第6話 噂好きの貴族たち
午後になって、アシュフォード家に来客があった。
正確には、“押しかけてきた”に近かった。
「ベルンシュタイン伯爵夫人がお見えです」
ハンスの報告を聞いた瞬間、エレーナは察した。
ああ、来たな、と。
貴族社会は早い。
婚約破棄の話など、半日もあれば王都中へ広がる。
しかも今回は相手が侯爵家だ。
噂好きの貴婦人たちにとって、格好の話題だろう。
エレーナは紅茶のカップを置いた。
「お父様は?」
「まだお戻りではありません」
「……そう」
つまり、自分で対応しろということらしい。
別に嫌ではない。
むしろ少しだけ、試してみたい気持ちがあった。
前世の菜月なら、こういう“探り合いの場”は苦手だった。
でも今のエレーナは違う。
少なくとも、以前ほど怯えてはいなかった。
「応接室へ」
「かしこまりました」
立ち上がりながら、エレーナは小さく息を吐く。
さて。
今日はどんな言葉で刺してくるのだろう。
応接室へ入ると、香水の匂いがした。
甘くて重い香り。
ソファに座っていた女性が、ゆっくりこちらを見る。
ベルンシュタイン伯爵夫人――マルグリットは、四十代半ばほどの女性だった。
鮮やかな赤毛を丁寧に結い上げ、宝石をこれでもかと身につけている。
派手な人だ、とエレーナは思った。
「まあ、エレーナ様」
声だけは妙に親しげだった。
「お久しぶりですわ」
「ご無沙汰しております、伯爵夫人」
エレーナは礼を取る。
マルグリットは扇を口元へ当て、じっとエレーナを見た。
観察されている。
たぶん、“婚約破棄された令嬢”がどんな顔をしているか見に来たのだ。
「突然伺ってしまってごめんなさいね。でも心配で」
「ありがとうございます」
「本当に驚きましたわ。まさかイグナーツ様との婚約が、あのような形になるなんて」
来た。
エレーナは内心で思った。
予想通りすぎて逆に安心する。
「貴族の婚約には色々ありますので」
穏やかに返すと、マルグリットは少しだけ目を細めた。
たぶん、泣き腫らした顔でも期待していたのだろう。
「……エレーナ様はお強いのね」
「そうでしょうか」
「だって普通、あの場で婚約破棄を受けたら立ち直れませんわ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
妙に力強く断言された。
エレーナは少し困る。
前世の記憶が戻ったせいで、自分でも感情の位置がよくわからないのだ。
悲しくなかったわけではない。
でも、絶望もしなかった。
むしろ、どこか解放された気持ちの方が強かった。
「……案外、すっきりしているのかもしれません」
ぽつりと零すと、マルグリットが目を丸くした。
「まあ」
「婚約者として好かれていないことは、なんとなくわかっていましたので」
空気が少し静まる。
マルグリットの目が、ほんの少し変わった。
同情でも好奇心でもなく、別の色。
たぶん、“理解”に近いものだった。
「……あなた、本当に変わったわね」
「そうですか?」
「以前はもっと、こう……息苦しそうだったもの」
エレーナは瞬きをした。
そんなふうに見えていたのか。
マルグリットは扇を閉じる。
「昔のお茶会では、いつも周囲に合わせようとしていたでしょう?」
「……そう、だったかもしれません」
「でも今は違うわ」
伯爵夫人はじっとエレーナを見た。
「肩の力が抜けている」
その言葉に、エレーナは少しだけ考える。
前世の記憶が戻ったから。
婚約がなくなったから。
理由はたぶん、ひとつじゃない。
でも。
“自分のために生きよう”と思ったことが、一番大きかった気がした。
そのときだった。
廊下の向こうで、使用人たちがざわつく気配がした。
エレーナが顔を上げる。
次の瞬間、応接室の扉がノックされた。
「お嬢様」
ハンスの声だった。
「ケストナー公爵閣下がお見えです」
空気が変わった。
マルグリットの目が見開かれる。
「……ケストナー公爵?」
その反応を見て、エレーナは改めて思った。
やっぱりこの人、相当すごい立場らしい。
「通してください」
ハンスが扉を開ける。
ヴァルターが入ってきた。
今日も黒に近い濃紺の服。
無駄のない足取り。
部屋へ入った瞬間、空気が静まるような感覚があった。
ヴァルターはまずエレーナを見た。
「顔色は」
「大丈夫です」
「魔力は」
「今のところ安定してます」
「そうか」
確認はそれだけだった。
けれどマルグリットは、呆然とした顔で二人を見ている。
無理もない。
帝国最強の公爵が、伯爵令嬢の体調確認をしに来ているのだ。
しかも妙に距離感が近い。
「あ、あの……ケストナー公爵閣下」
マルグリットが恐る恐る声をかける。
ヴァルターはようやくそちらを見た。
「誰だ」
ひどい。
エレーナですら内心で思った。
マルグリットもさすがに固まっている。
「あの、ベルンシュタイン伯爵家の――」
「そうか」
興味がなかった。
完全に。
ヴァルターはそれだけ言うと、再びエレーナを見る。
「今日は無理をするな」
「してません」
「お前は自覚なくする」
「信用がない……」
「ないな」
即答だった。
エレーナは微妙な顔になる。
そのやり取りを見ていたマルグリットが、なぜか急に扇で口元を隠した。
肩が震えている。
「……伯爵夫人?」
「い、いえ。失礼」
どう見ても笑っていた。
ヴァルターが怪訝そうに眉を寄せる。
「何がおかしい」
「いいえ、ただ……」
マルグリットはにこりと笑った。
「エレーナ様に、こんなふうに話す殿方がいるとは思いませんでしたので」
その瞬間、部屋が静かになった。
エレーナは瞬きをする。
ヴァルターは無表情だった。
でも数秒後。
「……そういうものか?」
本気でわかっていなさそうな声だった。
マルグリットはついに吹き出した。
「ふふっ……公爵閣下、本当に変わったお方ですのね」
ヴァルターは不服そうだった。
けれどエレーナは、なんだか少しおかしくなってしまった。
この人、本当に無自覚なんだ。
怖がられているとか。
特別扱いされているとか。
たぶん、あまり気にしていない。
「……エレーナ様」
マルグリットがふいに、小さな声で言った。
「社交界は噂が広がるのが早いですわ」
「はい」
「でも同じくらい、“新しい噂”も好きなの」
意味深な声音だった。
エレーナが首を傾げると、マルグリットはちらりとヴァルターを見る。
「ですから、あまり気を落とさなくても大丈夫ですわ」
その視線の意味を理解するのに、エレーナは三秒かかった。
そして理解した瞬間、顔が熱くなる。
「ち、違いますからね!?」
「何がだ」
ヴァルターが真顔で聞いてくる。
お願いだからそこで入ってこないでほしい、とエレーナは思った。




