外だな」
「どこがですか!?」
エレーナは本気で抗議した。
前世の菜月は受験勉強一筋だった。
恋愛経験など、びっくりするほどない。
というか、男子とまともに話した記憶すら薄い。
「時間がなかったので……」
言った瞬間、少しだけ空気が静かになる。
ヴァルターの視線が落ちた。
「……そうか」
その声は、さっきまでより低かった。
エレーナは瞬きをする。
「閣下?」
「いや」
ヴァルターはゆっくり手を離した。
でもその表情はどこか険しかった。
「お前は、ずっと余裕がなかったんだな」
その言葉に、エレーナは返事を失う。
前世でも。
今世でも。
たしかに、余裕なんてなかった。
必要とされるために頑張って。
嫌われないように気を遣って。
“ちゃんとしていること”ばかり考えていた。
「……今は、少し違います」
ぽつりとエレーナは言う。
「違う?」
「はい」
窓の外を見る。
庭では、ルクレツィアが風に揺れていた。
「今は、ちゃんと楽しいです」
ヴァルターがこちらを見る。
エレーナは少し笑った。
「花の名前を覚えたりとか」
「……それは随分小さいな」
「最初はそれくらいでいいんです」
前世では、そんなことを考える余裕もなかったのだから。
ヴァルターはしばらく黙っていた。
それから不意に、低く呟く。
「なら、もっと増やせ」
「え?」
「楽しいことだ」
エレーナは目を瞬いた。
ヴァルターは視線を逸らしたまま続ける。
「お前は、それを覚えた方がいい」
不器用な言い方だった。
でもその声音は、驚くほど優しかった。




